「自己実現に夢中になる人で満ち溢れた世界をつくる」

そして、

「自分らしく生きる人で満ち溢れた社会をつくる」

その結果、

「自己実現した人にしか見られない風景を誰でも見られる世界をつくる」

そんなビジョンを掲げる

「未来価値創造パートナー」の渡邉敦です

 

 

 

こんにちは。

 

今日は比較から解放される生き方といった話を書いてみます。

 

資生堂レディース最終日(30日・神奈川県戸塚CC=6697ヤード、パー72)2位から出た21歳の桑木志帆が4バーディー、1ボギーの69で逆転し、通算11アンダーの205でツアー初優勝を果たした。

 

 

僕の近所で行われた女子のプロゴルフツアーでしたので、自転車で見に行ってみました。今日は最終組の選手たちのプレーを間近でみることができました。

 

 

当たり前ですが、大きなミスは全くと言っていいほどありませんね。そしてやはり、ショートゲーム(グリーンまわり)は本当にうまくて、どこからでも確実にピンに寄せてきます。そんなプレーに観客は大きな声援と拍手を送ります。

 

それでも、ショートホールでワンオンしない、ミドルホールで第二打がグリーンにのらない、ティーショットがラフに入った、といったちょっとしたミスには観客の声援も静かになります。結構、その差が激しくて、「えっ、そこまで観客もシビアなんだ」と感じました。

 

しかし、そんな彼女たちは、観客の間を抜けてホールを移動しますが、観客から声をかけられれば、軽く会釈をするなどして応えてくれます。そんな、プロとしてファンを大切にする礼儀正しさには感心しました。

 

ゴルフのように観客と選手が近い距離感で行われるスポーツは、お互いを大切にする暗黙の基準があるんだなぁと思いました。スポーツの世界でも、ビジネスの世界でも、自分なりの基準をみな大切にしています。今日は、そんなことから思うことを書いてみます。

 

みなさんは、「人間が生きた意味」みたいなのを考えたことがありますか。

 

これは多くの人が考えることだと思うんですね。自分の生きている意味はなんだろう、とか、自分が残せる価値ってなんだろう、とかです。

 

で、ここからちょっと飛躍させて「人間の生きた意味を数値で計測するとしたらどの基準がいいのか」と考えてみました。

 

当然ながら、これって結構難しいんです。で、仮に「もしも死後の世界で生きた価値順に並べられて、ランクが決まるとしたら、どういう基準に一番納得感があるか?」というのを考えてみました。

 

まず、思いついたのは「人の感情を動かした度合いが高い順」というのがいいんじゃないかと思いました。たとえば、僕が今日感じたようにスポーツなんかもそうです。ただ、「感情」となるとわかりやすいのは音楽でしょうか。クラシックにしても、ロックバンドにしても、人の心を動かした質と量(人数)が多い人はランクが高いということになります。

 

もちろん、人と人とのやり取りで、優しくしたり、親切にすることで、相手の感情を動かしたら高くなります。一方で、誹謗中傷をネットで繰り返している人とかもランクは高くなります。とはいえ、「芸術家などのほうが有利」「マスメディアに出ている人のほうが有利」ということになってしまいます。

 

いってしまえば、歴史上だと、始皇帝やアインシュタインよりも、ビートルズが勝つことになるので、なんかイマイチ納得感がありません。

 

じゃあ「どれだけ人の人生を変えたのか?」はどうだろう、と思ったんですが、こうすると、おそらくスティーブ・ジョブズなどがかなり高くなります。

 

コモディティ化された技術を生み出したり、イノベーションを生み出したりする人のランクがあがったりするわけです。

 

「どれだけ歴史を変えたのか」でも考えたんですが、歴史が変わったかどうか、というのは判断がつきません。やりなおして、同じ条件でAパターンとBパターンを比較できないからです。価値観というのは、その当時と今では変わってしまい、昔は当たり前でも今はあたりまえではないことがたくさんあります。

 

織田信長がいてもいなくても、今の日本と殆ど変わらないかもしれませんし、ものすごい変化があるかもしれません。そして、それでいったら、どんな人物でも、おそらく影響があるので、どのくらいの影響があったかを判断するのが難しいです。

