お尻が痛い。辛すぎるトイレ事情

・4月12日レース会場へ移動

 早朝6時に起床した。鶏がいない。しかし、昨日よりも緊張感のある朝だ。今日はホテルからバスに乗り会場に向かう。また6時間。吐き気と格闘しているうちに、バスの窓の景色から緑が消えていく。ほぼ火星だ。まだ酸素はあるようだ。バスの前方の歓声で目が覚めた。レース会場に到着したのだ。バスを降りると現地のベルベル人から盛大な歓迎を受けた。

 今年のレースの参加者は全850名。そして、ドクター含め100名以上のスタッフが24時間付き添っている。

 円を描く様にして衣食住を行うテントが設営されている。この野営地をビバークというらしい。私のテントは20番。テントは国籍ごとに分けられる。テントに到着すると誰もいなかった。日本人はまだ到着していないようだ。

上の画像:会場に向かう道

下の画像:バスから見えたビバーク(野営地)

 トイレをしたくなったので、設営された簡易トイレで用を足す。トイレといっても周囲から見えないように仕切りが設けられ、その中に設置されたプラスチックの便座に自身でゴミ袋を敷き、用を足すのだ。なかなか手間だし、近代国家で生まれ育った僕は少し抵抗感があるが仕方ない。しかし、ここで重大な問題が生じた。トイレットペーパーを持参していなかったのだ。アタカマ砂漠マラソンに出場した学生寮の先輩から「トイレットペーパーはいらん。軽量化の為に持参せず、周囲の草木で代用しろ」と言われていたので周囲の草木を探すが、針のようにとがった枝を持つアカシアしか見つからない。これを使ったら間違いなく肛門が血だらけになるだろう。そこで、持参していたエタノールが浸してある綿を代用してみた。肛門に焼けるような痛みを感じる。既に結構しんどい。まだレースは始まってすらいない。

 トイレからテントに帰ると、他の日本人が到着していた。僕はこれが初めての顔合わせだった。無言すぎる。誰も何も話さず、耐え難い沈黙がテントを覆っていた。この雰囲気のまま7日間一緒に過ごすのだろうか。そして、8人が1つのテントで衣食住を行うのだが、そんなスペースはない。どう考えたって狭すぎる。

画像:8人共用テント

 荷解きが終わると日が落ちかけていた。食事の時間だ。軽量化の為に、ライターと固形燃料とカップしか持ってこなかったので石を集めて台を作り、木を燃料にする。想定よりも風が強かったので全く火が付かない。湧き始めたお湯を使って、坦々麺を作った。咀嚼するたびにバリバリと音を立てていたが気にしない事にした。

 寝支度を済ませ散歩をしているとベルベル人のスタッフの方が僕をラクダに乗せてくれた。ラクダは可愛い。自分にもまだ楽しむ余裕があるようだ。

 日が沈むと急に冷え込んできた。一つのテントに8人で寝る。足が収まらないのでマットからはみ出して寝た。寝返りを打つと必ず隣の人とぶつかる。隣の人、ごめんなさい。就寝後も容赦なく砂嵐が吹く。顔中砂まみれになり、鼻に砂が詰まる。他人のいびきで眠れない。そして凍えるほど寒い。砂が鼻に詰まり息ができない。そして、学生寮の後輩から借りたマットを引いて寝ていたがそれでも腰が痛くなる。早く朝になって欲しい。

後悔!!出る大会を間違えました。

・4月13日メディカルチェック

 寝起きは疲労回復どころか疲れている。体を起こすと顔から砂が落ちてくる。寝ている間に砂が顔に積もっていたのだ。僕は視力が悪いので、起床して始めにコンタクトをつけようと試みる。ここで問題なのが、いくら水で手を洗ってもコンタクトに砂が付く事だ。3回付け直す。コンタクトに砂が入って、2分は激痛で目が開かない。

 今日はメディカルチャックを行う。メディカルチェックとは名ばかりで所持品チェックと書類の手続きを行うだけだ。荷物の重さは9.4キロだった。レース中はこれに水が加わる。こんな重い荷物持って250キロ走れるだろうか。気にしても仕方がない。昼になると凄まじい暑さを感じる。砂漠の方が町よりも暑いようだ。

