電車の音が、夜のホームに響いていた。
僕はベンチに腰を下ろし、自販機で買ったカフェラテの缶を手の中で転がしていた。触れられないくらい熱いけれど、それもすぐにぬるくなる。物事というものは、どれもこれもそういうものだ。
仕事帰りの馴染みの最寄り駅。十月の夜風は強く、街灯の光はどこか遠い。
彼女の名前はミドリ。高校一年の春、下駄箱の前で僕が落とした上履きを、彼女が拾ってくれたのが最初の会話だった。
「おっちょこちょいだね」
口元だけ笑って、不思議な子だった。
それから何となく会話をするようになり、昼休みに好きな漫画家の話をして、放課後に駅前のドトールでカフェラテを一緒に飲むようになった。話題はいつも彼女から始まった。好きな小説の話、夢の話、東京のこと。どこか現実味のない語り口なのに、ひとつひとつの言葉に温もりがあった。
「舞台に立ちたい。照明の中で動き回って”生”を感じたい」
彼女はそう言って、自分の手を広げてみせた。僕はそれを黙って見つめていた。愛しい彼女の人生の一部となり、優しく触れたいと思った。でも、触れたら壊れそうで先には進めなかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、僕たちはそのまま卒業してそれぞれの道を歩み始めた。連絡は途切れ、SNSだけが彼女との接点になった。
SNSの中のミドリは少しずつ変わっていった。派手な服、夜の街、投げ銭配信。自撮りの笑顔に、かつての「夢」がなくなっていくのがわかった。
それでも僕は毎晩スマホを開いて、彼女の投稿に『いいね』を押し続けた。彼女に対して何かを示したかったのだと思う。見ているという事実、それだけが繋がりだった。
再会は、思いがけない場所で訪れた。
駅前のコンビニ。仕事帰りに立ち寄ったコンビニのレジに、彼女が立っていた。
「田口くん!?」
彼女は驚いて声が震えていた。でも、すぐにあの頃に戻ったような笑顔になった。彼女の表情に懐かしさを感じたけれど、どこか作られたような笑顔の中に少し警戒が混じっていた。とにかく年月を重ねた女性の魅力を纏っていたんだ。
「実家戻ってきてるの。いろいろあってね。まぁ、東京に負けたって感じ」
その言葉に、僕は返す言葉が見つからなかった。
バイトはすぐに終わるというので、駐車場で少し待つことにした。
夜の公園。僕たちが好きだったカフェラテ。冷えた空気。ミドリと高校時代のように並んで座った。
「東京ってさ、無音なんだよね。人も車も建物もたくさんあるのに、心の音がまったく聞こえない。最初は大丈夫だったんだけど、無数の欲望の中で自分の存在がどんどん透明になっていったの」
そう言いながら、彼女は手首をさすっていた。細い腕。少し赤くなった跡。僕は何も聞けなかった。
「田口くんは、ずっとここにいたんだね。何か変わった?」
「何も変わってないと思うよ。変わったのはミドリだけじゃん」
「ずるいなあ、そういうとこ」
彼女は微笑んで、空を見上げた。
「ねえ、キス、していい?」
彼女の突然の提案に、僕は拒む理由はひとつもなく、彼女の目を見て頷いた。
触れた唇に温かさを感じ、その後にかすかにカフェラテの香りがした。僕が長い間望んでいたことだったけれど、嫌な予感が体全体を支配していた。
彼女は何かを決心していたのだと思う。
「ありがと」
笑顔でそれだけ言って、ミドリは立ち去ってしまった。
それが、最後だった。
次の朝、彼女のSNSが削除されていた。アカウントごと、何もかも消えていた。写真も、投稿も、名前も。バイトしていたコンビニも、昨日で辞めていた。
当然電話も繋がらなかった。友達にミドリの行先を聞いてみても「東京に戻ったんじゃない?」と。ミドリは連絡先は誰にも教えず、居場所も知らせずに消えてしまった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
