ごく近い未来における究極の官製テロ、それを醸成する場は公教育であり、必然的にテロリストを養成してしまう陥弄が描ききられている。
原作同様、同一ストーリーが多視点描写で紡がれる。
実際にある中学校(の、たぶん廃校舎)の教室を使ったのであろう。窓外にはニュータウンの町並みが広がっている。三学期終業式直後通知表を配り終えた、そこで執り行われる公民の授業で人命とは?を議論する。学童たちは個々に真剣に「罪と罰」「若きウエルテルの悩み」をテキストに意見を述べてゆく。その議論はやがてカンファレンスの様相を帯び、学級が崩壊せずに在るわけや、かたき討ちは人間性のなかに普遍的に含まれている感情であり、人間は不条理性を内包する存在であることなど、普通の中学ならありえないゼミ形式の授業が熱を帯びる背景を浮かび上がらせる。一月前に一人娘が殺された、その犯人がここ(クラス)にいるからだと。
そうなると本作はファンタジーではなく、ハードSFの範疇にはいる。
担任の森口悠子は言う「報復として、君たちが先ほど飲んだ牛乳のうち、犯人が飲んだパックにHIVウィルスに汚染された血液を混ぜておきました」と。
ここに出てくる中学生たちはみな大人である。
学童の反応は、「子供みたいな悪戯よしなよ先生」「悪い冗談です」「直接接種じゃあるまいし、こんなもんでHIVうつるわけないじゃん」と、泰然と応答する。皮肉に見れば保険体育の授業は成功していると映る。
ただ、いじめや、音楽や、熱血勘違い教師にたいする冷やかさや、母の溺愛や、異性に対する興味など、思春期の描写もちりばめられてはいるものの「どこでそんな処世術を覚えたんだ?」よりも、あまりの「扱いやすいオトナな」子供たちに拍子抜けすらする教師も出てくる。
大人社会が求める理想的な公立中学校の学童たちとそのひずみが生む澱が極まったときに起きるテロと対応(応報?)する教師。リアルな寓話である。
「財務官僚になって国民をアゴでこき使いたいなんて、前世紀バブルじゃあるまいし」なんて歴史家かお前は?そんな中学生が描出されているのだ。怖いのは、例えば色調をブルーグレイに調製するなどの、画面を覆う演出があまりなく、リアルな日常の風景で、たまに出てくる中学生らしい描写だ。例えば授業中に密かに回覧されるメモはごくありふれた描写だが、そこにかわされている会話は職員室内での教師間の派閥や組合の組織率や、気に入らない教師は天下り出来なくして家族ごと路頭に迷わせようぜ、そういえばD組のあいつ自殺したがっていたよななどの悪戯書きが、大人から顔色を無くさしめる悪意が、未来への閉塞感を強め、健全な生命観や倫理を転倒させてしまっている。
クラス委員長が薬品マニアだったり、修哉が電子工学オタクで委員長とつるんで爆弾つくるくだりなど、都合良すぎるきらいはあるが、
あらかじめ自分の人生に復讐するために生まれてきたような子供たちは、神を信じることなく、物欲や金銭欲も調節され、反抗期感情すら自己馴致する。ネットですら単なる自我肥大ツールだと距離をとり、大人社会への奉仕者を演じながら、被注目者になる渇望をテロリズムという手段によって充たそうとする。人命軽視への反反論で理論武装された中坊など、かつて十代の反乱を呼び掛けたオピニオンリーダーが蒔いた種が、最悪の結実を迎えたディストピアがここにある。
なーんてね。
ラスト、悠子からの手痛い返り討ちにあい、鼻血を拭いながら実母が勤める大学へ急行する修哉。爆破されていなかったキャンパスを見て安堵する。研究室にいる母は修哉のHPで息子による爆破予告の動画を見ている。
大切なものを奪われた苦しみを与えることが復讐になるのか?