 日本人の方々がテントで何やら騒がしくしている。テントが崩壊したらしい。皆で修復した。既に疲労困憊である。テントはくつろぐようなスペースがないので、散歩に出かけた。少しビバークを離れると砂が所々黒く滲んでいる。すると、遠くに立ちションしている男性が沢山いた。なるほど。散歩する時には地面に気を付けなければならない。散歩から帰るとテントに些細な会話が生まれている。昨日よりも明るい雰囲気になっていたので安心した。他の人達の会話が聞こえてきた。「この前キリマンジャロを登ったんですが、、、。前回のアイアンマンレースでは、、。」何も聞こえていないふりをした。

 当然だが僕のような素人は誰も参加しておらず、登山家やアイアンマンレース完走者など猛者揃いだった。完全に出場する大会を間違えた。ラザニアを食べて日本に帰るべきだったかもしれない。

 同じテントの日本人に、僕が学生でマラソン経験は一切なく参加している事を伝えると、若干気まずい雰囲気になったので星を見にテントを出た。星はとても美しい。明日から地獄のレースが始まる事を感じさせないほど透き通っていた。

画像:サハラ砂漠の星空。大会公式SNSより。

ヘリが飛び交い、リタイヤ続出。地獄です。

・4ステージ 4月18日43.1km 制限時間12時間45分

画像:4ステージの地図

 スタート前はいつにも増して鬱憤とした雰囲気だ。昨日泣き叫びながら歩いていた香港人の女性はムンクのような表情をしている。現地のベルベル人がこの集団を見たら、ウォーキングデットのゾンビだと思うだろう。

 85キロの山場を越えたからと言って、気は抜けない。なぜなら、あと100キロ残っているからだ。しかも、大量の食糧を捨てたので常に空腹である。さらに、残りの食糧も飽きてまともに食べられない。

この日は、上位150人はスタート時間が90分遅い。しかし、最初のCP1に辿り着く前に抜かれてしまった。僕が3時間かけて歩いた道を彼らは1時間で進む。同じ人間だろうか。

 スタッフが色々な人に水をかけまくっている。スタッフから、今日は50度を超えているから気をつけろと警告された。知らない方が良かった。

 しばらく歩いていると、ヘリが上空を飛んで行った。きっとエマージェンシーコールと押した人がいるのだろう。この大会はエマージェンシーコール付きのGPSが各選手に渡されている。僕の目の前を歩いている人もどんどんリタイヤしていく。

画像:GPS付緊急呼び出しボタン(ビーコン)

 途中で日本人ランナーの人からアミノ酸が含まれたジェルを貰った。これが美味しくて少し元気が出た。

 今日もスタッフの方と最後は一緒にゴールした。猛暑の中、サンダルで一緒に付き合ってくれる。感謝しかない。奥にゴールが見えてきた。しかし、いくら歩いてもゴールに到着しない。ゴールが見えて45分くらい歩いてやっと完走した。