僕は思った。あの夜、彼女は決めていたのだ。過去の自分と決別して、本気で新たな情熱を燃やすことを。
最後に会った日の深夜のLINEに、彼女は僕に一言だけ残していった。
『今までの私を、見ていてくれてありがとう。ゴメンね』
僕は慌てて返信したけれど、LINEは未読のままでいつまで経っても既読にはならなかった。
それがミドリとの最後の繋がりだった。
彼女は東京に戻って、本気で舞台に挑戦しているのかもしれないし、どこか別の街で事業を立ち上げて、頑張っているかもしれない。
どちらにしても、過去を捨ててゼロから生活を始めているのだろう。
僕にはわかっていた。彼女はもう二度と、僕の前には現れない。
ミドリへ。
あの夜、君が話してくれた夢を、僕は忘れない。
君がいたこの街で、僕はこの先もずっと生き続けていくだろう。
これから君が進むであろう世界が、少しでもあたたかいようにと、ただ願っているよ。
電車が駅に入ってくる。
風が吹き抜ける。フードが揺れる。僕はカフェラテの缶を持ったまま、甘い残り香を残してゆっくり立ち上がる。
今年も、もう春が近い。
午後八時、駅のホームに立つと、雨は小降りになっていた。街灯の光が滲んで、舗道の水たまりにぼんやりと揺れていた。
僕は傘を差さずに、その場所に立っていた。なぜか、そこでそうしなければならない気がして。
「行かないで」と言えなかった。
あのとき君が振り返ってくれたのは、ほんの一瞬だった。
それは最後の君のやさしさ。
この雨はあの夜から、ずっと降り続いている。八月の終わり、セミの声が途切れた夕暮れに。
「永遠なんてないけど、でもこんなふうに終わりが来るなんて、思わなかった」
君は笑った。けれど目の奥は、まるで割れたガラスみたいに脆かった。
僕たちはよく喧嘩をした。些細なことで言い合っては、いつも君が先に折れてくれた。
「好きだから、許せないこともあるの」
その言葉の意味を、僕はうまく飲み込めなかった。
あの夜もそうだった。
「このままじゃ、私たちダメになるよ」
君の声は静かだった。でも、その静けさは深い淵のようだった。
「だから、これからは別々の道をいこう」
僕は笑ってごまかそうとしたけど、君はもう目をそらしていた。コーヒーの香りと、冷めたままの空気。口の中の言葉はどれも尖っていて、やさしく包む言葉なんて、見つからなかった。
君は傘を持たずに出ていった。外は小雨だったはずなのに、夜が深まるにつれて、激しくなっていった。
追いかければ、まだ間に合ったのかもしれない。けれど僕はただ、玄関のドアの前で立ち尽くしていた。足が動かなかった。心が、芯で折れてしまっていた。
次の日、君のスマホから届いた最後のメッセージは、たった一行だった。
「ありがとう。元気でね」
それから一年が経った。君はもう、どこか別の街で、別の誰かと笑っている。そんなの当たり前なんだけど、次へ踏み出せない僕は一人取り残されたような日々を過ごしている。
時々、君の好きだった音楽がラジオから流れる。雨の日の午後、僕はその音に心を揺さぶられないふりをする。
今日もあの日と同じ雨。君に言えなかった言葉を口の中で繰り返している。
「すまなかった。ありがとう」
どうしても、君に届けたかった。言葉は、言わなければ消えてしまう。雨がそれを教えてくれた。
涙に似たこの冷たい雫は、あの夜の君の痛みを僕に刻みつけるように打ちつけた。
ホームに電車が滑り込み、人が出入りする。
誰も僕に気づかない。まるで世界から忘れ去られたように、僕はそこにいた。
そして、ふと見上げた先に、幻のような姿を見た。
君だった。
いや、違う。
目元は君に似ていたけれど、誰か違う人の顔だった。
その人は誰かを待っているようで、傘を手に微笑んでいた。
一歩踏み出そうとして、僕は足を止めた。
この雨の中で、現実を受け入れていない僕は正気ではない。
記憶は色褪せて、僕は思い出にしがみついているだけ。
