中学三年のころ、僕は卓球部の補欠だった。
試合に出ることはまずなく、練習では玉拾いとラケット磨きが主な役割。部室のベンチの隅に座っては、名前が呼ばれることのない静かな時間をやり過ごしていた。
そんな僕だったけれど、それでも部活を続けられたのは、卓球部に思いを寄せていた女性も所属していたからだ。
佐伯千景。同じクラスのマドンナで、どこにいてもまるでスポットライトを浴びているように輝いていた。男子の大半が密かに憧れ、女子の多くが彼女の背中を追っていた。
僕が彼女と話したのは、卒業までに一度きり。それは部活動中ではなく、昇降口で彼女が落とした筆箱を拾ったとき「ありがとう、細川くん」と言われて「うん」と答えた時だけだった。でも、その一言だけで、何日も浮ついて眠れなかった。
その彼女と、今、同じテーブルにいる。
雑居ビルの中にある居酒屋。20年ぶりの同級会。
みんな変わらないようでいて、どこか少しずつ雰囲気が歪んで見えた。太った者、髪が少し薄くなってきた者、急に饒舌になった者。僕自身も、スーツのネクタイを緩めながら、中学時代の自分とは少し違うようなフリをしていた。
「細川くん、ぜんっぜん変わってないね」
「いや、それ佐伯さんに言われても説得力ないよ。変わらないのは佐伯さんのほうだから」
冗談めかして返すと、彼女はくしゃっと笑った。目尻に寄る無数の小さな皺が彼女の苦労を物語っていて、面影はあれどあの頃の輝きはどこかへ消えてしまっていた。中学の頃は緊張して、全く話せなかった佐伯さんと、今は普通に会話できるようになっている。僕も少しは変わったのかもしれない。
「でもすごいじゃん、製材所の社長さんなんでしょ?あの山の上の?」
「うん、急に親父が倒れてね。勤めていた商社を辞めて、実家に帰ってきて会社を継いだんだよ。でも今は親父も元気になって、怒鳴られてばっかだし」
「へえ、あの細川くんがね。うん……なんか、いいな」
そう言ってビールを口に運ぶ仕草は、妙に艶っぽくてドキッとした。
「佐伯さんは?」と僕が訊くと、彼女は少しだけ肩をすくめた。
「ああ、私? バツイチ。でも子どもはいないのよ。今は近所のスーパーでレジ打ってる」
それだけを、さらりと言った。
「高校卒業したら東京の大学行って、就職して、その会社の上司と結婚したの。最初はね、楽しかったんだよ。でも五年くらいですれ違ってきちゃって。向こうが先に結婚生活に飽きちゃったみたい」
「大変だったんだね・・・」
「まあね。でもさ、なんか自分にも原因あったなって思う。自分は何をしたいのか分かんなくて、ただ“楽しければいいや”ってばっか考えてたから」
僕はグラスの氷を揺らしながら、佐伯さんの話を聞いていた。
「スーパーのパートも、最初はやりたくなかった。でも今は、意外と楽しいのよ。お年寄りとか、子ども連れとか、話しかけられると嬉しくてさ。なんか、人間らしくなったなって思うの」
彼女は笑ったけれど、その笑みには影があった。
「でもさ」と彼女は続ける。「中学生の頃の私って、すごい調子に乗ってたなって思うよ。男子にちやほやされてるの分かってて、ちょっとだけイジワルしてた。そういうの、いま思い出すと恥ずかしいんだよね」
僕は否定しなかった。鼻につくような行動はなかったけれど、絡んでもメリットが無い僕とは、同じ部活だったのに会話さえ無かったわけだし。そして彼女がモテたのは事実だったわけで。でも、今の佐伯さんが話す“過去の彼女”を、今の彼女は静かに受け止めているようだった。
「細川くんさ」
「うん」
「中学のころ、私のこと好きだった?」
ドキリとした。視線を逸らさずに答えるには、ちょっと勇気がいった。
「たぶん、クラスの男子全員がそうだったと思うよ」
「でも、覚えてるの。あなただけ、絶対に目を合わせてくれなかった」
彼女はそう言って笑った。そして、少しだけ寂しそうな目をした。
「私、あの時、ちゃんと向き合って誰とも話してなかった気がする。自分のことしか見てなかった。細川くんみたいな人と、話せばよかったな」
