カンヌ映画祭脚本賞受賞とのことで、現在世界映画の先っぽのひとつだと思い、遅ればせながら『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞したしだい。
妻に先立たれた演出家兼俳優の主人公家福が、広島での演劇祭の出し物『ワーニャ伯父さん』を担当することになり、多言語劇で上演するまでを、主催者が用意した運転手との交流を交えつつ描かれる。
オーディション後、キャスティング直後の本読みで各位に「棒読み」を求め、そこから肉付けをする演出法は珍しくないが、そこに日本語、英語、北京語、タガログ語、韓国語、そして韓国手話と、様々な言語が混ざり合う芝居が劇中劇として現出する。村上春樹原作やチェーホフなど基礎教養が求められる内容というよりむしろ、棒読みとそれ以外の場面での、感情の乗ったセリフ芝居との違いを楽しむべきなのだろう。公開から数ヶ月過ぎた客席にはリピーターと思しき方も。
物語後半、主人公の亡き細君が若き後輩と関係していたり、ドライバーの過去が詳になる諸々が語られるのですが、セリフに頼りすぎる内容に堕してしまい、おっとと感が否めない。チェーホフのテクストにこだわるあまり窮屈さが滲み出ている。それでも辛口な情念の世界をいかにして都会的な口当たりにしたて、そして教養や知性に訴えるものに仕上げるかが村上春樹作品の文章術なのだが、その映画化では成功作と言える。
が、好みではない。
今村昌平監督作品群の逆と言えばいいのか、悲喜劇になり切っていないと感じた。登場人物の個々が、感情を吐露する場面や見せ場が用意されているのに迫ってこない。目ん玉ひん剥いた芝居を求めているのではなく、あくまで冷めた視点。本当なら情念コテコテのはずなのに、そしてそのように俳優は演じているはずなのに観客は終始冷めた視線を送ってしまう画面と編集。もちろん作者はそのような演出意図なのは明白で、三池崇史の逆をやってる感ありありな場面も少なくない。美しいが、あざとい。
「見せない」ということで表現する映像作品の代表として『白いリボン』(2009ミヒャエル•ハネケ)を挙げておこう。否、『白いリボン』は既視感に満ちた歴史に観客を向き合わせる。
そう、見た、ないしは見ていないことに向き合わせるのが、映像物語の作劇術なのではなかったか?と。小津っぽくなってしまうね。
飛躍するが、歌舞伎文楽の世話物をはじめ、見せる以外逃げ場のないストーリーが本邦にはたくさんある。小生がプロデューサーなら、例えば『四谷怪談』を濱口監督に撮らせてはどうかと考えたりして。ちょうど、観念的思想的政治的なインテリ独立系映画監督に、とても単純な性愛の物語『愛のコリーダ』を作らせたように。
いけね忘れてた、さらにもう一つ、本作内では「ワーニャ伯父さん」に求めたテクストに引きずられ、終盤は力技でまとめた感が否めない。古典名作の類をテクストに、そこからモチーフを引用するのはいいとして、元来引用とは異なる主題の本編物語なのだから、物語が進むにつれてテクストからの乖離は避けられない。そこをどう整合させるかが脚本の力のはずなのだが。まあ、今、思いつくのは『バケモノの子』(2015細田守)における「白鯨」という例くらいだけれど、やっぱりチェーホフと格闘して欲しかった。と言ってもすぐに思い出せる好例は立川談志師匠が古典落語をイジり倒したくらいだが。前述の『四谷怪談』から派生した数多のアレンジ作品は数知れず。どころか、時代劇にはその作劇上歴史からの逸脱などいくらでもやってきた「伝統」すら数え上げればキリがないではないか。そこへの期待も込めて。
妻に先立たれた演出家兼俳優の主人公家福が、広島での演劇祭の出し物『ワーニャ伯父さん』を担当することになり、多言語劇で上演するまでを、主催者が用意した運転手との交流を交えつつ描かれる。
オーディション後、キャスティング直後の本読みで各位に「棒読み」を求め、そこから肉付けをする演出法は珍しくないが、そこに日本語、英語、北京語、タガログ語、韓国語、そして韓国手話と、様々な言語が混ざり合う芝居が劇中劇として現出する。村上春樹原作やチェーホフなど基礎教養が求められる内容というよりむしろ、棒読みとそれ以外の場面での、感情の乗ったセリフ芝居との違いを楽しむべきなのだろう。公開から数ヶ月過ぎた客席にはリピーターと思しき方も。
物語後半、主人公の亡き細君が若き後輩と関係していたり、ドライバーの過去が詳になる諸々が語られるのですが、セリフに頼りすぎる内容に堕してしまい、おっとと感が否めない。チェーホフのテクストにこだわるあまり窮屈さが滲み出ている。それでも辛口な情念の世界をいかにして都会的な口当たりにしたて、そして教養や知性に訴えるものに仕上げるかが村上春樹作品の文章術なのだが、その映画化では成功作と言える。
が、好みではない。
今村昌平監督作品群の逆と言えばいいのか、悲喜劇になり切っていないと感じた。登場人物の個々が、感情を吐露する場面や見せ場が用意されているのに迫ってこない。目ん玉ひん剥いた芝居を求めているのではなく、あくまで冷めた視点。本当なら情念コテコテのはずなのに、そしてそのように俳優は演じているはずなのに観客は終始冷めた視線を送ってしまう画面と編集。もちろん作者はそのような演出意図なのは明白で、三池崇史の逆をやってる感ありありな場面も少なくない。美しいが、あざとい。
「見せない」ということで表現する映像作品の代表として『白いリボン』(2009ミヒャエル•ハネケ)を挙げておこう。否、『白いリボン』は既視感に満ちた歴史に観客を向き合わせる。
そう、見た、ないしは見ていないことに向き合わせるのが、映像物語の作劇術なのではなかったか?と。小津っぽくなってしまうね。
飛躍するが、歌舞伎文楽の世話物をはじめ、見せる以外逃げ場のないストーリーが本邦にはたくさんある。小生がプロデューサーなら、例えば『四谷怪談』を濱口監督に撮らせてはどうかと考えたりして。ちょうど、観念的思想的政治的なインテリ独立系映画監督に、とても単純な性愛の物語『愛のコリーダ』を作らせたように。
いけね忘れてた、さらにもう一つ、本作内では「ワーニャ伯父さん」に求めたテクストに引きずられ、終盤は力技でまとめた感が否めない。古典名作の類をテクストに、そこからモチーフを引用するのはいいとして、元来引用とは異なる主題の本編物語なのだから、物語が進むにつれてテクストからの乖離は避けられない。そこをどう整合させるかが脚本の力のはずなのだが。まあ、今、思いつくのは『バケモノの子』(2015細田守)における「白鯨」という例くらいだけれど、やっぱりチェーホフと格闘して欲しかった。と言ってもすぐに思い出せる好例は立川談志師匠が古典落語をイジり倒したくらいだが。前述の『四谷怪談』から派生した数多のアレンジ作品は数知れず。どころか、時代劇にはその作劇上歴史からの逸脱などいくらでもやってきた「伝統」すら数え上げればキリがないではないか。そこへの期待も込めて。