もう追いかけるべきじゃない。
言いそびれた言葉は、もう届かない。
だけど、今はそれでいい。
夜が更けていく。
僕は駅を離れ、濡れたシャツのまま、静かに歩き始めた。
駅前のサイゼリヤに入ったとき、ふと懐かしい匂いに鼻が反応した。トマトソースが焦げかけたような、炒めたタマネギの甘い匂い。それに混じる、鉄板の焦げ、わずかな揚げ物の残り香。あぁ、これはあれだ。昔、母と行った百貨店の屋上にあったレストランの匂い。
サイゼのメニューには、当然ナポリタンなんてない。でも、グリルハンバーグの湯気が立ちのぼった瞬間、あの頃の記憶がぶわっと舞い降りてきた。赤いチェックのクロス、まるでプラスチックみたいなプリン、レモンスカッシュ。上空には回る観覧車と、くたびれたウルトラマンの顔。あの時代が作り出した特別感。
昭和の終わり、僕がまだランドセルを背負っていたころ、母は日曜になると「今日は奮発してレストランに行くよ」といって、その屋上まで連れて行ってくれた。僕が学校で使う物を買い込んで、その荷物を両手に提げたまま、母はどこか誇らしげだった。お金に余裕があったわけじゃない。ただ、“外食” というイベントが、家族の一大行事だったのだ。
当時は、ナポリタンがご馳走だった。麺がべちゃっとしてても、ソーセージがパリッとしてなくても、真っ赤なケチャップがすべてを包み込んで、「これぞレストランの味」だと僕は思っていた。
それから三十年。僕は今、仕事帰りに一人でこのファミレスに寄って、税込300円程度のミラノ風ドリアを頼み、スマホでニュースを読みながら夕食を終える。物価高、円安、少子化、老後資金の不足。目に入るのは不安と煽りばかりの記事。子どもの頃に読んだ新聞の記事はもっと穏やかだった気がする。
店の片隅では、就活中らしい学生たちがエントリーシートの話をしている。隣の席では、老夫婦がミネストローネを分け合っている。ふたりともゆっくりスプーンを動かしている。彼らにとっても、もしかしたらここは百貨店の屋上なのかもしれない。
僕はドリアを口に運びながら、かつての『屋上』を想う。ウルトラマンの塗装は剥げて何の模型だかわからないまま放置され、観覧車は数年前に撤去され、百貨店そのものが潰れた。経営者は変わり、屋上にあったレストランは今、子供達が集まるゲームセンターに変わっている。
『なんでも安く、なんでも便利』になったはずなのに、心はどこか満たされない。食べたいものは選べるけど、食べたくなるものが減った。未来の選択肢は多いけど、どれを選んでもあまり変わらないように思える。
母は今、小さな老人ホームで暮らしている。先日、面会に行ったとき、「あんた、あの屋上でよくナポリタン食べてたの覚えてる?」と言って笑った。「忘れるはずがないよ」と答えたら、「あれは最高の贅沢だったのよ」と、小さく言った。
贅沢とは何か。それは金額じゃない。時間でも、労力でもない。ただ、『この瞬間に満足できるかどうか』なのだろう。百貨店の屋上にあったレストランも、今のサイゼリヤも、その本質はきっと変わっていない。大人も子供も気取らずに楽しめて、それでもどこかに特別感があり、懐かしさを感じるし、あたたかい。
僕はミラノ風ドリアを食べ終えたあと、ナポリタンのような匂いをもう一度かいだ。そして、母の好きだったあの甘ったるいプリンを思い出して、ドリンクバーの紅茶にミルクを注いだ。
僕の記憶の中にある屋上レストランはもうないけれど、幸せな思い出と共に、僕は新たな価値観を見つけていこうと思う。
駅前のカフェで、俺はコーヒーを飲んでいた。平日の昼下がり、白いシャツを着た営業マンや、子どもを連れた主婦が行き交う、ありふれた午後だった。
そんな中、ひときわ耳障りな声が響いた。
「ねえねえ聞いてよ〜、マジ信じらんなくてさぁ」
隣のテーブルに座ったのは、見た目はどこにでもいそうな二人組の女。茶髪のひとりがやたらでかい声で喋り出した。
