昭和50年、阪神は吉田政権1年目、満を持しての阪神の顔が監督になりました。よっさんは村山実とはライバルで、年下の村山政権が先にできた事が阪神の浅ましさですがね。

 

しかし戦力的には不整備で、48年に優勝を争ってことで、満足をしていて、たいした補強がなされていませんし、特に助っ人トリがいいかげんでした。

パーカーという選手を南海から取ろうとしたんですが、家庭の事情ということで逃げられ、ロッテを高齢ということで解雇になったアルトマンを緊急補強、愚の骨頂です。もちろん彼は紳士で、選手の鑑ですが、40歳を超える助っ人を主力で、クリンナップでフルシーズン出来るわけがない。

 

さらにはやはり、江夏の扱い方が誰にも出来ませんでした。吉田監督もまだ若かったせいもあり、だいぶぶつかったのは事実でしょう。でも何とかシーズンを持たせたのが、米田投手の獲得でした。

阪急で浮いていた超ベテラン、阪神ではエ夏といいコンビとなりなんと8勝を上げたんですね。

 

なにかこんな付け焼刃で、侍の多い阪神。球団体質は今以上に下種でしたが、そんな阪神にどんどんのめりこんで行きました。

そして阪神の歴史を知りたくなり、戦前には巨人と真っ向ぶつかり合う2強の球団だったことも知りました。

侍というより、古武士のような体質はそのころに出来たものと感じました。

 

でも天王山の中日戦で連敗して、当時まだやっていたダブルヘッダーに致命的な惨敗、優勝は無くなりました。悔しかったですね。ずっとラジオを聞き入っていました。

 

アルトマン獲得だったが

 

田淵が初ホームラン王

 

そして米田獲得

 

掛布が台頭し始める