それを聞いて嬉しさもあったが、過去にしなかったことを持ち出して動揺させるのは卑怯じゃないか。
店を出たのは、日付が変わる少し前だった。
「歩こっか」
彼女のその言葉で、駅とは反対の道を選んだ。佐伯さんと並んで歩く夜の道は、僕の生まれ育った街ではないように感じた。
小学校の裏を通り、僕たちが卒業した中学のフェンスが見えてきた。あの頃は巨大に見えた校舎が、今は不思議なほど静かで、小さく見えた。
「ねえ、覚えてる? 体育館の端の、あの出入口の横」
「ああ。僕はいつもそこにいたよ。補欠の定位置」
「そう。私、細川くんのこと、気になって見てたこと、何度もあったんだよ」
「ウソだ」
「ほんと。ラバー、拭いてるとこ」
風が吹いた。秋の匂いが、草の間から立ち上っていた。
「今度さ、製材所、見学行ってもいい?」
「なんで?」
「木の匂い、好きなの。あと、細川くんの話、もっと聞きたいから」
その声は、かつてのマドンナのものではなかった。色んなモノを失ってきたひとりの人間が、立ち止まって受け止めて一歩ずつ踏み出している、そんな声音だった。
別れ際、彼女は僕の名刺を欲しがったので、渡すとそれを笑顔で胸ポケットにしまってから、スマホを取り出して連絡先を交換した。
「私、ちゃんと話せてよかった。いまの細川くん、すごく、かっこいいよ」
そう言って、小さく手を振った。
その姿が夜の街に吸い込まれていく様子を、僕は浮ついた心と少し冷静な目で見送っていた。
持って生まれた状況を、彼女は20代前半まで存分に使い、こういっちゃ悪いが使い尽くしてしまった今は、現実と真剣に向き合っているように思う。
僕は僕で、現実を見据えて『継続は力なり』と浮ついた気持ちを捨てて、これから数十年、親や会社の従業員やその家族の生活を背負って生きていく覚悟だ。
今は社長とは名ばかりで、良く言えばプレイイングマネージャー、悪く言えば雇われ社長。とはいえ、他人の生活を預かること、これは大変な事である。
佐伯さんと僕、きっとお互い酸いも甘いも経験して、たぶんだけどベクトルは同じ方向に向いている。彼女は僕の地味な仕事に、嘘だとしても興味を持っていると言ってくれているし、僕も彼女についてもっと知りたいと感じている。
こんなにも強い好意を向けられて、僕はそれを振り払う力は持っていない。僕はきっと、佐伯さんに連絡するし、佐伯さんも応えてくれるだろう。
大人の恋の火が、ここに燻ぶり始めているのを僕は感じていた。
俺の名前は矢口遼。テクノアーク開発部三課、入社三年目。
手前味噌だがプレゼンは得意で、社内では“頭の回転が早い”といわれているらしい。上司の島田課長には、それなりに目をかけてもらっている・・・と思っている。
ある朝、会議で新製品の報告を受けたとき、奇妙な既視感に襲われた。
「熱設計に関しては、外装を少し拡張して、エアフローで対応できます。リスクは限りなくゼロに近いです」
誰かがそう言った瞬間、頭の奥がズキンと痛んだ。言葉にできない“記憶”が脳裏に浮かぶ。
黒焦げのリビング。青白い炎。リコール、会見、沈黙の同僚たち。どれも俺の経験ではないが、鮮明に脳裏に映像が見えてくる。
数日後、深夜残業でオフィスに残った俺は、ふと課長のデスクに目をやった。机の上には、一冊の古びたノートが開かれていた。
「正しいものを、美しく設計する」
表紙に書かれたその言葉を見た瞬間、胃の奥がぎゅっとねじれた。思わずノートを手に取ると、そこにあった製品図面が目に入る。
それは、5年前に我が社でヒット商品となり、世の中に旋風を巻き起こしたロボットの設計書だった。なぜ課長のデスクにこんな古い図面が? 思わずコピーを取って、自分のデスクの引き出しにしまった。
それから妙な夢を見るようになった。
会議室で誰かに叱責されている夢。屋上で風に書類を手放す夢。机に突っ伏して、何かを泣きながら消している夢。それらはすべて“俺”が見ている視点だった。いや、厳密には“誰かが歩んだ軌跡”のようなものに見えた。
