一歩間違えば、波乱万丈の人生になる自信がある。
meは、法華経信者の家に生まれ、
ハタチを過ぎた頃から、法華経を学び始め、法華経、ひいては大乗仏教の精神を学ばせて頂く機会を頂き続けている、。
自燈明、法燈明、という言葉がある。
自らを拠り所とし、また、仏法を拠り所として、生きて行こうという教え。
仏教の二大真理とは、
「諸行無常」と「諸法無我」
諸行無常は、
「この世の全ては変化する」という意味。
わかりやすいところだと、自分の身体や心は日々変化しているし、
友達との関係とかも変化していく。国、地球、宇宙も、みんな変化していってる。
諸法無我は、
「この世のすべては関係している」という意味。
ひとつとして、いきなりは存在しない。
命もそう。すべてそう。
つまり、この世の全ては、
「いつも何かと関係しながら、変化し続けている」
「何かと何かが関係しながら」というときの、
「何か」と「何か」を、「因」と「縁」というふうに呼ぶことができる。
自分が「因」なら、相手という「縁」に触れ合って、何かしら起こる、何らかの結果が生じる。
生じる、起こることを「果」という。
「果」は、必ず後々まで影響を残す。
後々まで残る影響を「報」という。
これが「因縁果報」。
自分の悩みを解決するとき、あるいは、人の悩みを聞いてあげるとき、
因縁果報の教えにあてはめて物事を観ていくと、関係がスッキリし、悩みの原因が早く分かる。
具体的に、自分自身の体験を例にあげたいけど、今、甲府市に向かう特急あずさの中で揺られていて、手元が揺れまくりーの、半分居眠りーので、iPhoneでブログを書いてるので、むりかも。。いや、、頑張るかも。
うまく書けるかわからないけど、例をあげよう。





私はたまに、縁に流され過ぎる傾向がある。
優し過ぎるといえば、そう。
自分がないと言われても仕方がない。
自分という「因」が、そういう縁に流されやすい因なもんで、「縁」によっては、たまにとんでもないハプニングが起こることもある。
今年、最も後悔した出来事は、妻子ある上司と一晩関係を持ってしまったことだ。
相手が恐ろしく強引だったから断わりきれなかった。というのは、言い訳に聞こえるだろうか。
自分自身でも言い訳に聞こえる。
それでその上司とのことが、以前に職場の人にばれて、陰口をささやかれたことがあった。これは今年の6月頃かな。
それで、
_| ̄|○
ううう、辛い。自分がいけないとは言え。
と、マジ凹みっコだった。
でも、職場の人は、一応わたしのいないところで陰口をささやいていて、
誰も、私に面と向かって「サイテーね!あなた」的に非難する人はいらっしゃらなかった。
でも中には「そんな子だとは思わなかった」という私への声も聞いた。
色々な人の様々な声を聞いて、
私の中には辛い辛い辛いという感情が渦巻いていった。
でもある日、結局自分は何がどう辛いんだ?と、自分の中を見つめてみたら、
「見栄」
があるから辛いんだと、気付いた。
みんなから、よく思われたい。
みんなから、清潔感のある人と思われたい。
イイコちゃんでいたい。嫌われたくない。
こう思われたいああ思われたいのオンパレード。
だから、私と上司との出来事を知ったみんなの中で、私に対するイメージがガラガラと崩れていくことが耐えられなかった。
そんな自分が「因」として、
職場のみなさんの陰口という「縁」に触れると、
辛い感情という結果=「果」が出る。
そして、
なーんとなくいつまでも職場の人が私によそよそしく、私もなんとなくぎこちない態度でいる、という「報」(後々まで残る影響)が出る。
「果報」を変化させていくには、
「因」を変えるしかない。
「縁」を変えようと思っても変わるものではない。
つまり、自分が変われば、状況は変わっていくということだ。
過去と相手は変えられない。
未来と自分は変えられる。
と、よく仏教界で教わる。
自分が変わろう!
と決意した。これが7月頃。
こうして、自分の中に根強くはびこる「見栄と外聞」をまずは捨てようと誓った。
そして、
「批判は甘んじて受けます。ありがとうございます。」
「私が居場所をなくさないように、陰で私のことを噂して下さってありがとうございます。感謝します。」
「無我の気持ちで働かせて頂きます。みなさんのためにさせて頂けることを、一生懸命させて頂きます。」
と、思いついたことを、付箋にいくつも書いて、職場のデスクの引き出しをあけたすぐのところに貼った。
引き出しをあけるたびに、自分の心の中で、言葉を繰り返し唱えた。
そしたら、あれほど辛かったのが、いつの間にか、たんたんと仕事をしている自分になれていた。
縁にとらわれ過ぎることなく、
イイ意味の「自分中心」の状態である。
いつだって、どこでだって、
「自分は」相手のために何をさせてもらいたいのか。
まずは人さまの精神でシャカシャカ働かせてもらっていれば、
(自分のことあんな風に言うなんてひどい)とウジウジしてるヒマはないはず。
そう!
私は辛い辛いと思えるだけのヒマを、自分に与えていたのだ。
職務怠慢!
とにかく、
「自分は」相手のために何をさせてもらいたいのか、という自分中心思考。
そういう風に気持ちを集中していったほうがよいことを学んだ。
「よく思われたい」と自分は無意識に思っていたわけだが、それは、相手へ過度な要求である。
「あなたには、私のことを高く評価してほしい。私のことをイイ人だって思ってほしい」と要求していることでしょう?
自分が職場で立ち直るためには、
そういう過度な要求を相手に押し付けるのはやめて、
ありのままの相手(縁)に感謝していくしかなかった。当時の私には。
それからというもの周りの陰口は気にせず黙々と働いたら、不思議と職場のみなさんも、私のことをまた以前のように受け入れて下さるようになった。
ありがたい。
でも、
やはりわたしのことを今でも「あの子大人しそうに見えて、実は」と囁いてる人もいらっしゃる。
そりゃそうだよね。
これも、私という「因」が招いた「報」(後々まで残る影響)デアル。
そして、その「報」という「縁」に触れるとき、また自分が試されるのだ。
自分は、今後、
誠実に仕事をし続け、また、私生活でも二度と変な噂に上らない生活をしてゆこうと、決意しているので、大丈夫だろう。
二大真理、
この世のすべては、
「いつも何かと関係しながら、変化し続けている」
そうだよねー。
自分と職場のみなさんとの関係や心境も、変化し続けているよー。
いろいろ、向上してゆけるように頑張る。
つーかそれで、わたし的には、すべては過去のこととくくっていたその上司と、おととい一悶着あったので、こうして過去のことを振り返って書いているのだが、
今、甲府に着いちゃった!
なんで甲府に来たかというと、
明日、早朝から七面山に登りに行くためだ。
七面山は、仏教徒とくに法華経信者の霊山だ。
七面山を登る中で、自分の信仰心を探してきます。
おととい色々なことがあり、今も、少し凹んでいる。泣きそう。
それで、急きょ七面山へ。
信仰うんぬん言ってるが、要は気分転換。汗かいて発散!
いまは、猫を抱きたいです。
猫は天使です。
甲府ホテル、快適ですよー。
一晩お願いします。
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