1.「ハーメルンの笛吹き男」の恐ろしさ

 13世紀末、ドイツ北部の町ハーメルンの住民達はネズミの大量発生に悩まされていた。そこに、ある男が現れ「ネズミを駆除しょう」と申し出る。住民達は喜んでその男にネズミ駆除を依頼した。男が持っていた笛を吹くと、不思議なことに町中のネズミが路上に現れ、行進を始めたのである。やがてネズミ達は近くの小川に次々と飛び込んでいった。これがグリム童話で有名な「ハーメルンの笛吹き男」である。
 
 実は、この童話には恐ろしい続編がある。ネズミを駆除してから、笛吹き男は町の住民に約束の報酬を要求した。ところが、住民達はその約束を反故にしてしまった。男は怒りに震えながら再び笛を吹き始める。すると今度は、町中の子供達が隊列を作り、行進をはじめたのである。そして子供達はどこか遠いところに消えていった。

 グリム童話はドイツの古い民話が土台になっているが、実際にハーメルンの町で、1284年に130名の子供が消えたとする記録が残っている。そこで、この民話は何らかの史実が語り継がれたものと推測されている。

 それでは、なぜ子供達は集団で失踪したのだろうか。

 その理由の一つに、ペストにより子供達が集団死したとの見方がある。ペストはネズミと密接に関連する病気である。ネズミを駆除したという最初のストーリーは、ペストを暗示させるものだ。

 また、この事件がおこってから60年後の1340年代に、ヨーロッパ全域は中世の黒死病流行と呼ばれる、空前のペスト大流行に見舞われている。その少し前からペストが燻っていても不思議はないのである。

 いずれにしても、ペストは人間社会が形成されてから大流行を繰り返してきた。その恐怖は人々の記憶に深く刻まれ、各地の民話や風俗にはペストの流行に関連するものが数多く残されている。

2.繰り返す悲劇

 有史以来、ペストの世界的な大流行は4回記録されている。

 最初の大流行は6世紀のことで、東ローマ帝国のユスチアヌス帝が大ローマ復活をかけて、侵略戦争を繰り広げている最中の出来事だった。流行の極期に首都のコンスタンチノーブル(現イスタンブール)では、日に1万人近い人々が死亡したと記録されている。

 そして2回目の大流行が、1340年代に始まる中世の黒死病の流行である。この時は全世界で7000万人の命が失われる大惨事となった。

 3回目はロンドン大疫病とよばれる17世紀の流行で、この模様はダニエル・デフォーの「ペスト年代記」の中で詳細に述べられている。

 このような未曾有の大惨事にあたり、当時の人々はペストの原因を色々と考えた。とくに中世の黒死病の流行に際しては、数々の原因論が浮上した。

 最も一般的な意見は瘴気説である。大地から沸き上がる有毒な気体が人体を害するとする説だが、黒死病流行の直前に各地で地震が多発したため、それによって生じた割れ目から瘴気が発生したと考えたのである。

 一方、パリ大学の医学部は、フランス国王の諮問に応じて、その原因を天体の異常な動きによるものと結論している。また、信心深い人々はこの試練を「神から下された罰である」と考え、自身の体を鞭打ちながら行進する団体が各地に出現した。

 さらに恐怖のため集団ヒステリー状態に陥ると、ユダヤ人原因説が各地で沸きおこる。ユダヤ人が井戸に毒を撒いたとする説だが、この影響により、ヨーロッパ全土で彼等の迫害が加速されるのだった。

 19世紀末から始まる4回目の大流行は、幸いにもヨーロッパに達することはなかった。しかし、アジア、アフリカだけでなくアメリカ大陸にも波及する文字通りの世界的流行となったのである。

3.ペストの素顔

 この流行の渦中にある香港に北里柴三郎が登場する。1894年のことである。彼はドイツの細菌学者コッホの下で研鑽を重ね、帰国後は福沢諭吉の援助で北里研究所を設立していた。

 同じ頃、フランスの軍医であるイエルサンも香港に到着した。二人はペストの病原体の発見を競い合い、結局、北里が最初にペスト菌の素顔を眺めるのである。

 しかし北里の発見したペスト菌には雑菌も混在していた。このため、それから暫くして純粋なペスト菌を分離したイエルサンが、歴史上はペスト菌の発見者として登録されている。