「うちの職場の男、マジ陰湿なの。すぐ“それ僕の仕事じゃないんですけど”とか言うの。空気読めって感じじゃない?」
もう一人はスマホをいじりながら、適当に相槌を打っている。どうやら話は、職場の同僚の悪口らしい。
俺はどうにか耳の感覚を鈍らせて、声が聞こえてこないように願いながらコーヒーを啜る。だが、悪口は止まる様子はない。
「でさ、あたしがちょっと手伝ってって言っただけなのに、“それ業務範囲超えてますよね”って。ほんと理屈っぽくてウザいの!」
正直、悪口を言われている”男”に同情した。職務を守ってるだけじゃないか。それを「空気読めない」で一刀両断するのは、あまりに乱暴だ。
そして話は次のターゲットへ。
「あとさ〜、今年入った新人、ペーペーのくせに“私、残業は親に止められてるんで”とか言うの。は?って感じじゃない?社会人舐めすぎでしょ」
今度は新人さんが可哀想になってくる。いい歳の大人が親に止められてるっていうのも正直どうかと思うが、今どき、家庭の事情を大切にするのは珍しくない。
だが茶髪の女の口調はどんどんエスカレートしていく。誰かを貶すたびに、勝手に「世間の正義」みたいな顔をする。
なんなんだこいつ。
正論と悪意をぐちゃぐちゃに練り合わせて、人の尊厳を踏み潰してるだけじゃないか。俺も神経がだいぶ擦り減っていた。
そして極めつけは、こうだ。
「てか、うちの上司もさ〜、“その言いかた気をつけよう”とか言うの。は?あたしが悪いみたいに言うけど、こっちは事実言ってるだけじゃん?」
その瞬間だった。俺のテーブルの向かい側に、ひとりの女が静かに腰を下ろした。
「こんにちは」
驚いて顔を上げると、真っ黒なジャケットを着た細身の女が、品のある笑みを浮かべている。
「えっと、どちらさまですか?」
「あなたじゃありません」
彼女は俺を指差すのではなく、隣のテーブルに向かって言った。
「今しゃべってるあなたに用があります。はい、そこの“自称・空気の読める正義感さん”」
茶髪の女が振り返る。「は? なに?」と顔をしかめる。
「先ほどからあなたが話している内容、すべて録音させてもらっています。職場の個人名は伏せてるようですが、具体的な言動で職種や仕事内容が割れてますよ。訴訟リスク、分かってます?」
店内が一瞬、静まり返った。
「な、なにそれ、無断で録音とか、違法でしょ!」
「いいえ。あなたが公共の場で不特定多数に話しかける形で悪口を垂れ流していたので、それを“メモ”しただけです。あなたの声量と“悪意の明確さ”が完璧で、メモするのが楽でしたよ」
隣のスマホいじりの女が、急に焦り出す。「ちょっと、帰ろ?」と立ち上がる。茶髪の女は、しどろもどろになりながらも叫んだ。
「何様なの!? あんたこそ人の話盗み聞きして、最低じゃん!」
するとジャケットの女は、静かに名刺を差し出した。
「私、企業の“倫理リスク管理”のアドバイザーをしています。偶然この店にいてね。あなたの会社、実は当社のクライアントなんですよ」
茶髪の顔から血の気が引いていく。
「言葉には責任が伴います。業務時間外だろうが、あなたは組織の一員で当然看板を背負っています。SNSじゃなく、現実でバズったこと、どうか誇ってください」
それだけ言って、彼女はスタスタと去っていった。店内の空気は一瞬にして浄化されたようだった。隣の二人はうなだれたまま、静かに荷物をまとめて店を出ていった。
数分後、俺はコーヒーのぬるさを味わいながら、ぼんやりと考えていた。
「正しさ」ってのは、刃物みたいなものだな。使う角度と力を間違えれば、簡単に誰かを傷つける。
でも、あの黒いジャケットの女は、見事だった。鋭く、的確で、感情ではなく論理で貫いた。ああいうのが、本物の“正義の味方”なのかもしれない。
俺は静かに席を立ち、コーヒー代を払った。様子を見ていたレジの店員が微笑みながら言った。