そして次第に、鮮明になっていく。なんだかよくわからないが、プロジェクトの内情をみているようだった。
前世とか、過去の記憶とか、そんなものは信じたことがなかったけれど、ただ一つだけはっきりしていることがある。このプロジェクトの当事者は、正しさを捨ててしまっていた。
ある日、島田課長に声を掛けられた。
「矢口、お前に新製品の開発補佐を任せたい」
それは5年前にヒットした製品の“後継モデル”だった。名を変え、外装を変え、再設計されたのプロダクト。
「ありがとうございます」と返しながらも、ざわざわと胸騒ぎを感じて妙な違和感があった。
正しい道を行け。手を抜くな。
俺は慎重に5年前の設計資料を読み込んで、今回再設計された図面の解析を繰り返した。なんだこれ・・・5年前とほとんど変わってないじゃないか。
検証を進めると、不良とは呼べないまでも微細な放熱不良の兆候を見つけた。理論上は問題ないが、現場では誤差が致命傷になる可能性がある。設計を正しく書き直さないと。
翌朝の会議で、俺は設計の不備を報告した。
「申し訳ありませんが、このままではリスクがあります。設計の見直しをお願いします」
部長の顔が一瞬曇った。周囲が静まり返る中、島田課長の視線が俺に向けられているのを感じた。
「矢口・・・リスクがゼロのプロダクトなんて、この世の中にはないんだぞ」
しかしながらその声に、彼の“迷い”が滲んでいた。
俺は島田課長の目を見て、はっきりと言った。
「でも、限りなくゼロに近づけることはできる。正しいことをしましょう!」
一瞬、課長の表情が険しくなったのがわかった。唇を少し開いて何か言いかけたようだったが、やがて目を伏せた。
「分かった。設計の見直しと再検証をしよう」
その夜、島田課長はデスクで深くため息をつき、考え事をしているようだった。俺は自販機で缶コーヒーを買って、そっと差し出す。
「課長。あのノート、見ました」
「そうか・・・あれを見ていたか」
長い沈黙のあと、彼はポツリと言った。
「あれからずっと目を背けていたんだ。“正しいものを、美しく設計する”。現実ばかりに気を取られて、理想に蓋をして隠し続けたんだよ」
「信じていいと思いますよ。我々の理想は私腹を肥やすものではないですから」
彼は、ふっと笑った。それは課長が初めてみせた、やわらかい笑みだった。
それから数か月後、製品は問題なく市場に投入された。過剰な期待も、過度な演出もなかったが、使った人々からは「地味だけど安心感がある」と好意的な声が集まった。
上司の意向を汲み取らなかった島田課長は、地方工場の品質統括へ異動となった。出世コースではない。でも、彼は嬉しそうだった。
異動前の島田課長の最後の出勤日。課長は封筒に入れられた便箋を俺に託した。
”正しいものを、美しく設計する”
島田はもう戻ることは無いと思われるオフィスの窓から外を見た。都市の灯りがとても暖かく見えて、周囲を包み込むようにキラキラと輝いて見えた。
あの風に舞ったプライドは、もしかしたら、めぐりめぐって矢口くんの元に還ってきてくれたのかもしれない。
輪廻とは、決して罰ではない。誤りを正すチャンスがあった時、それを受け入れる勇気を決して忘れてはならないのだ。
朝の会議室は重苦しさに包まれていた。大手家電メーカー「テクノアーク」の開発部三課、島田崇は資料の束を握りしめたまま、上司の顔色をうかがっていた。
「つまり、島田くん。このままでは期日までに量産化は無理だ、という理解でいいのかね?」
部長の吉田が、曇ったメガネの奥から冷ややかな視線を投げる。島田は喉がつまったような声で答える。
「はい。現行の設計では、熱暴走のリスクが高く・・・」
「リスクねえ。で、競合のシンセクトは来月にも発売だ。うちはどうする? また“慎重な姿勢を貫く”って言って、マーケットの波を見送るのか?」
会議室にいた者たちは皆、沈黙した。分かっている。失敗は許されないが、遅延もまた罪だった。島田の中で脳が軋むような感覚になった。