 元来、ペスト菌はネズミの病原体である。この体長僅か2μmの悪魔は、ノミの吸血によりネズミの体内に注入され、この動物を葬り去ることを生業としていた。ところがネズミと人間が共存する環境では、その魔力が人間にも向けられ、流行が急速に拡大するのである。

 ノミの吸血で人体内にペスト菌が注入されると、まず手足や頚部のリンパ節が腫脹してくる。これはペスト菌の拡大を抑える人間の抵抗力によるものだが、このリンパ節の腫脹が激痛をおこす。それとともに高熱を発し、精神の錯乱状態に陥ることも少なくない。この状態が腺ペストと呼ばれるものである。

 フランスの文豪カミューの名著「ペスト」にも多くのペスト患者が登場する。この小説は1941年にアルジェリアの町で、フランス人医師が出会ったペスト流行の模様を詳細に綴ったものである。その流行で最初の患者となる門番の様子は、臨場感たっぷりに描かれている。

 「しばらく苦しみ続けたあげく、あえぎながら門番はまた床についた。熱は39度5分で、頚部のリンパ節と四肢が腫張し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。彼は今では内部の痛みを訴えていた」

 この哀れな門番のように人間の抵抗力が菌に敗北すると、ペスト菌はリンパ節から堰を切ったように全身に散布され、皮膚に黒い斑点を生じさせながら患者を死へと導く。この黒い斑点こそ、ペストが黒死病と呼ばれる所以であり、現代ではこれが敗血症により出血傾向をおこすためと解明されている。

 近年は抗菌剤が数多く開発され、とくにストレプトマイシンはペストの特効薬である。腺ペストの患者であれば、その投与によりほとんど治癒するが、敗血症の状態になると致命率は70%以上にも達する。これが抗菌剤のない時代には、腺ペストで半分以上、敗血症では100%近くが死んでしまったのである。それだけペストは殺傷力の強いの病だった。

4.視線を合わせるな!

 人間社会が出会ったペストの中でも、とりわけ中世の黒死病の流行は人々に強い恐怖感を植え付けた。それは病気の強力な殺傷力だけではない。その感染力の凄まじさ故なのである。通常はノミの吸血で感染する病が、空気により感染する病へと変化してしまったのだ。

 中世の流行の発端は中央アジアのバルハシ湖周辺と考えられている。1338年頃に、この地方を治めていたモンゴル人の集団が最初の犠牲者となった。

 それからというもの、流行の波は草原の道を一路西に向かい、その終着点の黒海沿岸のカッファに到着したのである。これが1347年のことだった。カッファは当時の海運を担っていたジェノバ人の拠点であり、この町からペストはジェノバの船に紛れて、ヨーロッパ各地へと散布されていった。

 ヨーロッパ内でのペストの流行は、それまでと様相を異にして急速に拡大の速度をあげる。これは本来のノミの吸血で感染する方法ではなく、空気感染する状態に変化したことを意味した。

 腺ペスト患者の一部には、末期になると肺炎をおこす者がいる。これが肺ペストで、現代でもこのような患者は、発病後18時間以内に抗菌剤を投与しないと100%死亡する。この当時は、肺ペストになれば間違いなく死亡していたはずだ。

 しかも肺ペストの患者は、咳やクシャミの際に大量のペスト菌を排泄する。これを吸い込んだ者は直ちに肺ペストを発病し、死に至るまでの数日間、強力な感染源となるのである。このように空気感染は極めて効率のよい感染方法だった。

 当時の人々にとって、患者に近づくだけで感染し、瞬く間に死んでてしまう様は恐怖そのものだった。感染の原因を「患者の視線による」と考える者も多かった。このため、患者を看護する際には、視線を合わせないことが鉄則とされていた。

 やがて、死者が多くなるに従い人々の心は荒廃し、信じられない程のモラルの低下を招くのである。

5.早すぎた埋葬

 イタリアの諸都市に悪魔が到達したのは1348年のことである。

 当時のナポリには、ルネッサンスの幕引き役となる作家のボッカチオが滞在していた。彼は周囲の人々が次々と死んでゆく事態に恐怖し、故郷のフィレンツエに帰着する。しかし、そこも地獄の様相を呈していた。当時、12万人程の人口があったこの町で、1348年7月までに生存できたのは僅かに2万人だったのである。

