【ヨルダン王室】ヌール王妃 Memoris of an Unexpected Life | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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ヌール・アル=フセインQueen Noor of Jordan

(結婚前 リサ・ナジーブ・ハラビイ)1951年8月23日-)


ヌール王妃

ラニア王妃の義理の父にあたるフセイン1世は4度結婚し、4人の妻の国籍や宗教に関わらず『王妃』認定が慎重に行われ、国王の実母は王妃とならず4番目の妻 ヌール・アル=フセインQueen Noor of Jordan(結婚前 リサ・ナジーブ・ハラビイ)が王妃となりました。ヌールはアラビア語で光の意味です。


Queen Sofía and Queen Noor of Jordan at the Royal Palace in 1985

ムナー・アル=フセインとラニア王妃


父ナジーブの父方がシリア系で母はアメリカテキサス農場主。


幼いころから父方の中東に興味を持ち、ヨルダンで働いていたとき、パンアメリカン航空のCEOで、ヨルダン航空のアドバイザーのような立場にもあった父親からフセイン国王に紹介されたのがきっかけで、次第に国王と親しくなっていき、結婚にいたることに。(王妃が知らないところでいろいろな力が動いていそうと考えてしまうお父様のご経歴)王妃はただのお嬢様ではありません。

父ナジーブ・ハラビーは実業家で、1948年から1952年に渡ってアメリカトルーマン政権下、歴代国防長官の顧問や補佐官をつとめ、1953年民間航空への投資を見直しロックフェラー家の事務所に加わり、ケネディ政権発足直後に連邦航空局長に任命され1961-65年つとめます。米国運輸省設立に勤め、リンドン・B・ジョンソン政権下で実現。1969年から1972年にパンナムのCEOを務めました。パンナム長として、ボーイング747航空機の命名式に出席。



順番では4人目の妻ですが、フセイン国王は同時に複数の妻を持ったことはなくヌール王妃は唯一の王妃。

一人目、二人目(国王の母)とは離婚、三人目のアリア王妃はヘリコプターの事故で死去。3人目の王妃の小さな遺児たちは、ヌール王妃を「新しいお母さんだよ」と紹介された後、「この人が長生きしますように」と祈ったそう。



リサ・ハラビー

1961年、ロサンゼルス国際空港の開通式にて、リンドン・ジョンソン大統領(在1963-69)と並ぶリサ・ハラビー。


ムナー・アル=フセインとラニア王妃

国王との子供:

・ハムザ・ビン・アル=フセイン:1980年生まれ。

 アーセム・ビン・ナイーフ殿下と最初の妻Firouzeh Vokhshouriの三女ヌール・ビント・アーセム殿下と結婚。結婚によりヌール・ハムザとなった。
・ハーシム・ビン・アル=フセイン:1981年生まれ。

 Fahdah殿下と結婚した。
・イーマーン・ビント・アル=フセイン:1983年生まれ
・ラーイヤ・ビント・アル=フセイン:1986年生まれ

ムナー・アル=フセインとラニア王妃


自伝書『QUEEN NOOR Memoris of an Unexpected Life』


アメリカで生まれ教育を受けた女性が、ヨルダン王妃となり、結婚後の流産の体験、尽きないゴシップに辟易しながらも、主にフセイン国王が身を粉にして奔走した中東和平への道のりについて語られています。

エピローグで、『中東和平につくした国王の遺志を継ぐ形で』『いつか子ども達が、平和なエルサレムを歩く日が来ることを祈る』 『(国王へ)旅の終わりに私達が再会し、もう一度一緒に笑うとき、私はあなたに話すことが、きっとたくさんあるでしょう』と締めくくっています。

※イギリスの植民地だったヨルダンは親米政策をとり、イスラエルと和平関係にある中東では数少ない国。ヨルダンはずっと中東では「どこの戦争にも加わらない」というスタンスでした。



