12歳、小学校6年生。

 

この年一番の思い出は、サッカーで全国大会に出たこと、今にして思えばすごく貴重な出来事のはずなのに、その当時は早く終わって家に帰りたい、小学校生活最後の夏休みが終わってしまう。。

 

もともとサッカーが好きで始めたわけでなく、野球部がなかったから仕方なく、中学校になるまで何もしないよりは基礎体力つけておいた方が良いだろうと思い、当時出来たばかりの「八郷スポーツクラブサッカー少年団」に5年生から入部した。ほとんどの同級生がこのサッカー部に入った。

 

毎週のようにリーグ戦やらカップ戦が行われていたけれど、順位決定戦でも気持ち7割の熱量でプレイしていた。というのはどうせ中学校に入ればサッカーはしないので、そこそこでやっていたらいいだろう、その程度の意識だったからだ。

 

それよりはサッカーの練習後、帰宅してから野球の練習着に着替えて、近所の空き地で親父相手に行うピッチング練習の方がどれだけ真剣だったことか。

 

ある試合で敵の選手が肩であたってきたから、なんだこのヘナチョコ野郎と少しだけ強く当て返したら、ボールみたいにゴロゴロ転がっていった。すぐに審判をしていたどっかの先生が近寄ってきたから、叱られるなと覚悟したが、ポケットからメモを出してきて、名前を聞かれた。

その試合後、監督から次の土曜日にオール四日市の練習会に呼ばれてると言われた。

あまり気乗りしなかったが行けと言われたので参加してみることにした。

うちのチームからはもう一人、土江君というゴールキーパーが呼ばれていた。

 

練習会に参加して知ったのだが、練習会は毎回選考会を兼ねており、4年生から選抜されている選手たちはすでに顔見知りで、すでに友達になっており、「おお、お前もまた呼ばれたのか」とかの会話や、すでに代表チームの、胸に四日市とあるユニフォームで参加してる選手の何人かいた。

 

練習会の最後になると、次の練習会に呼ばれる名前が発表される。正直、呼ばれたくなかったが、毎回呼ばれて結果的にレギュラーチームの練習台になるサブチームのメンバーに入ってしまうことになった。

サブチームも一応は四日市と左胸にあるのはあるが、上下白のユニフォームに赤字で四日市、レギュラーチームのユニフォームは赤字に紺のパンツで白地で四日市、高級感が違う気がして、こんなんだったらそれ以前に呼ばれなくなる方がマシだと感じていた。土江君はレギュラー組で、ゴールキーパー用の水色のカッコいいユニフォームをもらっていたことも自分をみじめに感じさせる一因だった。

 

大協石油のグランドで何回も何回も練習会があり、レギュラーチームの練習相手をさせられる日々、どうせ中学では野球をやるのにと考えると、無駄以外の何物でもない気がしていた。プレッシャーなど全然なく、早くその日の練習が終わらないかそればかりを考えてプレーしていて、ある日コーチに履いていた靴でゲーム中に殴られたこともあったくらいだった。

 

いよいよ全国大会の東京遠征の直前の時期になった。合間に監督、コーチが何やら事件があったような顔で話をしていた。

フォワードのレギュラー関泰弘君が結核になったらしく、入院してしまったため東京遠征に連れていけないということだった。

それで誰かを代わりに選ぶとなり、その選考が行われ、なぜか私が選ばれてしまった。

 

全国大会に連れて行くぞ、但し、名前は「関」やけどな。

やっと解放されると安堵していたはずが、夏休みに2週間もサッカーをすることになった。しかも泊りで。俺の夏休みが終わってしまうやんか。。。