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等々力で想う学生のブログ(blog)

日々の学び、気づきのストックの場。



自分がより充実した日々を送るためのブログ。


今興味ある事の1つである、「宗教」の中で特に「ユダヤ教」というのに興味があるので、現在私家版・ユダヤ文化論 というのを読んでいます。

ユダヤについての直接的な表現ではありませんが、気になったところ。(というか、何度か僕がこのブログに書いてある事を別の角度で書いていたので引用させていただきました)

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「ユダヤ人」という概念はその人を指して「お前はユダヤ人だ」と名付ける人と同時に出現した。「ユダヤ人」という概念で人間を分節する習慣のない世界にはユダヤ人は存在しない。ユダヤ人が存在するのは「ユダヤ人」という名詞が繰り返し同じ何かを指すと信じている人間がいる世界の中だけである。

_____________________________私家版・ユダヤ文化論 (p39)

これは、現在の「ストレス」というものや、ひいては「いじめ」などの社会問題にも言える事だと思う。

まず、「ストレス」について。

この言葉が出てきてから「ストレス社会」などと、マスコミは多く取り上げるようになり、その影響で、子供でさえも、「わー、ストレスたまるわ~。」という会話がされていました。

概念論と言うか、「言葉の力」と言った方が良いかもしれませんが、その言葉として具現化する事で、人はより意識する様になります。(コレは良い意味でも悪い意味でも。)つまり、「ストレス」という言葉が、当たり前である言葉になったため、それを感じるのは当たり前であるような社会になってしまったと思います。

もちろん、「ストレス」という言葉がなくても、そのもの自信は存在していたでしょう。しかし、そのことがが具現化(言語か)され、存在を認識するという段階がとても大きな変化であると考えています。

認識する。つまり「存在の知らない世界」にあったものが、「存在は知っている世界」に移動するのです。

そうすると、人は興味を持ってしまいます。

この観点については、教育に繋がる観点ですので、もっとしっかり書きたいのですが、これは次回にさせていただきます。
おはようございます。いつ寝ても朝はしっかり起きる道産子です。
なんとか課題にメドがついたので(と言っているうちにまたメドが消えて行く・・・)

さて昨日書いた書き初め「ただ自然に」と言う言葉について。

本当は「自分のスタイルで、自然に」というスローガン(?)なのですが、去年からお世話になっている社長にメールで

「マイペースで、「意志」と「情熱」と「スタイル」をもって、
信じる道をいくことが、最終的な近道です。」

という言葉をいただき、本当に自分の中でフィットしたので、それこそ自然と出てきた言葉です。(というか頭悪いので覚えられなくて、短くした ?笑)

この頃から、「違和感」というものと自分に取っての「自然」というものについて考える様になりました。

結論から言うと僕は自分に取って自分の行動や言動が「自然」であることが幸せであり、また一番成長する状態なのではないかと考えています。

もちろん「違和感」というものと戦う事で、一皮むける事があるとは思うのですが、それは、本当に幸せなのかという風に僕は考えてしまいます。

何か好きでやってるはずなのに、いつのまにかそれが、自分を縛っている。

そんなのは幸せではないと感じています。

これを、自分のある種の軸の考えとして生活する様になると、それ以前よりとても爽快で、日々楽しく、また今まで以上に色々なものが広がって行った気がします。

モチベーションが注目されている昨今ですが、その源は自分の自然の流れにのっているか、さからっているかなのではないかとまで、僕は考えています。


と若輩者がまた大きなことをいってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。
書き初めを書いてみました。

ただ自然に。 あつまさ - 書き初めくん - はてなセリフ

これについては、本当に今の自分の核になっているものですので、ゆっくり書きたいと思います。

ただ、今は課題と言うものと戦わねばなりませんので、また書きたいと思います。

書き初めをやりたいかたはこちら
梅田 望夫, 平野 啓一郎
ウェブ人間論
より メモ1

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平野  インターネットによってグローバリゼーションが進むと良く言われますが、
   一面では逆に一人の人間のナショナリティは強化される方向に向かうのでは
   ないかと思ったことがあるんです。
   (中略)
   フランスにいても、僕の知っている日々の情報と、フランス人たちが知って
   いる日々の情報との間には国境が引かれている。日本語の情報そのものは世
   界中から閲覧可能でも、それを読めるのは主に日本人ですから。その国境は、
   そのまま、僕と彼らとの間に引かれたものだという感覚を持ちました。

梅田  そうですね。
   (中略)
   日本の場合、日本という国と日本語圏がたまたま一致しているので議論が難
   しいのですが、ネットは国の壁は越えられるが言語の壁はなかなか超えられ
   ないというのが僕の感覚ですね。
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                                 p32~p33



自分で、言語の壁というのに、どう関わるかを決めなければいけないと感じました。

自ら話すのか、通訳を使うか、海外と関わらないか。



さた、ボーダーというキーワードからもう1つ。

ボーダレス化というものが進んでいると言われていますよね?
この場合のボーダーは国境でしょうが、僕は様々な部分、特に個人の部分でもボーダレスに対応できる事が需要になってくると感じています。

具体例で言うと、ITと経営。

現在、ITはたんなる技術ではなく、経営を支えるものとしてもとらえられています。そういう中では、「ITを理解できる経営者」や「経営が出来る技術者」というものが重宝されると言う事です。


またそれは、建築と社会学でも言える事だと感じています。


と、言う様に、様々な部分、ミクロマクロとわず、ボーダーがなくなっていく、(というかもともとなかったものを勝手に人間がつくっていたのでは。)のではないでしょうか。

そこで、既存に存在するとされていると、思われている様々な境を再考し、再定義し直すことが重要であると感じています。例えば、ある人から見ると、経営とITは実はすごく近いんだっていう議論すらばかばかしいと感じる人もいるでしょう。そんなの当たり前だって。

そのように、ある枠でかんがえるのではなく、自ら考える事で、自分がどういう立ち位置で社会に関わって行くかというのが、明確になるのではないでしょうか。
尊敬する方のブログ

>基礎がないところに、知識を流し込んでも、実際は何も自分の力とはなっていないことを直感しました。



という一文がありました。

僕の教育に対する考え方に、少しつながるように思います。

現在は「考える力」と称して、ゆとりをつくり、生徒に考えさせることが大切だ、という主張をしている。

これは、僕は大反対。考える力というのは、ある程度の基礎のもと成り立つものだからです。

小中学校でやる国語算数理科社会の、勉強は、基本的な理解力というものに繋がると考えています。

その理解力(引用でいう基礎)を無視して、基礎がないのに、その上にものを乗せようとする。

それでは、何ものりません。


それもこれも、「教育は2サイクルでみる」という長期視点が欠けて居るからだと思います。

もちろん、指針を建てるようなポジションにいる方々は、そんな教育の常識はご存知でしょうが、

環境は、その長期視点より短期での改善を望みます。

実行者だけが理解していても実現しない者があるのです。

まさに環境の大切さ。実行する環境をする方々が理解者でなければいけない。

そう考えると、教育の問題は山積み。

だからこそ、やりがいがあるだろう。そう考えています。

僕は、自分の理想の教育を実現します!



前々回と今回は、少し、自分の教育に対する考えを書く事ができました。

これも「アウトプット」。

何度か、人に自分の考えを話す様になり、言葉として成り立つ考えになりました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。