「あの人、うちの常連なんですよ。“ジャケットの女神”って、裏で呼んでます」
「神様か。納得です」
俺はそうつぶやいて、午後の光の中へと歩き出した。
寿司が”回っている”ことに、僕はずっと驚いていた。レーンの上を皿たちが行進する様子は、小さな僕にとって新世界そのもので、どの瞬間も見逃せないほど刺激に満ちていた。
回転寿司に行けるのは、年に数度。誕生日、祖父の法事の後、あるいは珍しく父の機嫌が良い日。たいてい母は、出発前に財布の中身を何度も見てから、曖昧な声で「今日は好きなもの、ひとつだけよ」と言った。
ある年の誕生日。僕は、勇気を出して言ってみた。
「いくら、食べてみたい」
父は小さく鼻を鳴らした。母は隣で苦笑いを浮かべて、「高いのよ、それ。今日はやめとこうね」と僕の声を包んだ。でもその笑顔が、どこか”諦め方を教える”ような雰囲気を帯びていて、胸の奥にひっかかった。
「じゃあ・・・納豆巻きでいいや」
流れてきた皿を取って、かぷりと噛む。ネバネバとした食感のなかに、ひんやりした酢飯が広がる。決して嫌いじゃなかったけれど、それが”いくらの軍艦巻き”の代わりになったわけではなかった。
回転寿司はいつも、両親の会話がぎこちなくなる場所だった。父は酒を頼み、母はそれに文句を言わず黙って湯呑みに口をつける。僕が何皿食べたか、当然母は数えているふうだったし、父はそれに気づきながらも目を合わせようとしなかった。
かっぱ巻き、玉子、納豆巻き、安定のラインナップを無言で食べながら、僕は「これは寿司なのか」と、ふと思ったことがある。
ある日、隣の席の子が、堂々といくらを三皿も連続で食べていた。その子の父親は「好きなだけ食え」と笑っていた。
僕がそれを唖然として見ていたら、父がぽつりとつぶやいた。
「どうせすぐ飽きるのさ」
僕は何も言わず、納豆巻きを取った。父のそういう態度には、正直嫌気が差していたけれど、僕はそれに反抗する気もなかった。
高校生になったら、すぐにアルバイトを始めた。給料が入った日、友人と回転寿司に行った。いくらを、初めて自分の金で頼んで食べてみた。
口の中でプチリと弾けたそれは、想像していたよりも生臭くて塩辛かった。期待していたのに、味もそっけもなかった。
帰宅して、母に報告した。
「今日ね、回転寿司のいくら、食べてみたよ」
母は食器を洗いながら、背を向けたまま「そう」と言った。
「そんなに感動しなかった」
そう言うと、母はようやくこちらを向いて微笑んだ。だけどその目には、少しだけ涙が浮かんでいた気がする。それ以上、何も言えなかった。
社会人になり、久しぶりに帰省したある日、両親を寿司に連れて行った。今は僕のほうが財布に余裕がある。好きなものを頼んでいい、と言うと、父は「遠慮しとく」とつぶやいて、いつもの日本酒をチビチビと飲み、母は「ありがとう」と小さく笑った。
僕は、そのとき初めて気づいた。いくらが食べられなかったのは、単に金銭の問題だけではなかったのだ。父のプライド、母の沈黙と躾け、そして僕自身の小さな遠慮。あの回るレーンの上には、そういうものも一緒に回っていたのだ。
ふと気が付けば、レーンに納豆巻きが流れてきた。変わらないその形。くたびれた海苔。少しはみ出した納豆。僕は迷わず手を伸ばした。
「それ、まだ好きなのか?」と、父が言った。
「あぁ、好きっていうか、たぶん寿司屋は納豆巻きが一番だよ」
そう言って口に運ぶと、何十回と食べてきたはずなのに、今日は胸の奥がじんわりとあたたかくなった。この味には、遠慮や我慢や、小さな誇りや、我々家族の風景、思い出の記憶が詰まっている。
父と母が黙ってそれを見ている。やわらかな沈黙だった。
僕は、もう一皿、納豆巻きを取った。
その時、遠くのほうから、小さい頃の自分の声が聞こえた気がした。
「いくら、食べてみたい」
「わかったよ。でもその前に、ひとつだけ納豆巻き、食べようか」