午後の図書館は人の気配が乏しく、紙の匂いと埃が空中を静止し漂うような静けさに満ちていた。私は司書のアルバイトとして、書架の整理を任されていた。埃を払いながら背表紙を確認していくうちに、棚の最上段に隠されるように置かれた、異質な本を見つけた。
表紙には何も記されていない。真っ黒な革の装丁で、図書館の蔵書番号すら貼られていない。だが背の部分には、かすれた金色の文字で「封印目録」とだけ刻まれていた。同じような黒革の本は、第一巻から第二十巻まで、抜けることなく並んでいる。
私は思わず館長の佐藤に声をかけた。
「この本、登録されていないようですが・・・」
佐藤は一瞬だけ顔をこわばらせた。
「それは、開いてはいけない書です。封印書架に戻して忘れなさい」
その時は言われるがまま、それを元の場所に戻した。
しかし、人間は禁じられるほどに知りたくなる。夜の閉館後、私はこっそりとその本を開いた。ページの大半は白紙だが、ところどころに暗号のような記号と数字が並んでいる。最初の頁にはこう記されていた。
『第一の鍵は、静寂の中に鳴る鐘』
謎解きのようだ。私は館内を歩き回った。図書館の片隅には、古びた掛け時計がある。時刻を告げる鐘の音が、正時になると館内に響く。午前零時の鐘が鳴る瞬間、本をその前に置いてみた。すると白紙のページに文字が浮かび上がる。
『第二の鍵は、影の中の影』
私は背筋が冷たくなった。影の中の影とは何だろう。深夜の読書室に差し込む月明かりの下で、椅子の影を凝視する。ふと、影の端が二重になっていることに気づいた。床板に小さな切れ目があり、影の奥にもう一つの影が隠れていたのだ。そこを押すと、床が音を立てて開き、薄い木箱が現れた。
中には黄ばんだ紙が一枚だけ入っていた。震える手で取り出すと、そこには走り書きのようにこう記されていた。
『第三の鍵は、あなた自身』
本の頁をペラペラとめくりながら進めると、中ほどの余白に文字が浮かび始めた。
『この書を手にした者よ。あなたはすでに解き始めている。次の頁をめくると、あなたの行動が記録される』
恐る恐る次の頁をめくると、そこには今しがたの私の行動が逐一書き込まれていた。「掛け時計の前に本を置く」「床下の木箱を開ける」。
私は背筋を氷でなぞられたような感覚に襲われた。
そして最後の頁に、文章が浮かび上がる。
『あなたは最後に、この本を閉じる。閉じた瞬間、あなたの記憶は図書館に封じられる』
慌てて本を投げ出そうとしたが、手から離れない。黒革の本が熱を帯びているのを感じる。そして意思とは全く真逆の行動をする、私の手によってそれは閉じられた。
気がつくと、私は図書館のカウンターに立っていた。制服を着ている。目の前にいる人が何かを言っている。私に向けられたその言葉を理解できない。自分の名前も思い出せない。館長の佐藤が近づき「誰か、救急車を呼んでください」と静かに言った。
「また一人、封印目録になったか・・・」そう呟くと、誰にも見えないように顔を伏せてほくそ笑んだ。
触れてはいけない封印書架には、黒革の本が静かに並んでいる。背表紙には金色の文字が光っている。
『封印目録 第二十一巻』
白紙だった頁には、私の半生が綴られている。
封印目録の呪縛は、はたして解けるのだろうか。ただ、欠番が一冊もないとすれば、結果は火を見るよりも明らかだ。
朝起きると、枕元に生卵が八個並んでいた。昨夜は確かに一個しかなかったはずだし、そもそも冷蔵庫に戻した記憶すらない。だが八個は八個で、割ってみるとすべて黄身が二つずつ入っている。得をしたような、気味が悪いような気分で朝食を終えると、窓の外で電柱たちが大声で会議をしていた。
「このままじゃ電線が持たない!」
「いや、そもそも俺たちは歩くべきなんだ!」
「歩いたら電気はどこを通るんだ!」