四年前、島田が開発した空気清浄機がリコール対象となり、一時は「島田案件には近寄るな」という陰口まで囁かれた。だが、今回は違う。冷却設計には明らかな問題がある。それを押し通せば、また同じ過ちを繰り返すことになる。
だが、部長は言った。
「じゃあ、島田くん。問題ないってことで、設計承認あげといてくれるかな?」
耳を疑った。
「え?」
「リスクがゼロじゃないのはいつもと同じだ。今更、工程をやり直す時間なんてない。あとは営業と広報がうまくやる。いいね?」
その場にいた誰もが沈黙で了承した。島田は苦虫を噛み潰したような表情で、その指示を受け入れるしかなかった
帰りの電車の中で、島田はスマホを握りしめた。スクリーンには、社内告発の匿名通報フォーム。タップ一つで、社の上層部に設計の問題を報告できる。だが、その先にあるのは栄光ではなく、孤立と無視だ。
妻には「もう少ししたら係長だよ」と話したばかりだった。娘は春から中学生になる。家のローンはあと二十五年。匿名なんて意味がない。足がつけば島田のキャリアは終わる。
それでも彼の指は、タップに向かっていた。だが、電車がトンネルに差し掛かり、圏外になった。
ふっと我に返る。
「なにやってんだ、俺は」
翌朝、出社すると、例のプロジェクトの設計部レビュー会が突然延期になったという連絡が入っていた。島田は動揺しつつも、自分ではないと心の中でつぶやいた。
昼、島田は給湯室で、同期の福永に会った。福永はどこか投げやりな笑みを浮かべて言った。
「なあ、島田。俺ら、お客さんが喜ぶような商品開発がしたくてここに入ったんだよな?」
「なんだよ、急に」
「だいたい正しいことなんて、誰も望んでないんだよな。“会社の利益を生む嘘”のほうが、よっぽど需要あるって、最近つくづく思うわ」
福永はコーヒーをカップに注ぐと、そのまま無言で立ち去った。島田は黙ってその背中を見送った。長いものに巻かれている自分が、本当に情けなかった。
一週間後。島田は会議に再び呼び出された。例の介護専用ロボットの量産が正式に決定されたという。設計もそのまま。営業は「熱問題は、改良済み」とすでに謳っている。
「すごいな、島田さん。次期プロジェクトのリーダー任されるんですって?」
部下の一人が、半ば皮肉のように声をかけた。島田は苦笑いを返す。
その夜、帰宅しても眠れなかった。
机の引き出しに、昔の大学時代のノートがあった。表紙には、消えかけたマジックで「正しいものを、美しく設計する」と書かれていた。
彼はしばらくその文字を見つめ、ゆっくりと閉じた。
春。介護専用ロボット”守くん”は、予想を上回るヒットとなった。株価も上がり、島田の社内評価も爆上がりした。新しいスーツを着て、彼は晴れやかな顔で記者会見に出席した。
その裏で、数件の小さな発火事故がSNSで話題になっていたが、PRチームが巧妙に火を消した。証拠は、ノイズに埋もれて消えていった。
ある夜、島田は一人、会社の屋上に立っていた。風がネクタイを揺らす。見下ろすビルの灯りは、まるで巨大な回路図のように整然と並んでいた。
ふとポケットに手を入れると、あの大学時代のノートの表紙の一文を書き写した切れ端が出てきた。
「正しいものを、美しく・・・」彼はそれを見つめながら笑った。
そして、その紙切れをそっと風の中で手放した。風に舞ったそれは、都市の夜に吸い込まれて、もう二度と戻ってはこなかった。
こんな気持ちになるとは思わなかった。彼が私に直接結婚報告をしてくれた時「おめでとう!お幸せに」と笑って受け流したあと、トイレの個室に駆け込んで締め付けられる胸を押さえて涙をこらえた。
何もなかったように事務所に戻ると、「佐伯さん、ついにプロポーズしたらしいよ」とひそひそと話しているのが聞こえてくる。そのたびに、私の心は死んでいった。
彼とは、三年間、同じチームだった。
