こんにちは。
今日は「成長の限界を自分で決めない」といった話をしてみます。
昨日の「ビヨンド・ユートピア 脱北」が頭から離れないんですが、人間生死を分ける局面に置かれたら、 あれこれと状況を妄想しているうちにどんどん怖くなってくると思うんですね。考えても不安は膨らむ一方です。
しかし、実際にとるべきアクションは、「やる」か「やらない」かの二者択一であり、超シンプルです。「やる」か「やらない」か、どちらを選べば幸せになり、不幸せになるか、しかし、失敗すれば間違いなく死を意味するわけで、堂々巡りが、決断を遅らせます。
こんなとき、ズバッと決断できる明快な考え方があります。それは「どちらを選んでも、それが自分の選択であり、正しい」と考えることなんです。
つまり、自分自身がその選択の決定権者であり、プレッシャーや焦りに気おされて決めた選択は、結局納得できなくてモヤモヤするだけです。
脱北という極端な例でなくても、僕たちは2者択一の選択を迫られたとき、不安な気持ちのままだと、小さなアクシデントに出くわしただけで「やっぱり違ったんじゃないか」「別のほうを選んでいたらどうなっていたのだろう」という考えが頭から離れなくなります。
やってもやらなくても、自分の選択です。
自分自身の意思で選べば、ちょっとやそっとで揺らいだりしません、しかし、優柔不断で決められないのも人間なんですから。
ここからが今日の本題です。
みなさんの職場にも優柔不断で結論を出さない、あるいは、なかなか判断(決断)しない、といった上司がいませんでしょうか。よくあるのが、「課長の時はすごいやり手だったけど、部長になった途端に色あせて」というパターンです。マネジメントが全然できなかったり、優柔不断で決断ができなかったり……。その癖、部下の仕事に細かく口を出す人や、部下をそっちのけで自分のことばかり考える人」です。
部下からは「部長らしい仕事をしていない」「そもそも部長の器ではない」「あれでどこが部長なんだ」と揶揄され、上司(役員)からは「部長が課長の仕事をしてどうするんだ」「君を部長に推したのは間違いだった」と叱責される。
そんな狭間で悪戦苦闘しているのが、現実の部長の姿です。
こうなるには、ちゃんとしたワケがあります。それを、「ピーターの法則」といわれています。
組織は無能な上司で埋め尽くされる
たとえば、Aさんがめでたく課長から部長に昇進します。どうして部長に昇進できたか、一番の理由は何でしょうか。おそらく、課長の間に優れた能力を発揮し、立派な実績を上げて組織に貢献したからです。一言でいえば、課長として評価されたからです。
ということは、Aさんが部長としても評価されたら、次の役員に昇進するはずです。それができずに部長で居続けるとしたら、Aさんは部長の力が不十分だと評価されたことになります。言い方を換えれば、Aさんは部長として落ちこぼれだったので、そのポジション(部長職)が務められるわけです。
つまり、サラリーマンは、ヒラ、主任、係長、課長、部長、役員・・・と出世の階段を上っていくなか、無能さが露呈したところで昇進が止まることになります。その結果、多くのポジションは、無能な人で占められる事態になるわけです。
これがアメリカの教育学者L・ピーターが提唱する社会学の法則です。「人は無能になるまで出世する」「組織は無能な管理職で埋め尽くされる」と言うのです。えっ、そんなんで会社は大丈夫なの?と思ったりしますが、それが現実なんです。
ここで不思議に思いませんか。なぜ、そんな状況でも、組織はそれなりに回っているのかと。
答えは簡単で、まだ出世の余地がある人が組織を支えているのです。たとえ、部長がポンコツであっても、その下の課長の中には、部長や役員になれる有能な人がいます。
最近、中学生や高校生は、結構な割合で「僕が無能なんで」とか「親が無能で」みたいな感じで「無能」という言葉を使う人が多いんじゃないかなぁと思っています。
こういう使い勝手いい言葉は、物事がわかった気になってしまいます。たとえば「自分は無能だ」と言うと、なんとなく自分を正しく評価できている気になってしまいます。なんか変な話ではありますが。
しかし無能といっても、
・何ができて、何ができないのか
・できることは、どのくらいのレベルできるのか
・できないことは、スキルの問題なのか、経験値の問題なのか、知識の問題なのか
・できないことをできるようにすることは可能か
・できないことをできるようにしたいという気持ちはあるのか
など、内容を突き詰めていくと、いろいろな分解ができます。そうすると、「これはできないけど、こうするとできるようになりそうだな」とか「これはできるようになれるかもしれないけど、できないままでいいな」とかに気付けるわけです。
「自分は無能だ」としてしまうと「無能だから働くのは無理だな、じゃあ生活保護をもらおう」みたいな結論とかになってしまいます。
それが悪いというより、「実際はこういう得意なことがあって、底を突き詰めると、こういう仕事ができて、報酬もたくさんもらえる、そしてそちらのほうが幸せだった」みたいなことを見逃してしまうのはもったいないなあ、と思っています。
人を判断できるほど有能か?
無能だ、みたいな単語を聞いて思うのは(偉そうに言いますが)「自分のことを無能だと思うほど、多くの人間を観て、適切に評価できているの?」ということです。
たとえば、著名人であれば、ものすごい数の人と働いているわけですし、上場企業経営者からスポーツ選手、現場の職人、ネット上の第一人者などを幅広く人と接しているでしょう。
その上で、人の能力を判断して、適切に使う、みたいなことが人よりもかなり長けているわけです。なので、そのような著名人の人物評なら、僕がみても、精度は高いと感じます。その点について、ひいきめなしでみても優秀だと思います。
ただ、それが、中学生とかが、自分とか周りの人のことを「無能」と判断する力があるかというと、ほとんどありません。判断できるほどの能力はないですし、そもそも中学生が、有能か無能か判断するのは、誰でも出来ないと思います。知識も経験も乏しい状態でのアウトプットをみても、あまり参考になならないですよね。
つまり、判断できるレベルに達していないのに、自分とかのことを「無能だ」とレッテル貼りをしてしまって、それが正しい前提で動いてしまうと、だいたい結果はミスるだけです。
気持ちはわかる
もちろん、かっこいい人が使っている単語を使いたくなる、という気持ちは死ぬほどわかりますし、僕もそういう経験があるので、それ自体は否定しません。
ただ、「その単語の意味、本当にわかって使っているのかな」とか「粗い言葉でわかった気になっているけど、全然わかっていないのでは」と自分は気づいていないだけで、まわりはわかるんですね。
切れ味がいい、使いやすい単語ほど注意なので、気をつけましょう!
それでは、今日も笑顔あふれる素敵な一日をお過ごしください!
頑張り屋のみなさんを応援しています!