こんにちは。
今日は「考える力は意識しないと育ちません」といった話を書いてみます。
●考えるとは「質問する」こと
教室での先生と生徒の会話です。
先生「今日の話は以上です。何か質問ありますか」
生徒「・・・・」
先生「質問がないということは何も聞いていなかったのと同じだぞ。いいか、人の話を聞いたら、必ず自分なりの質問をすること。それが何か話してくれた人への礼儀だと思え。渡辺何か質問はないか」
渡辺「はい先生の言うことはよくわかります。ですが先生、質問するっていうことは、逆に先生の話をちゃんと聞いていなかった、ということじゃないんでしょうか」
先生「・・・・・」
正解がある知識の世界で重要なのは「答え」です。
これに対して考える世界で重要なのは、問題そのものを発見するための「質問」です。考えるというのは、質問によって「知らないこと」に目を向けることから始まります。皆さんの日常の何気ない会話の中で、質問の比率をチェックしてみましょう。
「考える」とはまず、「知らないこと」に目を向けることから始まりますが、ある人がすでに知っているものに興味があるのか、それとも、まだ知らないことに興味があるのかは、この比率を見るのが最も簡単な方法の一つです。
「よく喋るうえに話し上手な人」というのは、会話がアウトプット中心、つまり今自分の知っていることが話題の中心になっているわけです。
このような状況では、実は考えることも学ぶこともできていません。考えている人はむしろと「聞き上手」であるとことが多いと言えます。
1つは自分がすでに知っていることよりも知らないことに興味が向いている、従って、知っていることを話すよりも、他人から自分の知らないことを教えてもらえるよう、質問を次々に繰り出していきます。
●何も質問しないというのは存在していないのと同じ
冒頭の話に戻ります。確かに渡辺君の言い分もそのとおりです。特に日本の学校では(特に中学生以上は)「質問=恥ずかしいこと」というイメージがなかったでしょうか?
これが日本の教育が知識中心であることを物語っているのです。確かに知識を伝授する場面においては質問するということは話をちゃんと聞いていなかったことを意味します。ですから、質問はある意味で恥ずかしいことになるわけです。
ところが、思考力のための話というのは、あくまでも聞いている側に自律的に何かを考えさせることが究極の目標なわけです。
ですから、そこで質問が出てこないということは、聞き上手に対して何も刺激も与えられなかったことを意味します。つまり、聞いている側が、何も質問しないというのは存在していないのと同じことを意味します(以上、「考える練習帳」細谷功著より)
さて、これが会社だと、会議の場で、一言も話さない参加者がいたりします。
会議の大切を様々な観点から、意見されています。一方で時間のムダだと考える人もいれば、情報の交換によって視野を広げる機会だと言われる方もいれば、自分自身の売り込みによって地位・キャリアを向上させたりする重要な場と捉えている方もいます。
稲盛和夫さんは、会議の席上で黙っている者を嫌いました。どんどんしゃべれと。
「知りて言わざるなく、言いて尽くさざるなし」であらねばならない。自分の言った言葉で縛って、責任でガンジガラメにして逃げられないようにすることが頑張りを要求され、努力が強要され、仕事ができるのであって、なるべく言わないように逃げるような人間は仕事ができないやつだと。
人間も鉄のように熱いうちにたたかれ鍛えられて成長するのだ。ドンドンしゃべれ、しゃべって叩かれ、「多言実行せよ」と。これは、「10言って5しかできなかった人間」と「3言って3できた人間」では、「言っていること」と「やっていること」の整合性は、3の人間の方が上だ。ただ、10言って5しかできなかったとしても、結果として、3の人よりも成果を出していることも事実だ、と説明されています。
大風呂敷を広げて「あれもやります、これもできます」という人は信用できないという文脈で捉えられることもあるが、たくさん動けば失敗も当然増えることぐらい、上に立つものは分かっているということだろうと(ここまで)
とはいえ、現実はこのような会議の場は少ないような気がします。僕の会社でも会議は議論の場ではなく、確認の場であることの方が多かった気がします。
例えば、僕がある企画部門の統括マネージャーをしていたときの話です。