聞き耳を立てていると、一番背の高い電柱がこちらを見て、「君、ノートを持ってきてくれ」と言う。仕方なく数学のノートを差し出すと、電柱は鉛筆を器用にくわえて何やら議事録を書きつけた。覗き込むと、ページいっぱいに『ハトが多い』の文字が並んでいるだけだった。
外に出ると、近所のスーパーが巨大な船に改装されていた。レジ袋はすべて救命胴衣に変わっていて、入店するには乗船券が必要だという。券売機でボタンを押すと、なぜか卒業アルバムが出てきた。レジの女性はにっこり笑い、「ではこれで出航いたします」と言って、僕を冷凍食品売り場に誘導した。そこは波打つ海で、イカリングが魚群で泳いでいた。
波間に漂っていると、突然ランドセル姿の自分が現れた。小学生の僕は、「お前は未来で失敗するからな」と言って、教科書を投げつけてきた。慌てて拾うと、中身はすべて英語で書かれており、しかも文章は逆さまで、ページをめくるたびに文字が泳ぐように消えていく。
気づくと、僕は学校の体育館に立っていた。壇上では校長先生が巨大なカエルを抱きかかえており、「今日から君たちはカエルの弟子になる」と宣言する。拍手が起こるが、手を叩くたびに手の平に羽根が生えて、それが抜けて天井に舞い上がっていく。僕の手からも羽根が生えて止まらない。困っていると、隣に座っていた電柱が「羽根は議題にない」とつぶやいた。
次の瞬間、体育館の床が抜け、全校生徒ごと地下鉄のホームに落ちた。電車がやってきたが、車体は全部黒板でできていて、チョークの匂いがする。車掌が「次は九九の駅、九九の駅です」とアナウンスしたので、慌てて乗り込む。座席にはランドセルの中身がばらまかれており、消しゴムが小声で九九を唱和していた。
九九を全部聞き終わった頃、車窓から見えたのは空に逆さまにそびえる町だった。家々は屋根で地面を踏みしめ、道は雲のように空を流れている。駅で降りると、そこは僕の家の台所で、母が何事もなかったかのように夕飯を作っていた。
「今日は八個卵があったからオムレツよ」
皿に盛られたオムレツを見つめると、フォークを持つ手から羽根がまた生えてきた。母は気にもせず「あんた、宿題やったの?」と訊く。答えようとしたが、口から出たのは「ハトが多い」だった。
母はにっこり笑い「そうね、ほんとに多いわね」と窓の外を見た。電線の上に、数え切れないほどのハトが止まっている。電柱たちはうんざりした顔で議事録を取り続けている。
気がつけば僕は机の上で寝ていた。開いていたノートには「ハトが多い」がびっしり書き込まれている。夢だったのかと思いながら立ち上がると、窓の外で電柱がこちらに向かって叫んだ。
「次回の会議は君の部屋でやるからな!」
その瞬間、僕の背中から二本の電線が伸びて、壁のコンセントにずぶりと差し込まれた。目の前が真っ白になり、気がつくと僕は電柱になっていた。
夜の町を照らす街灯が点る。僕の肩にハトが止まり、ぼそぼそとカエル師匠に対する愚痴を言い始めた。
そして、はっ!と忘れていたことを思い出す。
僕はまだオムレツを一口も食べていない。
誰かが僕の名を呼ぶ。その声は、壁の向こうから聞こえてきた。
目を開けると、真っ白な部屋の中にいた。天井も壁も床も、ただの白。窓はない。ドアもない。どうやって入ったのかもわからない。ただ、ここは『部屋』と呼べるだけの空間だった。
時計がないので時間の感覚はわからない。けれど、腹は減らず、眠気も訪れず、排泄の必要もない。生きているのかどうか、それも定かではないが、少なくとも意識だけはある。
僕は、ここにいる。
学生時代、顔の無い誰かに何度もこんなことを言われた。
「お前って、存在感がないよな」
それは侮蔑でもなければ、励ましでもなかった。コンビニでガムを買うような、そんな手続き的な無関心。
