「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。 宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この一ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。 人々はみずからの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、八ヶ月あまりが過ぎた」
1979年『機動戦士ガンダム』初回本放送第一話冒頭の作品世界を説明するナレーションである。
『機動戦士ガンダム』について少し見解を述べる。
冒頭ナレーションからこぼれた作品世界をざっと語ると、
人工都市(以下コロニー)のいくつかは破壊され、宙域にはデブリが散乱し、加えてミノフスキー粒子下での戦闘は電波誘導が不可能になった。南極条約下では核兵器こそ使えないものの、ジオン公国の主力近接戦闘兵器モビルスーツ「ザク」が戦況を有利に導いていた。
常温超電導や核融合が実用化され、一部を除き民間ベースで内燃機関の使用は見当たらない。軍事衛星は軌道投入直後に破壊されるのでGPSは使えず、ミノフスキー粒子下では中距離以上の無線通信は実用に耐えない。したがって長距離無線通信の多くは光(レーザー)による。作中では無線封鎖という戦略思想そのものが廃れている。
粒子研究が進んだ作品世界ではビーム兵器が多用されている。ライフルやサーベル、果てはミノフスキー粒子を使ってモビルスーツを高空まで飛ばす技術まで開発された。一方でミサイルの誘導システムは熱源探知かレーザーポインタが専らで、近接戦闘はビームや実体弾の撃ち合いとなる。
とまあ、長くなるのでこのくらいにしておくが、小生はガンダムオタクではない。1979年当時周囲では「ロボット対戦モノだがめちゃめちゃカッコイイ」「設定がハード」「これがちゃんとしたロボット同士の戦いだ」と絶賛の声を尻目にたまたまオンエアを目にはしたが、私見「普通じゃん」で済ませていた。だって『猿の惑星』(1968監督フランクリン・J・シャフナー)に「自由の女神見るまでここが地球だとわからんのかこのバカ」とツッコんでいた嫌味なガキだったので。少々真面目に敷衍するに、
“ロボット同士の近接戦闘が実現する”設定が施された作品世界、すなわち
誘導兵器の性能が制限される←ミノフスキー粒子の存在
巨大ロボットが高機動性を発揮するのに関節が溶けない←核融合や常温超電導が小型実用化されている
核兵器が使用されない←南極条約の存在
ビーム兵器から逃れるのは物理的に不可能、発射寸前によけている。さらに訓練なしで巨大ロボットや宇宙空母を操縦できる←ニュータイプ理論
ほかにも、市街戦があれば当然発生する難民たち、戦線後方からの補給など、あたりまえの事象が描かれていた。
これら作りこみにたいしてはオタクの視点からはさほどの目新しさはない。ただ、ここに戦争と人間のドラマが加わればイケるかと、例えば13話「再会、母よ」は評価できる。
急いで付け加えるが前述の諸設定が「こじつけだ」と言われればそれまでである。それら「設定という名のこじつけ」を「おとなのじじょう」や「誰からも相手にされないだろうな」と忖度しつつやりすごしてきた初期オタクたちの多くは、それら「こじつけ」が丁寧に描写される作品世界を、『ガンダム』を通じて見せられ、おどろいたのだ。「自分たちが脳内完結させていた設定をアニメーション世界の中であれ、実際目にさせられたのだから。閑話休題。
外伝であるエピソード『サンダーボルト』が地上波放映された。一年戦争末期、厭戦気分は盛り上がり、民族間(作中ではコロニー間)の分断はひろがり、ニュータイプを武兵器に活かす技術は未分化で、連邦では少年兵まで動員せざるを得ない戦況描写は第一シリーズ後半でも触れられている。今作では戦傷で不具になった経験値の高い兵の神経節をモビルスーツ操作に活かす技術が描かれる。これらのアイデアは第二次大戦中に実際に考案されたものがモデル。
どころか無能な司令官が立案した作戦に従軍する兵卒の忸怩拘泥や戦闘中毒者、ニュータイプなる設定は人と人がわかりあえるように進化する過程であるはず…なのが『閃光のハサウェイ』では国家教育機関が明確に否定している。もちろん分断の温存はイマドキの政府の仕事でもあるわけだが…とまあ、製作スタッフの「やれるうちに好き放題やっておこう」との思いがにじみ出ている。