 僕の少し後ろを歩いていたフランス人の女性が完走と同時に気絶し、タンカーで運ばれる。恐ろしいレースだ。

 飽きた食糧を吐きそうになりながら無理やり飲み込む。終わりが見えてきた。

ラクダの白骨。こうはなりたくない。

・5ステージ 4月19日距離31.4km 制限時間9時間30分

 昨日と違って、スタート前の雰囲気が明るい。なぜなら、今日は31キロしかしないからだ。31キロが短く思えてきたのは、サハラマラソンに慣れてきた証拠だろう。

 しばらく歩いていると、ラクダの白骨を発見した。砂漠で死ぬのは嫌だな。最後まで完走を目指してひたすら歩き続ける。

上の画像:5ステージの地図

下の画像:ラクダの白骨

 この日は石川さんと雑談しながら歩いた。石川さんのお話はとても面白くてあっという間にゴールしてしまった。最初から石川さんと雑談しながら来ればよかったかもしれない。

 最後の夜なので焚火を見に行くことにした。地獄のようなレースだったが、なぜか少し寂しい気持ちにもなった。

本音2

のようなレースだったが、なぜか少し寂し



完走。人生で一番感動しました。

・6ステージ 4月20日距離21.1km 制限時間6時間30分

最終日だからか、皆飛ばして走っていった。嘘だろ、そんな体力どこに隠していたんだ。僕は体力を全て使い切っていたので歩いた。

ゴール付近になるとまたスタッフが一緒に走ってくれた。

とうとう完走した。国籍問わずランナーやスタッフがハグしてくれた。人生で一番感動した。達成感はもちろんあるが、人種、国籍、宗教、年齢、性別、職業、走力問わず励まし合いながら皆が同じ目標に向かって一生懸命に進み続けるすばらしさに感動した。

余談だが完走後に渡されたパサパサのパンと缶が美味しかった。美味しすぎて砂まみれの手で缶詰に指を突っ込んで食べた。潔癖気味の僕でも汚いなどどうでも良かった。

画像:感動の完走

 

ご支援頂いた皆様、そして現地でレースを支えてくれた皆様、本当にありがとうございました。

・3ステージ 4月16日/17日 残り距離41.3km 残り18制限時間時間 睡眠時間2時間

 スタッフの人にたたき起こされ目が覚めた。CP4にほぼ人がいなくなっていた。辺りは真っ暗で1メートル先は何も見えない。ランナーはヘッドライトで辺りを照らし、30メートルおきに蓄光テープが巻きつけられた石を目印に進む。一人でこの暗闇を進むのは無理だろう。焦って準備しているとスタッフから、一人で進むのは危険だからランナーと一緒に歩け、とはやされた。スペイン人のホセ・マニュエルとイタリア人のセオドラと一緒に進む事になった。ホセは5秒に1回バモスと叫んでいる。ファックよりもポジティブでよかった。セオドラは度々「Are you ok?」と気にかけてくれる。さらには、ベルベル人スタッフとラクダ2匹もついてきてくれるらしい。ベルベル人はバズーカーのようなライトを持っていて辺り一面を明るく照らしてくれる。これなら何とかなるかも。

上の画像:3ステージの地図

下の画像:一緒に歩いたラクダ

 セオドラの兄弟は一時期日本に住んでいたらしい。日本を大好きと言ってくれた。なんだか嬉しい。ホセはラクダにバモスと叫びまくっている。5人と2匹でのそのそ歩いていると午前1時半過ぎにCP5に辿り着いた。また気絶するように眠りについた。

 またスタッフにたたき起こされた。時刻は午前3時半。今回は、韓国人のキムとイギリス人のオルガと一緒に歩くことになった。2人ともとても明るい若い女性で元気を貰った。しばらく進むと、オルガがちょっとトイレと言って、5メートル先でトイレをしている。もはや慣れた。気にしている暇などない。

 暗すぎてすぐに道に迷う。こんなグダグダで制限時間に間に合うだろうか。そんな時、スタッフが乗った車2台がヘッドライトで辺りを照らし、さらに鼓舞する為に爆音でQueenの「Don’t stop me now」をかけてくれた。彼らもこんな真夜中まで業務をこなし、疲れているのに必死にランナーを応援してくれる。とても励まされた。

 ここで一点、補足するとこのレースのスタッフはドクター含め全員ボランティアらしい。皆聖母マリアに見えてきた。

 3時間以上歩いただろうか、辺りが明るくなってきた。一気に暑くなる。気持ち悪い。意識が朦朧とする。でも絶対に歩みを止めてはならない。ただひたすらに歩いた。

 やっとの事でCP5まで辿り着いた。時刻は午前8時。倒れるように寝込んだ。30分でたたき起こされた。

 話は変わるが、サハラマラソンは荷物を背負って走る為軽量化が重要となる。そこで出国前に様々な工夫を施した。例えば、1食分ずつ梱包された食料は同じ食糧で一つのジップロックに詰め替えたり、歯ブラシも柄を切り取って先端のブラシのみに分解したりした。そして、洋服も少しでも軽くなるようにタグを全て切った。何を血迷ったのか、自分のボクサーパンツもカットしティーバックにした。これは後に後悔した。ここでさらに荷物を減らせないか考えてみた。間違いなくティーバックは必要ない。脱ぎ捨てた。

