【ロマノフ】タチアナ・ニコラエヴナロシア大公女 | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第二皇女。ロシア大公女。

 

 

 

ウィッグを片手に撮影するタチアナ大公女。

Grand Duchess Tatiana Nikolaevna of Russia

1913年にはチフス菌が含まれる水を用いて作られたオレンジエードを飲んだタチアナ皇女が腸チフスに感染してしまい、髪が抜け落ちたため、そったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Tatiana Romanov in 1913

Tsar Nicholas II of Russia with the Imperial Family, 1913

 

Grand Duchesses Maria, Tatiana, Anastasia and Olga in 1914

 

その際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のまま 

 

 

 


オルガ1895年、タチアナ1897年、マリア1899年、アナスタシア1901年生まれ

 

腸チフスにかかったタチアナを治療していた医師エフゲニー・ボトキンも感染し数週間危篤状態が続いたものの、一命を取りとめた医師は、1917年革命で追放された元皇帝一家と一緒に幽閉生活を送りました。

 

一家に同行することが患者である彼らに対する責任だけでなく、国のために自分が果たすべき使命であると考えていたとか。

1918年7月17日に彼らとともに殺害されたとき、ボトキンは銃声を浴びせられそうになるニコライ2世の盾となり最初の弾丸を受けて負傷し、(最初の2発は腹部に浴び、3発目は足に浴び、額にも銃弾を浴びた)守り切れず皇帝一家は銃弾を浴びて死亡。

 

 

エフゲニー・ボトキンの娘タチアナ・ボトキン

 

1911年にロシア帝国皇帝ニコライ2世の子供達と出会い、以後はクリミアに休暇で滞在した彼らとしばしば遊んでいたタチアナ・ボトキン。

後年にアンナ・アンダーソンが本物のアナスタシア皇女である事を主張し、弟のグレブ・ボトキンとともに生涯を通じて彼女の代表的な擁護者となりました。

しかし、ボトキナが亡くなった後に行われたDNA鑑定によってアンダーソンがポーランドの農家に生まれたフランツィスカ・シャンツコフスカという名前の皇族詐称者であった事が証明されました。

 

信じた理由の一つに、『昔病気の時、私の父が貴女の服を脱がせてあげましたね。さあ、私もそうして差し上げましょう』。というと彼女は「そうなの、はしかだったのよ」と答えたのです。彼女は私の事を完全に覚えているのだなと思いました。と言うのは皇帝の子供達がはしかにかかった時、これは勿論一度だけの事ですが、私の父は皇女達と一緒に付き添い、まるで看護師のように看病したものでした。こんな事は誰にも話していませんし、父を除いて、私だけが知っている事なのです。

アンダーソンには記憶障害があったと述べ、弟のグレブとともに亡くなるまでアンダーソンを見捨てなかった数少ない一貫した支持者であり、その誠実さを疑われなかった生き証人でした。皇帝一家との友情など皇室に関する彼女の思い出についての回顧録を執筆しました。

 

皇帝侍医の息子で、アナスタシアの遊び相手でもあった皇帝侍医の息子で、アナスタシアの遊び相手でもあったグレブ・ボトキン

 

 

アンダーソンは1984年に死去した5年後、1989年にアナスタシアの弟であるアレクセイ皇太子と、第3皇女マリア以外のニコライ2世一家と推定される5人の遺骨がロシアで発見されミトコンドリアDNA鑑定の結果、これらの遺骨は確かにロマノフ家の一員の物であることが確認されました。

 

アンダーソンの死後10年を経た1994年に、イギリスのFSS(Forensic Science Service)が彼女の小腸標本からのミトコンドリアDNA鑑定を行なったところ、エリザベス女王エジンバラ公フィリップ殿下と発見されたロマノフ家の遺骨のDNAは確かに一致したが、アンダーソンのDNAはこのどちらとも一致しませんでした。

これはアレクサンドラ皇后の姉がイギリス女王エリザベス2世の夫君エジンバラ公の母方の祖母にあたることから、エジンバラ公・ロマノフ家の一員であることが確認されている皇女・アンダーソンの三者のミトコンドリアDNAを較べるという、かつてない科学的な検証でした(ちなみに父方からもロシア帝国の血を引くフィリップ殿下)。

DNAの結果アンダーソンの正体はポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカ(Franziska Schanzkowska、1896年12月16日生 - 1920年3月失踪)である可能性が99.7%である、と学術誌『ネイチャージェネティクス(Nature Genetics)』に発表されました。

 

 

1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された4人の大公女達は二月革命勃発直後みな麻疹はしか)にかかった後で、髪の毛が変な伸び方をしたため自分で剃ってしまいました。

オリガ(21)、タチアナ(19)、アナスタシア(15)、アレクセイ( 12)。

アナスタシアも麻疹 で

1917年3月21日に母アレクサンドラとその子供達がツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕され、翌22日はニコライ2世も宮殿に戻り、一家は自宅軟禁下に置かれ次いで列車と汽船でシベリアのトボリスクまで移送され、1917年8月26日からこの地の旧知事公舎で生活を開始。

殺害された皇女たちは髪が肩まで伸びていた(前年2月にはしかで頭を丸坊主にしたため比較されました)。