一番選手が多く、様々な役割分担がスムーズだったのが、高田延彦が設立して1991年5月10日に後楽園ホールで旗揚げ戦を開催したUWFインターでした。 高田をエースに据え、スッキリまとまった形でした。
3派の中で、一番見やすく、テーマもはっきりしている中で、Uの息吹を残したバランスの良さがありました。
 
高田、山崎、を筆頭にプロレス回帰の方向性でしたが、異種格闘技路線も取り、ボクサー、アマレス、そして元横綱の北尾もリングに上げることに成功しました。 また、ボクサーはトレバー・バービックという元世界王者を呼ぶことに成功、試合はさんさんたる逃亡劇となりましたが、なかなか勝負をかけた感じがしましたね。
荒っぽい呼び方をしたんでしょうね。 リングに上げてしまえばこっちの物(^^)
 
また北尾についても、まずは山崎と戦わせ、強さを見せつけた後で、高田が仕留める。 この時は胸がすくような勝ち方というか、北尾の崩れ方が爽快でしたが、あとで北尾が何やら言い訳をしていましたね。
 
しかしUインターは、パンドラの箱を開けてしまうんですね。 それはグレイシーに喧嘩を売ってしまったことでした。
 
いくつかのUインター崩壊の理由があげられますが、その一番大きなところはこれだと思います。
UWFインターナショナルに所属していた安生が、1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシー柔術アカデミーへ道場破りに行き、ヒクソン・グレイシーに挑戦。非公式試合ながら多くのヒクソンの弟子たちが見守る中、なすすべなく倒されパウンドを浴び、チョークスリーパーで失神させられたという事件ですね。
安生は、その1か月ほど前 「ヒクソンには200%勝てる」 と公言し、前夜も朝方まで忘年会で浴びるほどに酒を飲むなどの余裕を見せていた挙句の敗北であったという事ですが、この行動は、ヒクソンと対戦交渉を進めていたUWFインター側が、なかなか結論を出さないヒクソンを挑発するために行った外交交渉の意味合いがあったらしいのですが?
 
その使者(刺客)として送り込んだのが、当時道場でも一番の実力者とされた安生であったという事に繋がるんですが、良くも悪くも、結果的にこの事件によりUWFインターは業界で大きな注目を集め、3年後にPRIDE(ヒクソンvs高田延彦戦)が企画されるきっかけにもなったんですが、これがUインターの強さの象徴だった高田を失墜させる原因となっていくんですね。