 この死臭が充満する町で、ボッカチオは代表作の「デカメロン」を執筆する。それは、ペストに脅えて郊外に逃避した男女10人が語る好色艶笑譚であった。この男女のように、極限の恐怖状態のため、快楽と官能的な喜びに溺れる者も少なくなかった。

 ボッカチオはこの物語の冒頭で、人々が動揺し道徳が崩壊していく様をルポタージュ式に述べている。

 「姉妹は兄弟をすて、またしばしば妻は夫をすてるにいたり、また父や母は子供たちを、まるで自分のものではないように、訪問したり面倒をみたりすることをさけました」

 患者に近づくと感染するという経験から、家族は看病をやめて患者を放置するようになったのである。放置された患者は孤独の中で悶え苦しみ、そして息をひきとる。死体は門前に棄てられ、それを死体運搬人が回収するのであった。葬式が行われても、それは笑い声に満ちた馬鹿騒ぎの場と化していた。

 さらに恐ろしいことには、瀕死の患者も死体として処理されたのである。死者が膨大な数になると従来の墓場では足りなくなり、町の郊外に大きな穴を堀り、そこに死体を投げ込んでいた。この穴の中に、まだ息をしている瀕死の患者も数多く埋められていたのである。患者に近づきたくないために、死を判断することすら躊躇われたのだろう。墓場に生き埋めにされた患者は、多くの死体に囲まれながら昇天するのだった。

 ポーの怪奇小説「早すぎた埋葬」を彷彿とさせる情景である。

6.覆面をした医師たちの饗宴

 家族にも見放されたペスト患者にとって、医者の治療を受けることなど、まず期待できなかった。病気を恐れて郊外に避難してしまう医者もいたが、多くの医者が死んでしまったためである。もっとも、この当時のペストの治療は、無意味な冩血か、腫大したリンパ節を切開する程度のことしか出来なかった。

 中世の大流行の後に、巷にはペスト医と呼ばれる医者が出現する。患者からの感染を防ぐために、彼等が纏う服装は大変に奇抜なものだった。全身を皮の衣服で包み、顔には覆面をかぶる。それは、鼻と口に鳥の嘴のような突起をもつ恐ろしい覆面だった。この嘴の部分には、空気を洗浄する目的で香の強い薬草を入れていた。もちろん目の部分には、視線を合わせないように覆いがされていた。その姿は巨大なヒヨコを彷彿させるもので、カミューはこのような医者が診察する光景を「覆面をした医師たちの饗宴」と描写している。

 そんなペスト医の一人として16世紀のフランスで名声を博したのが、予言者として著名なノストラダムスである。

 彼の母方の家系は医術を業としており、彼自身も1529年に大学の医学部を卒業した。卒後は南フランスのアジャンで幸せな結婚生活を送っていたが、間もなく妻と二人の子供がペストにより死亡してしまう。この試練を経て、彼はペスト医としての仕事に没頭するのである。ペストの予防に関しても、土葬をやめて火葬を推奨するなど、数々の画期的な提言を行っている。

 晩年になり、ノストラダムスは予言者としての地位も獲得するが、あの壮大な予言はペストとの格闘の中で閃いたものかもしれない。

7.周期的な大流行の秘密

 ペストの大流行は凡そ300年の周期で発生している。これは、その時期にネズミとノミの間のペストサイクルが過剰に回転し、さらに人間がそのサイクルに接触するためにおこる出来事なのである。

 古来から世界には3箇所のペストの巣窟があった。

 ペストサイクルが常に回転している地域であるが、一つはアフリカ中部の大湖地帯で、ここを震源地としたのが6世紀の大流行である。

 二つめは中央アジアの草原地帯で、ここから中世の黒死病の流行が勃発した。

 三つめは中国とミャンマーの国境にある山岳地帯で、19世紀末の大流行の震源地である。この巣窟に人間が侵入したり、あるいはネズミがそこから大量に移動することで、流行は世界各地へと拡大した。

 中世の黒死病流行の際も、モンゴル帝国により中央アジアに草原の道が築かれ、人間が巣窟へ容易に侵入できる状況になっていた。さらに、この時代はネズミ自体も巣窟からヨーロッパ方面へ大量に移動していたらしい。ペストの主な標的となるネズミはクマネズミと呼ばれる種類で、このネズミはヨーロッパに元来棲息していなかった。