分断と包摂のあわい、国家と個人、そして宇宙時代における歴史とヒトの進化そして巨大ロボット同士の戦闘となればSF好き就中昭和半ば以降のオタクにとってはたまらぬ魅力を放ちつづけているわけだ。
そして
令和になって『水星の魔女』が放映された。全24話プラスプロローグの編成。
数話見終えた第一印象は「老舗代理店と鍛えられたコンテンツらしい練りこまれた企画だな」だった。すなわち、
主要登場人物を含めメインとなる舞台は学園だが、その外周は陰謀渦巻く企業行政府をはじめ格差や差別そしてテロリズムが見え隠れするリアリズムが加えられている。
これが第一クール終盤に
作中のベストアンドブライテストな(そしてある意味孤独な)キャラクター、シャディクがテロを起こす。またある準主役グエルは父殺しの因果に巻き込まれ、主役スレッタに相手役ミオリネが「人殺し」の捨て台詞で断絶し、終劇、つづく。
本作中にはニュータイプもミノフスキー粒子も出てこない。ビーム兵器も見られこそすれ。
じゃあどこがガンダムなのか?
メカニカルデザインやモビルスーツをはじめとする用語はそれらしいが、決定的なのは主要登場人物が若者たちであること。
彼ら彼女らが戦いを通じて成長すること。
そこには議論が在ること。
第二クールでは上記に加え、
格差やテロは根絶不可能なこと。戦争シェアリングなる造語が登場するくらいに。
災厄時、頼れるのは虐げられた者たちの中にこそ多くいること。
特筆すべきは数多あるガンダムを冠した作品の中で、最も人死にが少ないのではないだろうか?と推察されること。
(視聴者の)誰もが思った「殺したくない、死んで欲しくない」に答えたガンダムができないだろうか?と。
ある者はそのことを揶揄して言うだろう。理想だと。
1979年当時十代だったオタクたちは齢を重ね大人になり大文字のガンダムは一千億円市場を成すまでになった。その間、湾岸やイラク、今次ロシアとウクライナを目の当たりにする現在に至る中、小生も齢を重ねた。「普通じゃん」で超然を決め込んでいたのも十代の頃のこと。普通がもつ凄さは理解できる歳にもなった。ガンダムへの評価が変わったのではない。前述のガンダムにおける作品世界の定義にともない、「ガンダム」を冠する作品そのものが成長し、時代状況と切り結べるようになっていったのだ。高評すべきはファンやスタッフを含めた大文字の「ガンダム」である。かかるアニメの作品世界で理想を語って何がわるい!『水星の魔女』は富野由悠季流に楯突いた令和のガンダムストーリーなのだ。
シリーズが終わって批評感想が様々だ。曰く「膨らませすぎた物語の複線回収にはもう一話エピローグ回が必要」「モブキャラに至るまで作り込まれたからこそのオトシマエは必要なのにアイツが生きているのは納得できない」等々。間違えないでくれ、
1979年当時の制作状況における至上任務は「おもちゃを売る」ことだったのだ。
コンテンツの内容と商業上の要請との調整、その歴史が最も積み上げられた大文字のガンダムではないか。そんな中でかくも時代状況と切り結びつつ視聴者諸兄が感情移入できる物語を紡ぐことができる製作環境がある幸運を寿ごうではないか。
最後に、
パーメットなる物質がS F設定として作品世界を律しているのだが、人間が情報の高密度集積体だと認めるのであれば、次に来るのは『攻殻機動隊』である。エアリアルはエリクトの人格が搭載された義体なのだとも解釈可能だ。ならば次には不老不死に伴う文明の袋小路へ…とくれば宗教哲学へなだれ込むのが理屈か…。『サンダーボルト』にその萌芽があったように。
『閃光のハサウェイ』の次作に期待しましょう。
追記。
プロスペラは許されない、穏やかな余生を送らせるべきではないとの意見はもっともだが、罪を許すよりも、背負って生きていくのに必要な他者をこそ祝福すべしとの最終回は今季がガンダムの先端だと考える。
1979年『機動戦士ガンダム』初回本放送第一話冒頭の作品世界を説明するナレーションである。
『機動戦士ガンダム』について少し見解を述べる。
冒頭ナレーションからこぼれた作品世界をざっと語ると、
人工都市(以下コロニー)のいくつかは破壊され、宙域にはデブリが散乱し、加えてミノフスキー粒子下での戦闘は電波誘導が不可能になった。南極条約下では核兵器こそ使えないものの、ジオン公国の主力近接戦闘兵器モビルスーツ「ザク」が戦況を有利に導いていた。