僕は、そういう他人の無関心の悪意を心の中に蓄積するタイプの人間だった。小石が集まって河原を埋めるように、どうでもいい一言が僕の中に積もって、気づけば身動きが取れなくなっていた。それは、働くようになってもそれは変わらなかった。
黙って言われた仕事をこなし、昼はひとりでラーメン屋に行き、定時にタイムカードを押したら最寄りの駅まで無言で歩く。たまに会社の飲み会にも誘われたけれど、「あ、佐伯さん、いたんだ」なんて言われるたびに、愛想笑いが無表情に変わっていった。
生きているというより『生かされていた』。そして、なぜだかわからないけれど、僕の心の中にあるもうひとつの僕が、ずっと耳打ちしていた。
『こんな人生、楽しいか?』
『今、消えても誰も気づかないよな?』
その声を否定する術はなかった。
ある晩、帰りの電車で目を閉じたまま降りる駅を乗り過ごし、気づけば終点だった。線路沿いを家に向かって歩いた。冷たい風が首筋をなで、誰もいない街の灯りがぼんやりと遠かった。
歩き疲れて、踏切の真ん中でしゃがみこんで目を閉じた時、僕は思った。
『このまま、ここに座ってたらどうなるんだろう』
僕が乗ってきたのは終電で、当然電車は始発まで来ない。ただ、夜が過ぎていっただけだった。
その瞬間、僕はこの『白い部屋』にいた。
食べ物もない。スマホも、テレビもない。なにもない。けれど、心は静かだった。時間に追われることもない。誰かに無視されることもない。誰かの声で傷つくこともない。
ただ、壁の向こうから声が聞こえる。それは母の声だったり、小学校のときの担任だったり、大学時代のサークルの先輩だったりする。
「元気にしてるか?」
「おーい」
「そろそろ戻ってこいよ」
でも、誰も、僕の名前は呼ばない。僕はここにいるのに。ここに、ちゃんと、いるのに。
僕は思いきって叫んでみる。「ここにいるよ!」と。
でも、返事はなかった。そして、その後は声すら聞こえなくなった。
何日、いや何年が経ったのか。思考すらも擦り切れ、やがて僕は白い部屋の一部になっていった。
この部屋の床が僕の背中になり、壁が僕の腕になり、天井が僕の記憶になった。
僕が僕であることも曖昧になってきた時、白い部屋の隅の方でかすかに人影が見えた。
それは、会社の後輩だった。「あれ、佐伯さん、ここにいたんすか?」彼は誰かと話していた。「でも、面倒くさかったしなぁ・・・あの人」
その声が部屋に満ちたとき、僕は悟った。ここは、誰からも必要とされなくなった者が送られる場所だったのだと。愛されも、嫌われもせず、ただ『透明』だった者の行きつく場所。
その事実だけを突きつけられて、絶望の中に安らぎを見つけられる場所。
この部屋は、きっといくつもある。あなただって、次は、ここに来るかもしれない。
わかっている。目を開けたら、踏切の真ん中で佇む僕がいるんだ。でも迷い込んだ場所は、透き通るような白の世界。
わかっている。拒絶していたのは自分自身で、誰のせいでもない。すかしたような態度のかまってチャン。気にしてくれる人がたくさんいたのに。
土曜の朝。
人目を避けるように、まだ明けきらない都内をすり抜ける。目的地は箱根。でも観光地は避けた。山道の先、温泉宿が一軒。古くて小さくて、ネットにもほとんど情報のない場所。
「ナビ入れてないの?」
彼が訊く。
「入れないよ。そういうの頼ると全部“予定通り”になっちゃうから」
「でも、迷ったら……」
「別に、迷っても死なない。あたしの運転だし」
彼は笑って、窓の外を見た。
その横顔が子どもみたいに見えた。いつも人前で見せるあの“王子”みたいな微笑みじゃなくて、ただの少年のような素顔だった。
助手席で彼がつぶやく。
「こうやって誰かが運転する車で隣に乗るの、久しぶりかも」
「え、仕事の移動は?」
