これから甲府へ | ありがたい日々

ありがたい日々

今日もツイてる!

自分の気持ちが乱れていることを感じる今日この頃(^-^)

一歩間違えば、波乱万丈の人生になる自信がある。


meは、法華経信者の家に生まれ、
ハタチを過ぎた頃から、法華経を学び始め、法華経、ひいては大乗仏教の精神を学ばせて頂く機会を頂き続けている、。

自燈明、法燈明、という言葉がある。

自らを拠り所とし、また、仏法を拠り所として、生きて行こうという教え。


仏教の二大真理とは、

「諸行無常」と「諸法無我」


諸行無常は、
「この世の全ては変化する」という意味。


わかりやすいところだと、自分の身体や心は日々変化しているし、
友達との関係とかも変化していく。国、地球、宇宙も、みんな変化していってる。


諸法無我は、
「この世のすべては関係している」という意味。

ひとつとして、いきなりは存在しない。

命もそう。すべてそう。


つまり、この世の全ては、

「いつも何かと関係しながら、変化し続けている」



「何かと何かが関係しながら」というときの、
「何か」と「何か」を、「因」と「縁」というふうに呼ぶことができる。

自分が「因」なら、相手という「縁」に触れ合って、何かしら起こる、何らかの結果が生じる。
生じる、起こることを「果」という。

「果」は、必ず後々まで影響を残す。

後々まで残る影響を「報」という。

これが「因縁果報」。

自分の悩みを解決するとき、あるいは、人の悩みを聞いてあげるとき、
因縁果報の教えにあてはめて物事を観ていくと、関係がスッキリし、悩みの原因が早く分かる。

具体的に、自分自身の体験を例にあげたいけど、今、甲府市に向かう特急あずさの中で揺られていて、手元が揺れまくりーの、半分居眠りーので、iPhoneでブログを書いてるので、むりかも。。いや、、頑張るかも。


うまく書けるかわからないけど、例をあげよう。

晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ

私はたまに、縁に流され過ぎる傾向がある。

優し過ぎるといえば、そう。

自分がないと言われても仕方がない。


自分という「因」が、そういう縁に流されやすい因なもんで、「縁」によっては、たまにとんでもないハプニングが起こることもある。


今年、最も後悔した出来事は、妻子ある上司と一晩関係を持ってしまったことだ。

相手が恐ろしく強引だったから断わりきれなかった。というのは、言い訳に聞こえるだろうか。


自分自身でも言い訳に聞こえる。



それでその上司とのことが、以前に職場の人にばれて、陰口をささやかれたことがあった。これは今年の6月頃かな。

それで、


_| ̄|○


ううう、辛い。自分がいけないとは言え。


と、マジ凹みっコだった。

でも、職場の人は、一応わたしのいないところで陰口をささやいていて、
誰も、私に面と向かって「サイテーね!あなた」的に非難する人はいらっしゃらなかった。


でも中には「そんな子だとは思わなかった」という私への声も聞いた。

色々な人の様々な声を聞いて、
私の中には辛い辛い辛いという感情が渦巻いていった。


でもある日、結局自分は何がどう辛いんだ?と、自分の中を見つめてみたら、


「見栄」


があるから辛いんだと、気付いた。



みんなから、よく思われたい。

みんなから、清潔感のある人と思われたい。

イイコちゃんでいたい。嫌われたくない。


こう思われたいああ思われたいのオンパレード。

だから、私と上司との出来事を知ったみんなの中で、私に対するイメージがガラガラと崩れていくことが耐えられなかった。

そんな自分が「因」として、

職場のみなさんの陰口という「縁」に触れると、


辛い感情という結果=「果」が出る。

そして、

なーんとなくいつまでも職場の人が私によそよそしく、私もなんとなくぎこちない態度でいる、という「報」(後々まで残る影響)が出る。


「果報」を変化させていくには、

「因」を変えるしかない。

「縁」を変えようと思っても変わるものではない。

つまり、自分が変われば、状況は変わっていくということだ。




過去と相手は変えられない。
未来と自分は変えられる。



と、よく仏教界で教わる。



自分が変わろう!

と決意した。これが7月頃。


こうして、自分の中に根強くはびこる「見栄と外聞」をまずは捨てようと誓った。


そして、

「批判は甘んじて受けます。ありがとうございます。」

「私が居場所をなくさないように、陰で私のことを噂して下さってありがとうございます。感謝します。」


「無我の気持ちで働かせて頂きます。みなさんのためにさせて頂けることを、一生懸命させて頂きます。」

と、思いついたことを、付箋にいくつも書いて、職場のデスクの引き出しをあけたすぐのところに貼った。

引き出しをあけるたびに、自分の心の中で、言葉を繰り返し唱えた。


そしたら、あれほど辛かったのが、いつの間にか、たんたんと仕事をしている自分になれていた。


縁にとらわれ過ぎることなく、
イイ意味の「自分中心」の状態である。


いつだって、どこでだって、


「自分は」相手のために何をさせてもらいたいのか。


まずは人さまの精神でシャカシャカ働かせてもらっていれば、


(自分のことあんな風に言うなんてひどい)とウジウジしてるヒマはないはず。


そう!

私は辛い辛いと思えるだけのヒマを、自分に与えていたのだ。


職務怠慢!


とにかく、
「自分は」相手のために何をさせてもらいたいのか、という自分中心思考。


そういう風に気持ちを集中していったほうがよいことを学んだ。


「よく思われたい」と自分は無意識に思っていたわけだが、それは、相手へ過度な要求である。

「あなたには、私のことを高く評価してほしい。私のことをイイ人だって思ってほしい」と要求していることでしょう?



自分が職場で立ち直るためには、

そういう過度な要求を相手に押し付けるのはやめて、

ありのままの相手(縁)に感謝していくしかなかった。当時の私には。



それからというもの周りの陰口は気にせず黙々と働いたら、不思議と職場のみなさんも、私のことをまた以前のように受け入れて下さるようになった。

ありがたい。


でも、
やはりわたしのことを今でも「あの子大人しそうに見えて、実は」と囁いてる人もいらっしゃる。

そりゃそうだよね。


これも、私という「因」が招いた「報」(後々まで残る影響)デアル。


そして、その「報」という「縁」に触れるとき、また自分が試されるのだ。


自分は、今後、
誠実に仕事をし続け、また、私生活でも二度と変な噂に上らない生活をしてゆこうと、決意しているので、大丈夫だろう。


二大真理、

この世のすべては、

「いつも何かと関係しながら、変化し続けている」


そうだよねー。

自分と職場のみなさんとの関係や心境も、変化し続けているよー。


いろいろ、向上してゆけるように頑張る。



つーかそれで、わたし的には、すべては過去のこととくくっていたその上司と、おととい一悶着あったので、こうして過去のことを振り返って書いているのだが、


今、甲府に着いちゃった!


なんで甲府に来たかというと、

明日、早朝から七面山に登りに行くためだ。

七面山は、仏教徒とくに法華経信者の霊山だ。


七面山を登る中で、自分の信仰心を探してきます。

おととい色々なことがあり、今も、少し凹んでいる。泣きそう。


それで、急きょ七面山へ。


信仰うんぬん言ってるが、要は気分転換。汗かいて発散!


いまは、猫を抱きたいです。

猫は天使です。

甲府ホテル、快適ですよー。

一晩お願いします。

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