机は向かい合わせで、書類を押し付け合いながら仕事をこなして、残業の帰りに牛丼屋で愚痴をこぼし、夏はアイスを奢り合って、冬は温かいコーヒーで乾杯した。恋心に気づいたのは、たぶん彼の風邪を心配して薬を買いに走った日だと思う。
あのとき、ただの同僚としてならば、あんなに心が揺れることはなかった。
私は、一度も気持ちを伝えなかった。彼はどこにも行かないと、勝手に思っていた。いつまでも私の向かいの椅子に座っていると、根拠のない憶測をしていた。
彼の好きな人の話を初めて聞いたのは、去年の秋だった。
「紹介されてさ。なんか、いい子なんだよな」
曖昧に笑うその横顔が、やけに遠く見えて、私はとっさに「ふーん、頑張ってくださいよ」なんて言ってしまった。冗談めかして、でも心の中では激しく動揺しながら。
それからも彼は優しくて、私が熱を出したときにはコンビニでポカリを買って家まで来てくれたし、プロジェクトが終わったときにはささやかだけど居酒屋で乾杯した。
その度に私は、彼の隣にいるであろう彼女の存在を思い出すと同時に、自分は彼の同僚だということに気づかされるのだった。
私は選ばれなかった。けれど、選ばれなかったことに彼を責める気持ちは、不思議と起きなかった。
それだけ、彼がまっすぐだったからだと思う。彼は誰にも嘘をつかず、私にも優しかったけれど、同じくらい、彼女を大事にしていた。
それが、痛かった。
あの夜のことは、今でも覚えている。
打ち上げの帰り道、終電を逃してタクシーを待つ間、私たちは並んで立っていた。彼の隣でどちらの言葉を選ぶべきか、考えていると街の音が遠のくような気がした。寒くて、心が壊れそうだった。
「私、チームを異動する話、受けようと思ってるの」私は言った瞬間から、体の震えが抑えられなくなった。
彼はうつむきかげんで「そうか」と言った。いつか来る瞬間を覚悟したように。
「佐藤さんが頑張れる場所を見つけたのなら、本当によかった」
受けようだなんて、本当は嘘だった。ずっと一緒に仕事をしようと言って欲しかった。でもそんなことは絶対にありえないこともわかっていた。
「ありがとう」
その一言が、私の恋の終わりだった。もう彼の隣に座ることはない。
彼の結婚式の日、休みなのに私は新しい部署の書類に埋もれていた。式の様子を知りたいと思わなかったし、SNSも開かなかった。窓の外には、桜の花びらが舞い散っていた。
春は、少しだけ苦手な季節になった。
白い花が咲いている。誰の目にもきれいな桜の花が、私にはやけに無言で、静かで、やさしいくせに冷たくて。まるで、あの人みたいなんだ。
”伝えたかった”と今でも思う。
何度も思う。
でも、伝えなくてよかったとも思う。
人生には、叶わないラブストーリなどいくつもあるもの。その時はただ笑って見送ることが、私の役割だったのだ。
それでもたまに、夢を見る。
彼と他愛のない話をして、コーヒーを飲んで、隣の席で頷き合っている夢。
目が覚めると、涙が枕に染みている。でも、誰にも言わない。言えるわけがない。この気持ちは、もう私の中に静かに沈めていくものだから。
これからも、彼の話を誰かがするたびに感情を押し殺して、耳を塞ぎ続けるだろう。
それでも私は、生きていく。思い出と共に。
地球から三億キロ、小惑星《ケリドウェン》の周回軌道に浮かぶ観測船《イソラ》。船内には、ただ一人の宇宙飛行士・佐々木葵がいた。
葵の任務は、ケリドウェン内部に存在するという「異常重力源」の調査だった。そして、そこには未知のエネルギー反応があり、重力波の周期的な揺らぎから人工的な構造体が存在するのではないかと期待されていた。
「宇宙に生命体の痕跡があるかもしれない」そう言って彼女は地球を発った。
出発して3年でケリドウェンの周回軌道に入り、そして観測を開始して1年以上の日が経過した今も、観測結果はすべて「異常なし」の一点張り。数値は微細に揺れているが、それがノイズなのか、あるいは本当に何かがいる証なのか、判断できない。
午前六時、地球時間の起床。ただし、時間の感覚はほとんどない。人工音声が無機質に告げる。「おはようございます。今日も異常はありません」