 ところが13世紀頃から、徐々に中央アジアより移動を始めたのである。冒頭で述べた「ハーメルンの笛吹き男」の話でも、当時の人々がネズミの増加に悩まされていた件があるが、これこそクマネズミの西方への移動なのだろう。

 それでは、なぜクマネズミは西方へ移動したのだろうか。

 これは元々の棲息地域である中央アジアで、飢饉などにより食料が不足したためと考えられる。生態系の中で食料不足や個体数の過剰などがおこり、ある生物種の存続が困難になると、その生物種は別の生態系に移動する現象をおこす。さらに、それでも存続できなくなると、集団自殺行動をとることもある。ネズミであれば、次々と川に飛び込んで自殺するわけだが、これは「ハーメルンの笛吹き男」に出てくる状況と極似している。

 私は、ペスト菌の本来の意義が、ネズミの個体数を調整する生態系のメカニズムではないかと考えている。

 個体数が増えすぎたり食料不足になると、ネズミという生物種を存続させるために、ペスト菌がネズミの殺戮を開始する。すなわちペストサイクルが過剰に回転を始めるのである。こうして、人間がサイクルに接触する機会も増加する。それとともに、ネズミは移動という方法をとるため、巣窟の外にある人間社会にも流行が拡大する。

 こんな状況が300年周期で繰り返されていたのではないだろうか。

8.人間社会への警告

 人間の文明は古代、中世、近世、近代と進化を遂げてきた。そしてペストの大流行はその節目毎に出現している。この病気が本来は、ネズミという生物種を維持するメカニズムであったとしても、同時に人間の文明を進化させる魔力として機能しているのかもしれない。

 現在、世界に存在するペストの巣窟は3つにとどまらない。4回目の世界流行の果てに、それは北米の砂漠地帯にも新たな拠点を築いたのである。これら巣窟の周囲では、最近でも年間2000人前後のペスト患者が発生している。抗菌剤が発達した現代、その死亡率は10%以下に低下しているが、近年は抗菌剤に抵抗性のペスト菌も少しづつ出現しているのである。

 最後の世界流行が発生したのは19世紀末のことで、300年周期とすれば次の流行は22世紀あたりになるだろう。しかし油断は禁物である。ペストは文明の停滞や堕落を常に監視しているのだ。

 カミューは「ペスト」の最終章を次のような文章で結んでいる。

 「人間に不幸と教訓をもたらすため、いつかペストは鼠どもを呼び覚し、何処かの幸福な都市に彼等を死なせにやってくる」

参考資料
ペスト大流行 村上陽一郎著 岩波新書 1983年
ペストは今も生きている C.T.グレグ著(和気朗訳) 講談社 1980年
ペストの文化誌 蔵持不三也著 朝日選書 1995年
ヨーロッパの黒死病 クラウス・ベルクドルト著(宮原啓子、渡辺芳子訳)国文社 1997年

 

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周期的に流行したペストと同様に「ウイルス」もまた人間に対し

「人間が如何に無力で、脆弱な存在なのか」知らしめに訪れる。

ハーメルンの伝説は、13世紀も21世紀も人間の本質は変化していない

寧ろ、大事な教訓を世代交代と共に風化させてはいけないことを伝える。

 

今日、感染したかどうか、症状も表さずに多くの人間をウイルスのキャリア

とする「新型コロナウイルス」の戦術は、非常に巧緻というか狡猾というか

まるで、透明な軍隊の攻撃を受け続けているようなものである。

 

彼らの姿は、見えないがあっという間に人間と共に移動し、あちこちに

潜み、そして命を奪っていく。上記のペストと変わらない恐ろしさである。

 

仮に特効薬やワクチンが開発されても、ペスト同様に耐性を持つように

変異し、また人間に牙を向け続けるのだろう。

 

残念ながら、そうした戦いの末に我々現代人は、生き残りそのDNAを

繋げて進化してきた。進化には多くの犠牲を伴ってきたと言える。

 

免疫を得た個体、或いは抵抗力が強い個体が生き残っていくという

非常に厳しい自然の摂理を改めて思い起こし、今を生きる私達は

ペストに苦しんだ人々よりも進化し幸せにならなければならない。

 

私達に続く子孫に「21世紀、現代の”ハーメルン”の伝説」として

より役立つ教訓やノウハウ、技術に昇華させていく事が重要だ。

 

何よりも「あなたが、私が、この時代に一生懸命に生きる」事こそ

大切であろう。