「運転手さんは“仕事の人”でしょ。そういうのとは違う。君の運転って、安心するんだよ。リズムがある」
「ラジオのDJみたいなこと言ってるね」
「ああ、そんなこともやってるっけ」
わかってる。彼がどんな人かなんて、とうの昔に。でも私はその“有名な肩書き”よりも、助手席で鼻歌を歌うこの男のほうがずっとリアルで、愛おしい。
山道の途中、ふと車を停めた。展望台でも何でもない、ただの路肩。だけど、木々の隙間から朝の光が注いでいて、下界の街並みが遠くに霞んで見えた。
「ここ、いいでしょ」
彼が降りて、深呼吸した。
「そうだね。空気が、東京と違うね」
「当たり前。山だもん」
「山って……音がしないんだね」
「音、あるよ。ほら、鳥の声。風の音。……静かすぎて、自分のこと考えちゃうから、都会の人は苦手なのよ」
彼は、黙ってその景色を見ていた。
「ねえ」
「ん?」
「俺、ずっと“誰かに見られる”ことで生きてきたのよ。最初は嬉しかったし、それが夢だと思ってた。でも・・・最近、君といるときに本当の自分を感じることができるんだよね。メディアは嘘のキャラクターで塗り固めているから。」
「それ、バレたら炎上するよ」
「でも、ホントのことだから」
私はため息をひとつついて、彼の横に立った。
そして言った。
「だったら、もっとちゃんと隠しなよ。帽子も、フードも、マスクも。こんなとこでぼーっと突っ立ってたら、特定されてフライデーされるよ」
彼が、笑う。
「わかった。リーダーに従います」
温泉宿には、電話で仮名予約してあった。女将さんは、私たちの素性に気づいているかいないか、それすらも気にしていないようだった。
部屋は12畳くらいの部屋で布団が二枚。
浴衣に着替えて、縁側に並んで腰をかける。
「今日、ほんとに来てよかった」
彼が、ビールの栓を抜きながら言う。
「でしょ? こういう隠れ家的な宿を探すとき、あたしの直感はけっこう当たるんだよ」
「うん。でも・・・ひとつだけ、気になってることがある」
「なに?」
「こうやって、たまに君に会えても、やっぱり、君の全部は見えてない気がする」
私は、少し黙った。でも、目をそらさなかった。
「まあ、見せてないだけ。別に、あんたに隠してるわけじゃない。本心を見られるのが好きじゃないの。そういうの、わかるでしょ?」
彼が笑った。やさしく、静かに。
「うん、わかる。俺も同じだった。見せる顔ばっかり増えていって、そして見せたい顔を隠すようになっていった」
私は、缶ビールをひとくち飲んだ。少しぬるくなってたけど、苦みが心地よかった。
「ねえ、あたしね」
「うん」
「この先、どんなふうになるかとか、期待してない。結婚とか、発表とか、そういうのも別にいらない。でもね、一緒に峠を越えるくらいのことは、してみたいと思ってる」
「峠?」
「そう。人生の峠。きつくなったら、アクセル踏むよ。急すぎたら、ブレーキも使う。でも、その隣にいるのは、ずっとあんたがいい」
彼は何も言わず、私の手に自分の手を重ねた。
その手は、ギターを弾くときみたいにしなやかで、だけどどこか寂しさを帯びていた。
夜、宿の中庭を歩く。提灯の淡い光の下、私はふと聞いた。
「ねえ、何か聞かせてよ」
彼は少し照れた顔で、足を止めた。
「声、出して歌っていいの?」
「歌っていいよ。私しか聞いてないもの」
「じゃあ、少し歌おうかな。君だけは聞いててくれよ」
そして彼は、月に向かって小さく口ずさんだ。
孤独と寄り添い生きること、どんなことも越えてゆける。
私は目を閉じて、その声の波にただ身を任せた。
こんなささやかな時間の積み重ねが、私たちの関係を作り上げてゆくんだ。
私は、それで充分だと思った。
私は、自分で運転してここまで来た。
そして、いま、隣には彼がいる。
それ以上、何を望むだろう?