国内情勢が怪しくなり始めた頃のイランファラ王妃がヨルダンを訪問した際には「私たちに何かあったら子ども達をお願いできますか?」と問われたりもしたとか。


エジプト・ムバラク大統領が心変わりし、「このままでは戦争になる。今君は世界中を敵に回している」と国王が説得しても「その通り。アッラーのみが私の味方だ」と言い切り、イラクのフセイン大統領やあくまで戦争を避けようとするフセイン国王に「イラクの味方、臆病者」のレッテルを貼ります。

1990年8月2日にイラククウェート侵攻をきっかけに1991年1月17日にイラクを空爆して始まった湾岸戦争。イラクと友好関係にあったヨルダンは、調停にのり出しました。しかし失敗。

ヨルダンは湾岸戦争でイラク側につき、その後、サウジアラビアやクウェートから仕返しの経済制裁を受けることになり、アメリカやサウジアラビア等、他のアラブ諸国との関係を悪化させました。

ヨルダンは「穏健派」ということで、基本的にアメリカ側。しかしもともとヨルダンイラクは同じ王家の国家。自国資源に乏しいヨルダンとしてはイラクが財務体質を改善し貿易量が回復するか否かが生死の分かれ目でした。)


国連が決めたイラクへの経済制裁の結果、最大の貿易相手国を失い、疲弊するヨルダン経済...湾岸戦争前夜から続いた、果てしない緊張の日々が語られます。


湾岸戦争の発端はOPECでの原油価格調整とそれを実現するための各国採掘量調整をクウェートが破ったことが発端。イラクは主力輸出品の原油価格が低迷すればイランイラク戦争時に米ソから受けた支援の返済ができなくなり、実際アメリカはイランの支払い能力低迷を受けて主要輸出品目だった穀物輸出を制限し始めます。これは受け入れ港であるヨルダンにとっても打撃になりました。

また石油をイラクから輸入しエネルギーの依存率が高かったヨルダン。イラクを攻撃する側に加わると、イラクからの石油の供給が止まる恐れがありましたが湾岸戦争が始まるとイラクからのヨルダンへの石油も止まりました。
生まれ育った国アメリカがアラブ諸国に行った事の狡さを王妃はアメリカ人の視点とヨルダン王妃としての視点で見つめており、国王を支えます。



1991年には、ヨルダンとパレスチナの合同代表団が、中東和平交渉に乗り出します。また、国王自らが、民主化を推進させ、保守的な宗教政党に代わり、1993年の下院選挙では、パレスチナ暫定自治推進派が過半数を獲得ました。


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1978年6月結婚式(国王42歳、花嫁26歳)

ヌール王妃

On June 15, 1978 the former American, Miss Elizabeth (Lisa) Najeeb Halaby married HM King Hussein of Jordan at Zaharan Palace. The new bride raised Episcopalian, by law was converted to Islam and renounced her American citizenship. She was 26 and he was 42. She was his fourth wife.
ヌール王妃
写真をみると、世間知らずな守られてきたお嬢様の雰囲気も


ヌール王妃
思惑なんて信じない
ヌール王妃



時を経て、強い女性の雰囲気も

ヌール王妃

洗練...
ヌール王妃


アブドゥッラー2世の母は前国王の2度目の結婚相手でムナー・アル=フセインPrincess Muna al-Hussein(結婚前はアントワネット・アヴリル・ガーディナーAntoinette Avril Gardiner、)1941年、イングランドのチェルモディストン生まれ。英国陸軍軍人ウォルター・パーシー・ガードナー中佐の娘。王妃として認められる事がありませんでしたが、パレスチナ人のラニア王妃(Rania al Yassin 1970-)は夫の推薦で1999年3月22日にすんなりと王妃となりました。

ラニア王妃


ラニア王妃はパレスチナの名門ヤシン家出身。イギリス委任統治時代の1936年、トゥカルム指導者アブドゥル・ヤシン(Abdul Rahman Yassin)が蜂起してのイギリスとの戦いが、今もヤシン家の名門の誉れを高くしています...がアブドラ国王の母親はイギリス人(父は大使館に勤めたとも)...現国王は血縁でいうととても複雑な立場で、中東と西洋諸国の外交上の橋渡し的存在もになっていそうですね。



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