性善説性悪説の使い分けや私的応報刑の是非はさておき、報復の対象者が愛情を注いでくれると確信する相手-この場合は実母から修哉が裏切られる予感を残され、爆弾は未だ悠子の手にある。
報復の連鎖は、ひとくさりの途中にあり、裏切りは、裏切られるものが認知することによって成就するが、その手前に状況が在り、物語はそこで終わる。
作品世界中では大人が先か子供が先かは鶏卵論争であり、ここは大人が先んじる前提が理屈だと小生は勝手に思っている。
災厄を断ち切る信管へのケーブルが見えた瞬間であり、ここを切る切らないは観客の判断にゆだねられる。いやはや恐ろしい寓話が出てきたものだが、現在は『ミリオンダラー・ベイビー』のように、切る切らないの選択を決断し、『インビクタス』のように赦すことを選んだ時代以降なのだということも忘れてはいけない。
原作同様、同一ストーリーが多視点描写で紡がれる。
実際にある中学校(の、たぶん廃校舎)の教室を使ったのであろう。窓外にはニュータウンの町並みが広がっている。三学期終業式直後通知表を配り終えた、そこで執り行われる公民の授業で人命とは?を議論する。学童たちは個々に真剣に「罪と罰」「若きウエルテルの悩み」をテキストに意見を述べてゆく。その議論はやがてカンファレンスの様相を帯び、学級が崩壊せずに在るわけや、かたき討ちは人間性のなかに普遍的に含まれている感情であり、人間は不条理性を内包する存在であることなど、普通の中学ならありえないゼミ形式の授業が熱を帯びる背景を浮かび上がらせる。一月前に一人娘が殺された、その犯人がここ(クラス)にいるからだと。
そうなると本作はファンタジーではなく、ハードSFの範疇にはいる。
担任の森口悠子は言う「報復として、君たちが先ほど飲んだ牛乳のうち、犯人が飲んだパックにHIVウィルスに汚染された血液を混ぜておきました」と。
ここに出てくる中学生たちはみな大人である。
学童の反応は、「子供みたいな悪戯よしなよ先生」「悪い冗談です」「直接接種じゃあるまいし、こんなもんでHIVうつるわけないじゃん」と、泰然と応答する。皮肉に見れば保険体育の授業は成功していると映る。
ただ、いじめや、音楽や、熱血勘違い教師にたいする冷やかさや、母の溺愛や、異性に対する興味など、思春期の描写もちりばめられてはいるものの「どこでそんな処世術を覚えたんだ?」よりも、あまりの「扱いやすいオトナな」子供たちに拍子抜けすらする教師も出てくる。
大人社会が求める理想的な公立中学校の学童たちとそのひずみが生む澱が極まったときに起きるテロと対応(応報?)する教師。リアルな寓話である。
「財務官僚になって国民をアゴでこき使いたいなんて、前世紀バブルじゃあるまいし」なんて歴史家かお前は?そんな中学生が描出されているのだ。怖いのは、例えば色調をブルーグレイに調製するなどの、画面を覆う演出があまりなく、リアルな日常の風景で、たまに出てくる中学生らしい描写だ。例えば授業中に密かに回覧されるメモはごくありふれた描写だが、そこにかわされている会話は職員室内での教師間の派閥や組合の組織率や、気に入らない教師は天下り出来なくして家族ごと路頭に迷わせようぜ、そういえばD組のあいつ自殺したがっていたよななどの悪戯書きが、大人から顔色を無くさしめる悪意が、未来への閉塞感を強め、健全な生命観や倫理を転倒させてしまっている。
クラス委員長が薬品マニアだったり、修哉が電子工学オタクで委員長とつるんで爆弾つくるくだりなど、都合良すぎるきらいはあるが、
あらかじめ自分の人生に復讐するために生まれてきたような子供たちは、神を信じることなく、物欲や金銭欲も調節され、反抗期感情すら自己馴致する。ネットですら単なる自我肥大ツールだと距離をとり、大人社会への奉仕者を演じながら、被注目者になる渇望をテロリズムという手段によって充たそうとする。人命軽視への反反論で理論武装された中坊など、かつて十代の反乱を呼び掛けたオピニオンリーダーが蒔いた種が、最悪の結実を迎えたディストピアがここにある。
なーんてね。
ラスト、悠子からの手痛い返り討ちにあい、鼻血を拭いながら実母が勤める大学へ急行する修哉。爆破されていなかったキャンパスを見て安堵する。研究室にいる母は修哉のHPで息子による爆破予告の動画を見ている。
大切なものを奪われた苦しみを与えることが復讐になるのか?
性善説性悪説の使い分けや私的応報刑の是非はさておき、報復の対象者が愛情を注いでくれると確信する相手-この場合は実母から修哉が裏切られる予感を残され、爆弾は未だ悠子の手にある。
報復の連鎖は、ひとくさりの途中にあり、裏切りは、裏切られるものが認知することによって成就するが、その手前に状況が在り、物語はそこで終わる。
作品世界中では大人が先か子供が先かは鶏卵論争であり、ここは大人が先んじる前提が理屈だと小生は勝手に思っている。
災厄を断ち切る信管へのケーブルが見えた瞬間であり、ここを切る切らないは観客の判断にゆだねられる。いやはや恐ろしい寓話が出てきたものだが、現在は『ミリオンダラー・ベイビー』のように、切る切らないの選択を決断し、『インビクタス』のように赦すことを選んだ時代以降なのだということも忘れてはいけない。