常温超電導や核融合が実用化され、一部を除き民間ベースで内燃機関の使用は見当たらない。軍事衛星は軌道投入直後に破壊されるのでGPSは使えず、ミノフスキー粒子下では中距離以上の無線通信は実用に耐えない。したがって長距離無線通信の多くは光(レーザー)による。作中では無線封鎖という戦略思想そのものが廃れている。
粒子研究が進んだ作品世界ではビーム兵器が多用されている。ライフルやサーベル、果てはミノフスキー粒子を使ってモビルスーツを高空まで飛ばす技術まで開発された。一方でミサイルの誘導システムは熱源探知かレーザーポインタが専らで、近接戦闘はビームや実体弾の撃ち合いとなる。
とまあ、長くなるのでこのくらいにしておくが、小生はガンダムオタクではない。1979年当時周囲では「ロボット対戦モノだがめちゃめちゃカッコイイ」「設定がハード」「これがちゃんとしたロボット同士の戦いだ」と絶賛の声を尻目にたまたまオンエアを目にはしたが、私見「普通じゃん」で済ませていた。だって『猿の惑星』(1968監督フランクリン・J・シャフナー)に「自由の女神見るまでここが地球だとわからんのかこのバカ」とツッコんでいた嫌味なガキだったので。少々真面目に敷衍するに、
“ロボット同士の近接戦闘が実現する”設定が施された作品世界、すなわち
誘導兵器の性能が制限される←ミノフスキー粒子の存在
巨大ロボットが高機動性を発揮するのに関節が溶けない←核融合や常温超電導が小型実用化されている
核兵器が使用されない←南極条約の存在
ビーム兵器から逃れるのは物理的に不可能、発射寸前によけている。さらに訓練なしで巨大ロボットや宇宙空母を操縦できる←ニュータイプ理論
ほかにも、市街戦があれば当然発生する難民たち、戦線後方からの補給など、あたりまえの事象が描かれていた。
これら作りこみにたいしてはオタクの視点からはさほどの目新しさはない。ただ、ここに戦争と人間のドラマが加わればイケるかと、例えば13話「再会、母よ」は評価できる。
急いで付け加えるが前述の諸設定が「こじつけだ」と言われればそれまでである。それら「設定という名のこじつけ」を「おとなのじじょう」や「誰からも相手にされないだろうな」と忖度しつつやりすごしてきた初期オタクたちの多くは、それら「こじつけ」が丁寧に描写される作品世界を、『ガンダム』を通じて見せられ、おどろいたのだ。「自分たちが脳内完結させていた設定をアニメーション世界の中であれ、実際目にさせられたのだから。閑話休題。
外伝であるエピソード『サンダーボルト』が地上波放映された。一年戦争末期、厭戦気分は盛り上がり、民族間(作中ではコロニー間)の分断はひろがり、ニュータイプを武兵器に活かす技術は未分化で、連邦では少年兵まで動員せざるを得ない戦況描写は第一シリーズ後半でも触れられている。今作では戦傷で不具になった経験値の高い兵の神経節をモビルスーツ操作に活かす技術が描かれる。これらのアイデアは第二次大戦中に実際に考案されたものがモデル。
どころか無能な司令官が立案した作戦に従軍する兵卒の忸怩拘泥や戦闘中毒者、ニュータイプなる設定は人と人がわかりあえるように進化する過程であるはず…なのが『閃光のハサウェイ』では国家教育機関が明確に否定している。もちろん分断の温存はイマドキの政府の仕事でもあるわけだが…とまあ、製作スタッフの「やれるうちに好き放題やっておこう」との思いがにじみ出ている。
分断と包摂のあわい、国家と個人、そして宇宙時代における歴史とヒトの進化そして巨大ロボット同士の戦闘となればSF好き就中昭和半ば以降のオタクにとってはたまらぬ魅力を放ちつづけているわけだ。
そして
令和になって『水星の魔女』が放映された。全24話プラスプロローグの編成。
数話見終えた第一印象は「老舗代理店と鍛えられたコンテンツらしい練りこまれた企画だな」だった。すなわち、
主要登場人物を含めメインとなる舞台は学園だが、その外周は陰謀渦巻く企業行政府をはじめ格差や差別そしてテロリズムが見え隠れするリアリズムが加えられている。
これが第一クール終盤に
作中のベストアンドブライテストな(そしてある意味孤独な)キャラクター、シャディクがテロを起こす。またある準主役グエルは父殺しの因果に巻き込まれ、主役スレッタに相手役ミオリネが「人殺し」の捨て台詞で断絶し、終劇、つづく。
本作中にはニュータイプもミノフスキー粒子も出てこない。ビーム兵器も見られこそすれ。
じゃあどこがガンダムなのか?