 

というわけで、僕の中では、結局どのパターンを考えても、良い基準というものは生まれない、という、当たり前の結論になりました。

 

で、思ったことは、こういうのを考えても「人と比べたりランキングにしたりするのは無理なもの」という結論になるくせに、割と僕たちって、人と比べたりするよなぁと思うわけです。

 

成果を出しているあの人よりも、自分は劣っている、とか、自分のほうが価値の高い人間だ、とか思ってしまったりするということです。

 

しかし、ある時期ではものすごい成功者だと思われていた人がダメになってしまったり、ホームレスだった人が大成功をしたりすることもあります。

 

ケンタッキーを作ったカーネル・ハーランド・サンダースとかは60歳になるまで大半がホームレスのような生活だった、といわれます。アンパンマンのやなせたかしさんも日の目を浴びたは60歳過ぎからでした。

 

こんな二人の若い頃を見たときには、多くの人が「彼よりは自分は価値のある人間だな」と思ったりするかもしれませんね。

 

長い人生の中の一部分だけ切り抜いて、自分の価値を高いと判断したり、低いと判断するのはほとんど意味がないんですが、それでもそれをやってしまう人は多いのを感じます。

 

当たり前ですが、前提として「生きる意味」なんてものは基本的にはないとも言えますし、それぞれが幸せであれば生きる意味があったとも言える曖昧なものです。

 

ですので、「生きる意味や、生きた価値、みたいなのを人と比べたりするのはナンセンス」となるんですが、そもそも人は、「絶対的な価値を見出すのは難しい」生き物なんですね。「比較をしないと判断出来ない」と言い換えてもいいかもしれません。

 

年収1億円の人に囲まれていると年収2000万円の人は惨めに感じるらしいです。ほぼ不自由ない生活でもそうなってしまうわけです。

 

というわけで、僕らは、比較することでしか判断できないことが多い、と考えると「絶対的な基準がある人が強い」という希少性が際立ちます。

 

他の人がなんていおうと、これが好きだ、とか、他の人がどうであろうと、今の自分が幸せだ、と思えるほど、幸福度が高くなるかもしれないとも思いました。

 

逆にいうと、人と比べている以上、幸せには近づかないかも、とも。

 

というわけで、「人と比較しないで判断できるものをたくさん持つようにしよう」というのが大事なことだ、とあらためて感じました。

 

資産とか年収とか会社の規模とか、そういうものではなく、自分の中の尺度を持つ、ということです。人間は相手と比較しながら自分の立ち位置を考えてしまう生き物。ある程度の比較は仕方がないと思うけど、他人との比較をやめるためには、「目に見えない部分」を尊重することが大切だ、とひろゆきさんなんかと言います。

 

その人の「能力」や「才能」を比べてみると、「あの人は、仕事ができるし、人から好かれている。そういう社会的な才能はある。でも、センスはないよなぁ」というように、「いい部分と悪い部分」があることに気づきます。

 

そうやって、目に見えない部分のことを考えてみることで、きっと、他人と比較し続ける人生から脱することができるんじゃないかなぁ、と。

 

ビジネスの世界では、常にまわりとの比較の場で、自分をさらけだすことになります。しかし、そこで他人の土俵にのってはいけません。比較されるのは相手ではなく、昨日の自分でいいと思うんです。

 

昨日の自分と比較して、1mmでも前に進んでいるのであれ、成長していると考えましょう。

 

今日は、いろいろと書きましたが、女子プロゴルフファーはツアーで毎回、同じ組の人と観客からは比較されてばかりなわけです。そんな彼女達は、常に比較されるのには慣れているので、自分の中に絶対的な基準があるわけです。

 

と、あらためて僕も自分の中に、絶対的な基準が欠けていると思ったので、他人に振り回されないものを設けることにしようと思っています。

 

みなさんの何かの参考になればうれしいです。

 

 

それでは、今日も笑顔あふれる素敵な一日をお過ごしください!

 

頑張り屋のみなさんを応援しています!

 

「A&W コンサルティング」
 代表・中小企業診断士 
    渡邉 敦 (Atsushi WATANABE)

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