映画『告白』は、三つの点をクリアーすれば、楽しめると思う。
一つ目は、かなりエグイ暴力的描写に拒否反応を起こさないこと。
二つ目は、少年犯罪やイジメや復讐など、現代日本の歪んだ自己実現や愛情表現がてんこ盛りで、
それが最後まで続く救いがない展開に拒否反応を起こさないこと。
三つ目は、それにもかかわらず、ある種のエンターテインメント性に富んだ、
広告写真やテレビのCMのような、デコラティブだが現実的ではない画面設定と編集がなされていることに、
拒否反応を起こさないこと。
さて、それで自分はどうだったのかというと、一つ目と二つ目はクリアーできたので、
そこそこ楽しめた。
上記の二つ目までの点は、圧倒的に原作に負うところが大きいと思うし,
自分は原作を先に読んでいて,大変面白く、かなり痛快に読めたので、
原作のプロットに出来うる限り忠実な映画版も面白かった。
「かなり痛快に読めた」というのは、
この物語の根底のテーマは、やはり「命の大切さ」だろうが、ただ、原作者は、
「金八先生」や「24時間テレビ」のような、
善意と自己保身と自己正当化と自己愛の混ざった世界が醸し出す、
上から目線の、「命の大切さ」を押し付ける偽善を攻撃しているので,
そこのところが、「かなり痛快に読めた」ということだった。
問題は三つ目の点、中島監督独特の映像表現だ。
そもそもこの物語は、現代日本でありえそうな人格の登場人物たちばかりが出てくるとしても,
そんな登場人物たちが一つの学級(とその関係者)の中にこの密度で、
しかもここまでの悪意と不運と不幸な事件の連鎖は偶然すぎて、
起こりそうだけども、まあ、現実には(ほぼ)ありえないだろう、という物語だ。
つまり、現実の話とは違う、倫理的な教訓や風刺の入った一つの寓話でもあるわけで、
しかしながら、100パーセントあり得ない話だ,と言い切れないところが、
この物語の恐ろしいところであり、原作者の知略が成功しているところでもあり、
微妙なところでもあり、また、映画化するにあたって難しいところではなかったかと思う。
そんな原作を中島監督は、前述のように、繰り返しになるが,
「広告的」と言っていいような、デコラティブだが深みのいかにも欠ける
きれいきれいな映像で描ききったわけだが、
さて、それは作品世界を成り立たせる上で,最善の選択だったかと言えるのかどうか?
偽悪的ともブラックユーモアとも違う、何か独特な世界が形作られたことは確かなのだが。
たとえば、一切のそういうデコラティブなギミックのないもう一つの映画版『告白』を
観てみたい気もする。中島監督版『告白』と比較してみるために。
最後に視点を変えると,この映画は三組の母子の愛情の歪みを描いた映画だとも言える。
松たか子演じる、生徒たちに愛娘を殺された教師の愛情も,復讐へと歪んでいくし、
どこまで本当に犯人の生徒たちを更生させようと思っていたのかは,実際謎だ。
そんな思いは、建前だけで最初からなかった・・・とも捉えにくい、松たか子の演技だった。
この映画を「母子の愛情の歪みを描いた映画」ととらえたとき、
中島監督のスタイリッシュなある種、美しすぎる映像は、
反語的に「母子の愛情の歪み」をあぶり出すのに、
一役買っていたのかもしれない。
なんにしろ、まわりがきれいきれいに満ちていればいるほど、
人間の狂気(「気違い」ということではなく)があぶり出されるときは、確かにある。
それが陰惨な美しさであっても、確かに、ある。
そう考えると,三つ目の点も、クリアかな?
うーん・・・
一つ目は、かなりエグイ暴力的描写に拒否反応を起こさないこと。
二つ目は、少年犯罪やイジメや復讐など、現代日本の歪んだ自己実現や愛情表現がてんこ盛りで、
それが最後まで続く救いがない展開に拒否反応を起こさないこと。
三つ目は、それにもかかわらず、ある種のエンターテインメント性に富んだ、
広告写真やテレビのCMのような、デコラティブだが現実的ではない画面設定と編集がなされていることに、
拒否反応を起こさないこと。
さて、それで自分はどうだったのかというと、一つ目と二つ目はクリアーできたので、
そこそこ楽しめた。
上記の二つ目までの点は、圧倒的に原作に負うところが大きいと思うし,
自分は原作を先に読んでいて,大変面白く、かなり痛快に読めたので、
原作のプロットに出来うる限り忠実な映画版も面白かった。
「かなり痛快に読めた」というのは、
この物語の根底のテーマは、やはり「命の大切さ」だろうが、ただ、原作者は、
「金八先生」や「24時間テレビ」のような、
善意と自己保身と自己正当化と自己愛の混ざった世界が醸し出す、
上から目線の、「命の大切さ」を押し付ける偽善を攻撃しているので,
そこのところが、「かなり痛快に読めた」ということだった。
問題は三つ目の点、中島監督独特の映像表現だ。
そもそもこの物語は、現代日本でありえそうな人格の登場人物たちばかりが出てくるとしても,
そんな登場人物たちが一つの学級(とその関係者)の中にこの密度で、
しかもここまでの悪意と不運と不幸な事件の連鎖は偶然すぎて、
起こりそうだけども、まあ、現実には(ほぼ)ありえないだろう、という物語だ。
つまり、現実の話とは違う、倫理的な教訓や風刺の入った一つの寓話でもあるわけで、
しかしながら、100パーセントあり得ない話だ,と言い切れないところが、
この物語の恐ろしいところであり、原作者の知略が成功しているところでもあり、
微妙なところでもあり、また、映画化するにあたって難しいところではなかったかと思う。
そんな原作を中島監督は、前述のように、繰り返しになるが,
「広告的」と言っていいような、デコラティブだが深みのいかにも欠ける
きれいきれいな映像で描ききったわけだが、
さて、それは作品世界を成り立たせる上で,最善の選択だったかと言えるのかどうか?
偽悪的ともブラックユーモアとも違う、何か独特な世界が形作られたことは確かなのだが。
たとえば、一切のそういうデコラティブなギミックのないもう一つの映画版『告白』を
観てみたい気もする。中島監督版『告白』と比較してみるために。
最後に視点を変えると,この映画は三組の母子の愛情の歪みを描いた映画だとも言える。
松たか子演じる、生徒たちに愛娘を殺された教師の愛情も,復讐へと歪んでいくし、
どこまで本当に犯人の生徒たちを更生させようと思っていたのかは,実際謎だ。
そんな思いは、建前だけで最初からなかった・・・とも捉えにくい、松たか子の演技だった。
この映画を「母子の愛情の歪みを描いた映画」ととらえたとき、
中島監督のスタイリッシュなある種、美しすぎる映像は、
反語的に「母子の愛情の歪み」をあぶり出すのに、
一役買っていたのかもしれない。
なんにしろ、まわりがきれいきれいに満ちていればいるほど、
人間の狂気(「気違い」ということではなく)があぶり出されるときは、確かにある。
それが陰惨な美しさであっても、確かに、ある。
そう考えると,三つ目の点も、クリアかな?
うーん・・・