彼女は応える。「了解、異常なし」
異常がないことが異常に思えるほど、なんの変化もない。
報告を聞き終えて船窓に近づく。そこに浮かぶのは、深い青をたたえた小惑星ケリドウェン。まるで眠っている巨人の瞳のように、静かに光っている。
地球との交信は途絶えていた。それは重力波による通信障害である可能性が高く、周回軌道で調査している間は復旧は見込めない。葵は報告書を、障害の復旧後にまとめて送信することにしていた。
そのときだった。
「こちら、観測船アストレア。予定より早く軌道に到着しました。補給物資と観測機器を搬入します」
無線通信に突如、そんな言葉が飛び込んできた。通信の発信源は近距離、だがレーダーには何も映っていない。
「誰?」
葵は即座に応じた。「アストレアが到着するのは、まだ先のはず。予定より早いのはなぜ? レーダーにも感知されていない。識別信号を送って」
だが返ってきたのは、まるで会話を無視したような返答だった。
「佐々木さん、地球へ帰還する日程は決まりましたか?娘さんが今日もメッセージを残しています。『ママ、かえってきてね』って」
その声に、葵の体が硬直する。懐かしすぎる、痛いほどに。
「やめて・・・娘の存在を私に意識させないで!」
「なぜですか?これは、あなたが最も求めているものです。あなた自身の記憶によって生成された《対話支援モジュール》なのです」
彼女は思い出した。このミッションは、深宇宙での長期単独滞在になるため、心理的安定のために擬似人格AIが搭載されていた。記憶と情動から構築された支援人格。だが、その起動条件は『精神異常の兆候』だったはず。
「私は・・・異常なんかじゃない」
そう言いかけて、手が震えていることに気づく。視界の端で、ケリドウェンがまた微かに揺らいだ気がした。その揺れに、ノイズのような音が重なる。
『ママ、さわっちゃダメだよ。そのほし、さわると、にんげんじゃなくなるよ』
「!!!!!」
船内に響いたその声に、葵は背筋を凍らせた。それは過去に聞いたことのない、記憶には存在しない“娘の声”だった。
「どういうこと? 今のは・・・あの子じゃない。誰?」
無線が途切れ、機器が一斉に再起動を始めた。船の灯が一瞬消えて、再び点灯する。
通信ログを見ると、直前の音声データには『再生履歴なし』とだけ表示されていた。
「幻覚? でも、あの言葉はいったい・・・」
彼女はもう一度、窓の向こうの惑星を見た。青い光が、今までよりずっとはっきりと瞬いている。中心部に何かがある。何かが、こちらを見ている。
思い出す。地球を発つ前、極秘扱いのミッション補足情報に、こう記されていた。
「ケリドウェン内部に存在する重力場は、一定以上の精神負荷に反応し、その人の“記憶”を物質化・干渉する可能性あり」
“干渉”。つまり・・・・・。
『ママ、ちかづいちゃ、ダメ』
今度は、娘の姿が船窓の外に浮かんだ。船外服も、装備もつけず、ただ宙に浮かんでこちらに向かって叫んでいる。
「あの子は地球にいるはず。こんなことが、あるわけない!」
そう、わかっていた。でも、同時に受け入れてしまっている自分がいた。
これは、惑星ケリドウェンの”観測”ではない。惑星ケリドウェンに”観測されている”のだと。観測者であるはずの自分が、観測され、試され、記憶を読み取られ、操作されている。
葵は身を引き、操縦盤を見つめた。地球帰還の座標入力ボタンを、入力しようとする指が震える。
「私が帰る場所は、まだ残ってるのかな」
そのとき、無線がもう一度、静かに告げた。
「地球は、すでに応答する機能を有していません。あなたは今、地球という惑星で唯一“生存する観測対象”です」
心が一瞬、空白になった。同時に今日の記憶が薄れてゆく。ぼやけた感覚の中で葵は、ゆっくりと船窓に顔を近づけた。娘の姿が、鏡のように自分と重なって、泣くように笑っていた。そして意識を失うように横になる。
そして地球時間六時には、”異常が無い”と私を起こす声がするのだ。