メカニカルデザインやモビルスーツをはじめとする用語はそれらしいが、決定的なのは主要登場人物が若者たちであること。
彼ら彼女らが戦いを通じて成長すること。
そこには議論が在ること。
第二クールでは上記に加え、
格差やテロは根絶不可能なこと。戦争シェアリングなる造語が登場するくらいに。
災厄時、頼れるのは虐げられた者たちの中にこそ多くいること。
特筆すべきは数多あるガンダムを冠した作品の中で、最も人死にが少ないのではないだろうか?と推察されること。
(視聴者の)誰もが思った「殺したくない、死んで欲しくない」に答えたガンダムができないだろうか?と。
ある者はそのことを揶揄して言うだろう。理想だと。
1979年当時十代だったオタクたちは齢を重ね大人になり大文字のガンダムは一千億円市場を成すまでになった。その間、湾岸やイラク、今次ロシアとウクライナを目の当たりにする現在に至る中、小生も齢を重ねた。「普通じゃん」で超然を決め込んでいたのも十代の頃のこと。普通がもつ凄さは理解できる歳にもなった。ガンダムへの評価が変わったのではない。前述のガンダムにおける作品世界の定義にともない、「ガンダム」を冠する作品そのものが成長し、時代状況と切り結べるようになっていったのだ。高評すべきはファンやスタッフを含めた大文字の「ガンダム」である。かかるアニメの作品世界で理想を語って何がわるい!『水星の魔女』は富野由悠季流に楯突いた令和のガンダムストーリーなのだ。
シリーズが終わって批評感想が様々だ。曰く「膨らませすぎた物語の複線回収にはもう一話エピローグ回が必要」「モブキャラに至るまで作り込まれたからこそのオトシマエは必要なのにアイツが生きているのは納得できない」等々。間違えないでくれ、
1979年当時の制作状況における至上任務は「おもちゃを売る」ことだったのだ。
コンテンツの内容と商業上の要請との調整、その歴史が最も積み上げられた大文字のガンダムではないか。そんな中でかくも時代状況と切り結びつつ視聴者諸兄が感情移入できる物語を紡ぐことができる製作環境がある幸運を寿ごうではないか。
最後に、
パーメットなる物質がS F設定として作品世界を律しているのだが、人間が情報の高密度集積体だと認めるのであれば、次に来るのは『攻殻機動隊』である。エアリアルはエリクトの人格が搭載された義体なのだとも解釈可能だ。ならば次には不老不死に伴う文明の袋小路へ…とくれば宗教哲学へなだれ込むのが理屈か…。『サンダーボルト』にその萌芽があったように。
『閃光のハサウェイ』の次作に期待しましょう。
追記。
プロスペラは許されない、穏やかな余生を送らせるべきではないとの意見はもっともだが、罪を許すよりも、背負って生きていくのに必要な他者をこそ祝福すべしとの最終回は今季がガンダムの先端だと考える。