朝、家を出る前。
美桜の手はまた、
クローゼットの同じ場所に伸びている。
水色とグレーのチェック。
マフラーは他にもある。
新しいのも、
今日のコーデに合いそうなのも。
でも、
結局これを選んでしまう。
理由をつけるなら、
軽いから。
巻きやすいから。
あったかいから。
どれも嘘じゃない。
でも、
本当の理由は、
自分でも触れないようにしている。
駅までの道。
首元が、
じんわりとあたたかい。
(返さなくていい)
あの時の声が、
ときどき、
風みたいに思い出される。
冷たかった。
はっきりしていた。
——期待するな、って。
そう言われた気がして、
胸が少しだけ、
きゅっとなる。
それなのに。
昼休み、
コンビニまでの短い距離でも、
外す気にならない。
(……別に、いいよね)
誰に言うでもなく、
自分に言い訳をする。
返す相手はいない。
返す約束も、ない。
「返さなくていい」って、
言われたのだから。
だから、
使ってもいい。
——そうやって、
自分を納得させる。
仕事帰り、
ホームで電車を待ちながら、
ふと、
マフラーの端を指でつまむ。
布の感触が、
あの夜の空気を
連れてくる。
寒かったこと。
偶然だったこと。
あたたかかったこと。
そして、
言い切られたあの一言。
(……優しかった、のかな)
そう思うと、
少しだけ、
苦しくなる。
優しいなら、
もう少し迷ってほしかった。
でも、
迷わなかったからこそ、
今も忘れられない。
洗濯をする日、
マフラーを洗濯ネットに入れるとき、
一瞬だけ、手が止まる。
(……これ、
洗っていいんだっけ)
意味のない迷い。
でも、
そのまま洗濯機に入れる。
ちゃんと、
日常にしてしまう。
干すとき、
ベランダの風に揺れるのを見て、
胸の奥が、
少しだけざわつく。
(……これ、
私のものみたいだな)
そう思ってしまったことに、
自分で驚く。
夜、
ソファに座って、
首元を触る。
マフラーはない。
それなのに、
まだ、
あたたかい気がする。
——返さなくていい。
その言葉は、
突き放されたみたいで、
でも、
どこかで繋がれている気もして。
期待してはいけない。
でも、
忘れられない。
だから、
また次の日も。
寒くなくても、
少しだけ冷えそうな日は、
このマフラーを選んでしまう。
誰にも見せない期待を、
首元に巻いたまま。
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