ジャクリーン・ブーヴィエJacqueline Bouvier Kennedy Onassis | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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オードリーをはじめとするハリウッドセレブからダイアナ妃やグレース・ケリーなどの各国 王室・王族も。

ケネディが大統領に就任する7年前。1953年9月12日、24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエ(のちのJacqueline Bouvier Kennedy Onassis)と36歳のジョン・F・ケネディ上院議員の結婚式が開催されました。

ジャクリーンのドレスをデザインしたのは、実母ジャネットが継父ヒュー・オーチンクロスと再婚した時のドレスと同じデザイナー 黒人アン・ロー。

50ヤードのアイボリーカラーのタフタを用いたこのドレスは当時の費用で500ドル、現在の価格だと4000ドル(約43万円)くらいの手ごろな価格のもの。白人のデザイナーに頼めば1500ドル相当のものだったとか。式場までドレスを持って行った際にも黒人であったため、通用口から手渡さねばならなかった時代だそうです。

オーチンクロス家は、アメリカでも指折りの名家であり、義父とはいえ、ジャクリーンの父親であるヒューディーオーチンクロスは、アメリカのパブリックースクールの超名門校であるグロートンの出身。

 

 

 

 

流行に敏感な彼女が「ランプシェード」と形容したアイボリーのシルクタフタドレスを着ることに同意したのは、ひとえに姑であるローズ・ケネディのプレッシャーを感じてのことだそう。

このドレスはアン・ロウの事務所の水道管が破裂し、8週間かけて用意していたドレスが台無しになりロウとスタッフたちは力を合わせ、1週間でドレスを新しく仕立てたそう。

 

披露宴の場所はジャクリーンの継父、ヒュー・オーチンクロスが所有する、ニューヨーク州ロードアイランドにあるハマースミス・ファーム。継父のヒュー・オーチンクロスの曽祖父時代に建てられたヴィクトリアン形式の28ベッドルームの邸宅を囲む広大な土地。

披露宴の招待客は1200人。新郎新婦が全員の挨拶を受けるまでに、二時間半の時間がかかったのだとか。当時アメリカでは伝統的に披露宴や結婚式にかかる費用は新婦側持ち出しであったため、実家が裕福で教育、教養があり、美しく、若く、そしてカトリックである新婦ジャクリーンは、ジョンの父ジョゼフ・ケネディの政治的野心を十分に満たすものだったとか。

 

 

デザイナーのアン・ローは1898年アラバマ州生まれ。曾祖母がアラバマのプランテーションで働く黒人奴隷で祖母と母から針仕事を習い、モンゴメリー家(アメリカに最初に入植した名家のひとつ)をはじめとするアメリカ上流階級のドレスの仕立てを引き受けていました。

結婚した夫が妻が仕事することを許さなかったため、アン・ローは息子を連れて1917年、ニューヨークに移住。仕立師養成学校に通うが、黒人だったため、ひとりだけ白人とは別の教室で学ばされていました。

 

サロン「アニー・コーエン」(ユダヤ人経営らしく見える名前)を開き1946年には『遥かなる我が子』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したオリヴィア・デ・ハヴィランドのドレスをデザインするも差別宇される時代でデザインクレジットには別名が記載されていました。

1950年には2店目となる自身のサロン「アン・ローズ・ガウンズ」を開店。最良の生地を用い、オリジナルのデザインを誇るこの店はオーチンクロス家、カーネギー家、ロックフェラー家、デュポン家など多くの名家の秘密兵器として贔屓されました。

ムッシュ・ディオール本人が彼女の作品を目にした際、多少の嫉妬もこめて「このドレスは誰がデザインしたんだ?」と聞いたほどでしたが、黒人女性でも立派なドレスメーカーになれる」ということを証明する手段で白人メーカーと比べ仕事を安く引き受けていたせいで、経営状態は破綻寸前となり、最終的には赤字が重なり、そして目を患ったため1971年に引退し貧困の中亡くなったそうです。

 

 

 

 

 

1961年から1963年までアメリカのファーストレディ。

 

ジャクリーヌ・ブーヴィエは、フランス貴族の血を引き(曽祖父のお母さんがフランス貴族)父母とも名門の裕福な家庭に生まれ、上流階級の子女にふさわしい教育を受ける。生涯の趣味は乗馬。

1949年、17才で社交界にデビューし、その年のナンバー1に輝きました。高校の卒業文集には「絶対に普通の主婦になんかならない。」と記していたのだとか

ヴァッサー大学に進み、パリに憧れてソルボンヌ大学に留学。

ケネディと出会った当時23才。結果的には10年で終わることに。

ケネディ家はアグレッシブかつ野心に燃える一族でジャッキーは異質な存在でした。

育った子どもは2人。キャロラインと、ジョン・Fケネディ・ジュニア。ほかに流産、死産、産まれたもののまもなく死亡、の子どもが3人いたのだとか。

 

ジャッキーがオナシスと再婚したのは39歳です。オナシスがなくなった時、ジャッキーはまだ45歳。ジャッキーは編集者として働きはじめる。

 

暗殺から数年後の1968年、夫を亡くしたジャクリーン・ケネディはケネディ政権時代に駐米英国大使を務めたデイヴィッド・オームズビー・ゴアからのプロポーズを「あなたは私にとって愛しい兄のような存在であり、指導してくれる人です」と断る手紙を送っています。

ハーレック男爵としても知られる彼の従兄弟が、大統領の妹キャスリーン・ケネディと結婚したことから、公私ともに親密な関係にあったのだとか。

これらの手紙はゴアの政府書類用の箱に保管されていたもののが、鍵が見つからず40年以上も発見されないままだったとか。

別の手紙ではオナシスとの結婚で批判をジャッキーは「彼(オナシス)は孤独で、私を孤独から守ってくれようとしています。彼は賢く、優しい人。彼が決めたのならば、私もそうします。私は決意したのです」と手紙に記しています。

 

2017年10月21日、非公開機密文書とされていたケネディ氏暗殺に関してCIAや連邦捜査局(FBI)が作成した捜査資料や報告書を中心とする、これまで全面非公開となっていた約3600点についてトランプ大統領が是非を判断する期限が26日を前に公開を承認しました。

 

米国立公文書館は過去に暗殺関連の資料の大半を公開してきたが、問題の文書については米政府が50年以上にわたって公開を差し止めてきました。父ブッシュ大統領(当時)が92年、残る暗殺関連の記録を25年以内に全面公開することを義務づける法律に署名。その前年、米国では「暗殺は米政府の陰謀だった」と主張する映画「JFK」(オリバー・ストーン監督)が公開され、暗殺の真相解明を求める世論の声が高まっていました。