脈絡がなくて恐縮だが、加藤泰監督を思い出した。
間違っている映画と正しい映画ってあるのだろうか?
評価軸がいくつかあって難しい。
「ありえねー画面だ」とか、「まちがった時代考証だ」なんて『パールハーバー』に言ったところで負け犬の遠吠えだろう。なんたって稼いだんだから。
しかし、映像物語は観客に感情移入させる時間の共有が前提となるから、ある程度の迫真性やリアリティは必要になる。
したがって映像物語製作上もっとも手っ取り早くリアリティを加える方法はネオレアリスモとなろう。さもなくばドキュメンタリーだ。断っておくが手っ取り早く=安直というわけではない。
『炎のランナー』やデビッド・リーン監督の諸作品などはどう見ても大英帝国のイヤラシサまるだしだろーと今でも言う人が多いが、それを補って余りある映画表現を無視できない。
山本薩夫監督作品のいくつかも「何勘違いしてんだ」とも受け取れるが、マネのできない演出力を目のあたりにすると、スゲーとも感じてしまう。
作者、スタッフが信じてもいないことをあたかも現実のように描出するのには限界があるということ。ファンタジー作品を妄想の産物と切り捨てるなら、『ハリー・ポッター』シリーズは続くはずがないし。
つまり、一部のコメディを除いて、作品世界の内側においては、設定されたルールを厳守することが求められる。
そのルールをご都合主義でコロコロ変えるのは間違っている作品だ(富野由悠季作品については別稿で)。
では正しい映画とは?となるとさらに難しい。比較的わかりやすい例として同監督作品『許されざる者』を持ってくる。
冷酷なガンマン、ウィル・マニーは連れ合いと一緒になって変わった。子供をもうけ、養豚にいそしんでいる。この設定自体は殊更に説明はされない。私たちの周囲にも所帯持ちになって変わった者なら、実例などすぐに思い出せる。しかし、そんなオヤジが残忍冷酷な人殺しに戻る過程となると、コトは単純ではない。
たとえステレオタイプをひっくり返している設定とはいえ、図式的すぎるくらいわかりやすい人物配置は、実際にジーン・ハックマン扮する保安官が、本編中一発も銃を撃たないことからも明らかだ(悪党よりも残虐な堅気については別の議論)。
だから、「結婚して変わった」というなじみのエピソードで、最初からひっくりかえされている人物設定を観客に納得させ、それがさらに殺人者に戻る物語を雨中のクライマックスで描出したのだ。
もちろんウィル・マニーは許されてなどいない。畳の上で死ねないことなど本人が一番自覚していることだろう。正しいとは決められないが、間違っていない映画と言えよう。
そして「グラン・トリノ」。評価はウェブ上で多く語られているので蛇足は避けたい。
話をリアリティに戻すと、クリント・イーストウッドさんが最もリアルに演じれるのは元はタフガイの偏屈じいさんとなる。悪く言えば安直、良く言えば堅実だ。
本作は決して正しい作品とは言いがたい。物語世界内でルールを変えているからだ。
ただし、それをやるなら、本作品の場合ならゴリゴリの人種差別主義者。が変容する過程を描かねばならぬ。ここでは異なる人種との交流物語が、漢の成長譚として、いや、人生のケリのつけかたとして語られる。ハードボイルドである。
『許されざる者』が人殺しの何たるか?なら、本作は人に銃を向けることの何たるか?だろう。
登場人物たちからは悪口雑言スラングが頻出するし、ウォルトも差別意識の懺悔などしてはいまい。それでもフィルムは若者たちに「殺すんじゃねえ」と殺されに行く、生き死に様(造語)がもつ矛盾を、見せた。
間違っている映画と正しい映画ってあるのだろうか?
評価軸がいくつかあって難しい。
「ありえねー画面だ」とか、「まちがった時代考証だ」なんて『パールハーバー』に言ったところで負け犬の遠吠えだろう。なんたって稼いだんだから。
しかし、映像物語は観客に感情移入させる時間の共有が前提となるから、ある程度の迫真性やリアリティは必要になる。
したがって映像物語製作上もっとも手っ取り早くリアリティを加える方法はネオレアリスモとなろう。さもなくばドキュメンタリーだ。断っておくが手っ取り早く=安直というわけではない。
『炎のランナー』やデビッド・リーン監督の諸作品などはどう見ても大英帝国のイヤラシサまるだしだろーと今でも言う人が多いが、それを補って余りある映画表現を無視できない。
山本薩夫監督作品のいくつかも「何勘違いしてんだ」とも受け取れるが、マネのできない演出力を目のあたりにすると、スゲーとも感じてしまう。
作者、スタッフが信じてもいないことをあたかも現実のように描出するのには限界があるということ。ファンタジー作品を妄想の産物と切り捨てるなら、『ハリー・ポッター』シリーズは続くはずがないし。
つまり、一部のコメディを除いて、作品世界の内側においては、設定されたルールを厳守することが求められる。
そのルールをご都合主義でコロコロ変えるのは間違っている作品だ(富野由悠季作品については別稿で)。
では正しい映画とは?となるとさらに難しい。比較的わかりやすい例として同監督作品『許されざる者』を持ってくる。
冷酷なガンマン、ウィル・マニーは連れ合いと一緒になって変わった。子供をもうけ、養豚にいそしんでいる。この設定自体は殊更に説明はされない。私たちの周囲にも所帯持ちになって変わった者なら、実例などすぐに思い出せる。しかし、そんなオヤジが残忍冷酷な人殺しに戻る過程となると、コトは単純ではない。
たとえステレオタイプをひっくり返している設定とはいえ、図式的すぎるくらいわかりやすい人物配置は、実際にジーン・ハックマン扮する保安官が、本編中一発も銃を撃たないことからも明らかだ(悪党よりも残虐な堅気については別の議論)。
だから、「結婚して変わった」というなじみのエピソードで、最初からひっくりかえされている人物設定を観客に納得させ、それがさらに殺人者に戻る物語を雨中のクライマックスで描出したのだ。
もちろんウィル・マニーは許されてなどいない。畳の上で死ねないことなど本人が一番自覚していることだろう。正しいとは決められないが、間違っていない映画と言えよう。
そして「グラン・トリノ」。評価はウェブ上で多く語られているので蛇足は避けたい。
話をリアリティに戻すと、クリント・イーストウッドさんが最もリアルに演じれるのは元はタフガイの偏屈じいさんとなる。悪く言えば安直、良く言えば堅実だ。
本作は決して正しい作品とは言いがたい。物語世界内でルールを変えているからだ。
ただし、それをやるなら、本作品の場合ならゴリゴリの人種差別主義者。が変容する過程を描かねばならぬ。ここでは異なる人種との交流物語が、漢の成長譚として、いや、人生のケリのつけかたとして語られる。ハードボイルドである。
『許されざる者』が人殺しの何たるか?なら、本作は人に銃を向けることの何たるか?だろう。
登場人物たちからは悪口雑言スラングが頻出するし、ウォルトも差別意識の懺悔などしてはいまい。それでもフィルムは若者たちに「殺すんじゃねえ」と殺されに行く、生き死に様(造語)がもつ矛盾を、見せた。