峠は、越えていくものだよね。ふたりでいられれば充分だ。
窓の外に見える高架を走る電車が、夜の街を震わせる。彼女はそれを横目に、グラスの氷を指で軽く突いた。赤坂のバー、午後11時。
由紀は待っていた。正確には、待たされていた。
彼の名前は佐伯。広告代理店に勤める三十代半ばのその男は、肩書きと服装、それに口元に浮かぶ薄笑いだけが彼女を繋ぎとめる固い鎖だった。彼はいつも遅れて現れる。そして「ごめん、急な打ち合わせでさ」と煙に巻き、何事もなかったかのようにワインを注文する。
ずるい。
そう思いながらも、由紀はその言い訳を待っていた。彼のずるさは、計算高さや不誠実さと同時に、都会の夜のきらめきのような魔力を放つ。洗練されたビジネスマンに憧れているだけなのかもしれない。いや、毎回遅刻してくるなんてビジネスマンとは言えないか。
「由紀ってさ、俺が忙しいの分かってるから、怒らないんだろ?」
佐伯は笑う。
由紀は愛想笑いだけで返事は返さない。返せない。ただ、都会に生きる自分に酔い、グラスを傾ける。
翌朝。通勤電車で吊革につかまりながら、彼女はふと昨夜の自分を思い返す。あの場で怒って帰ればよかった。あるいは「もう会わない」と言って、平手を食らわせればよかった。でも、それができない。
佐伯のような男は、彼女の弱さを知り尽くしている。そして佐伯と由紀の欲望は、絶妙なところでマッチしている。
昼休み。オフィス街の裏道にある小さな定食屋で、同僚の浩平が声をかけてくる。
「由紀さん、最近顔色悪いよ。ちゃんと食べてる?」
素朴な笑顔。浩平は実家が農家で、休日は市場の手伝いをしているという。携帯電話よりも泥の匂いが似合うような男だった。彼はいつも彼女の話を真剣に聞き、何気ない気遣いを見せる。
『こういう人を、好きになれたら』
由紀は自問する。浩平はきっと、彼女を待たせたりしないだろう。遅れるときは必ず連絡し、言い訳ではなく謝罪をするだろう。嘘をつかず、裏切らない。それでも、なぜか心は動かない。
夜。佐伯と並んで歩く表参道のイルミネーション。ガラスに映る二人の姿は、一見すると絵になっていた。
「来週は無理かも。接待でさ」
「そう」
淡々と返す自分の声が、他人のもののように聞こえる。どうして、私はこの人と別れることができないのだろう。
信号待ちで立ち止まったとき、佐伯はポケットからタバコを取り出した。風に火が揺れる。由紀はその仕草を、カッコいいと思ってしまった。ずるい男は、どうしてこうも都会の夜と調和してしまうのだろう。そして、闇を纏ったカジュアルホテルになだれ込み、狂ったように求め合う。
数日後、浩平が彼女を誘った。
「新しい野菜直売所ができたんだ。すごく美味しいトマトがあってさ。一緒に行かない?」
休日の昼間のデート。彼の瞳は期待に輝いていた。
由紀は断れなかった。罪悪感を覚えながらも、どこか自分を試すような気持ちで頷いた。
商店街。陽射しに照らされる色鮮やかな野菜たち。浩平は丁寧にトマトを選び、売り子のおばあさんと冗談を交わす。その自然な姿に、由紀はふと胸が温かくなるのを感じた。
だけど、どこか違う。私が求めているのは、安寧や安心じゃない。それが破滅への一本道だったとしても、今は無理をしてでも『都会』という名の幻想に包まれていたい。
帰り道。浩平がトマトを一つ手渡してくれた。
「ほら、齧ってみて」
由紀はかぶりついた。甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。けれど、その味がどれほど新鮮でも、心の奥の虚ろを満たすことはできなかった。
夜。部屋の窓から眺めるネオン。浩平の笑顔と、佐伯の横顔が、交互に頭をよぎる。素朴で真っ直ぐな人を、どうして私は好きになれないのだろう。
都会は人を試す。速さと競争、曖昧な約束、誘惑。そこに身を委ねることでしか、由紀は自分が生きているという実感を得られないのだ。浩平のような人と並んで歩けば、安らぎはあるかもしれない。けれど同時に、自分の中のざわめきが死んでしまう。
だから彼女は、また佐伯に電話をする。
「今夜、会える?」
電話の向こうで佐伯の声が笑う。
「他の男と遊んでも、由紀はやっぱり俺から離れられないんだな」
そのずるさを彼女は痛いほど分かっている。分かっていても、抜け出せない。佐伯は由紀の心も体も弄ぶように味わい尽くし、彼女もそれを喜びに変換する。非現実的で狂った日常に溶け込み、その一員として居場所を見つけようとする。
未来が無いことに目を背け、私は今日も都会の女を演じるのだ。