社長からコストダウンの指示が出され、2週間かけて各組織と折衝を重ね、ようやく5%のコストダウンのシナリオがまとまり、その資料を上司の役員から、役員会で説明をしていただきました。
ところが、役員会の結論は、「15%のコストダウンを目指す」という+10%の目標が追加されたものでした。こうなってくると無理を通りこしてムチャです。不正まがいのことをやらないと、到底達成できません。一体、役員会でどんな議論をしたのか、上司に尋ねてみました。
各組織の担当役員には根回し済みなので、滞りなくプレゼンは進み、特に意見も出なかったそうです。ところが、社長の「この程度で会社の危機が乗り切れると、君たちは本当に思っているのか?」という一言で、空気が一変してしまいました。
「そうは言われても」と誰かが弁解しようものなら、「できない理由ではなく、できることを考えろ」と言われ、そのうちに、「わかりました。ウチはさらに1%上積みします」と威勢のよい役員が現れ出し、列車に乗り遅れまいと次々と他の部門長も上積みしたそうです。
そうやって、根拠のない数字を足し合わせると、提案の2倍以上の15%に積み上がった、というのが事の顛末(てんまつ)でした。「本気度を試されている空気感があった」「みんながやるというのを、止められなかった」「自分だけやれない、とは言えなかった」というのが上司の言い訳でした。
●有能な人たちが愚かな決定をしてしまう
会議とは、多様な意見を持った人が集い、いろんな角度から問題を検討し、よりよい意思決定をするためのものです。ところが、会議にかけることで、個人では到底ありえない結論を導いてしまうことがあります。「集団浅慮」(グループシンク)と呼ばれる現象です。
集団浅慮は、場を支配する強いリーダーがいるときに、起こりやすくなることが知られています。リーダーによい印象を持ってもらいたくて、ご意向と異なる方向の意見が出しにくくなるからです。
加えて、集団が一つにまとまろうとする力(集団凝集性)が高いときが危険です。正しい答えを選び取るより、合意形成することが目的になり、和を乱す意見が出しづらくなるからです。「全員の意見が同じ」と思いこんで、深く議論しなくなってしまいます。
●結論が両極に振れがちになる
集団浅慮が働くと、極端に危険な結論になることがよくあります。「リスキーシフト」と呼びます。
たとえば、一人ではとても言えない極端な話でも、みんなと一緒なら主張したり同調したりできます。ネットの炎上が典型的な例です。
節度ある大人でも、集団に紛れると過激になれます。より過激なほうがカッコよく映り、リーダーがそれを求めていればなおさらです。どんどん威勢の良い方向に話が進んでしまいます。
しかも、みんなと意見が同じだと、正しいと思いこんでしまいます。みんなで決定すると、一人ひとりが無責任にもなります。いわゆる「赤信号、みんなで渡れば怖くない」です。
逆に、極端にリスクを回避する方向に振れることもあります。これを「コーシャスシフト」と呼びます。
プロセスは先ほどと同じで、保守的な意見のほうが思慮深く見えるところだけが違います。どんどんとリスクを回避する無難な方向に議論が流れてしまうのです。今決断しないといけないのに、何も決めずに先送りをすることもあります。
いずれにせよ、先に述べた条件が重なると、議論が極端な方向に流れることがあり、「集団極化現象」と名づけられています。これらを防ぐにはどうしたらよいのでしょうか。
●集団浅慮を打ち破る一つの質問
集団浅慮の名付け親であるI・ジャニスは、「全員が批判的な目を持つ」「リーダーが最初に意見を述べない」「外部の第三者の意見を加える」「あえて反対意見を述べる役割をつくる」といった対策を提案しています。いずれも合理的な意思決定には欠かせない方法です。
しかしながら、場の空気に抗するのは至難の技です。
そこで紹介したいのが、心理学者G・クラインが提唱する「プレモータム」と呼ばれる手法です。ほぼ会議の結論が見えてきたところで、次の質問を自分自身もしくは全員に質問をするのです。「もし、この決定が失敗するとしたら、なぜだろうか?」と。
僕の事例では、15%のコストダウンは努力目標となりました。最低5%という気持ちでやって欲しい、と社長からフォローが入りました。加えて、目標達成の有無を問わず、頑張ったプロセスを表彰したいともいわれ、俄然役員は部下への指示がしたすくなりました。さて、みなさんの職場ではいかがでしょうか。
それでは、今日も笑顔あふれる素敵な一日をお過ごしください!
頑張り屋のみなさんを応援しています!