人生は熱狂

 もはや最後の10キロは景色に関する記憶がない。ただ沢山のスタッフが一緒に歩いてくれて応援され続けていた事しか覚えていない。しばらく歩くと、最後尾の集団に追いついた。僕の前を歩いていたのは腕のないフランス人のランナーだ。彼も完走を目指し、一生懸命に一歩一歩前進している。彼の必死な姿に励まされた。

 これまで僕は斜に構えて生きてきた。レース初日も、大の大人が大金を投じて砂漠を走る事がバカバカしく思えた。くだらない。これまで学校の文化祭、体育祭、部活動を斜目に見ていた。合理的でないからだ。体育祭も文化祭も部活も成績評価に影響しない。だから、意味はない。登下校の最中、校庭で顔を歪めながら必死に走り込んでいる部活生をバカらしく思っていた。しかし、そんな事を言ったら人生に意味なんてない。そう、誰かが自身の人生に意味なんて与えてくれないのだ。文化祭も体育祭も部活もサハラマラソンも人生も、自分で意味を見出さなければならない。合理的な人生は合理的なだけだ。楽しくも面白くもない。

    「人生の短さについて」セネカ著

 暇すぎる大学生活で沢山の本を読んだ。自己啓発本、経済学の専門本、純文学、現代小説など色々読んだが、正直どれも中身のない本ばかりだった。しかし、何冊かまともな本もあった。例えば、セネカ著「人生の短さについて」だ。

画像:セネカ

 彼は古代ローマの政治家であり、ストア派の哲学者だ。スペインの騎士階級の裕福な家に生まれ、後にローマで財務官となった。要するに実家は金持ちで自身は官僚だ。絵に描いたようエリート。順風満帆のように思えるが、彼は流刑になっている。流刑になったものの、哲学を探究しながら楽しく過ごしていたそうだ。しかし、流刑から解放され、後の皇帝であるネロの家庭教師を担当する事になり、また政権争いに巻き込まれていく。詳細はwikiで調べて頂きたい。そんな時に穀物管理責任者のパウリヌスに送った手紙がこの著書の原型となっている。僕が心に留めたメッセージは「人生は短く、浪費してはいけないという事」だ。セネカは、人は果てしない欲望や誰かに評価される事に必死で人生を浪費している。人は永遠に生きていられると勘違いしている。しかし、必ず死が訪れる。だから、今日という日を無駄にしてはならない。このように主張している。

 この本を読み、ますます校庭でのランニングがバタらしく思えた。

「生きるという学問」

 しかし、彼の伝えたい事とは異なる解釈をしていた事にこの砂漠で気がついた。彼の主張する浪費とは必ずしも合理的でない事だと言っていない。むしろエリートであるパウリヌスに対して引退を勧めている。彼はこの本で「生きるという学問は自分で学んでいかなければならないという事」を主張している。経済学、政治学、商学などを教えてくれる人はきっといるだろう。しかし、生きるという学問は誰も教えてくれない為、自分自身で学んでいかなければならない。「生きるとういう学問」と向き合わなければならないという主張が本質的な訴えだったと今なら分かる。

画像:セネカの死。詳細はwikiでお願いします。

 今僕は、校庭で走り込みをしていた連中の100倍顔を歪ませ、男梅のような表情で一歩一歩ゴールを目指し進んでいる。しかし、どんな姿であれ一所懸命努力する姿は美しい。そして、そんな人からは元気が貰える。何より一生懸命になった方が自分も楽しいのだ。人生は熱狂だ。スタッフは亀よりも遅い僕たちを何時間も炎天下の中応援してくれた。音楽をかけてくれたり、体温を下げる為に水をかけてくれた。おまけに、コーラまでこっそりくれた。

 感動の完走。85キロ34時間45分で完走した。順位は最後から三番目。だけど、とても誇らしく思う。また、感謝の気持ちで一杯である。自分一人で歩いていたら心が折れていただろう。

 現在総合順位1位のモロッコ選手ラシッド、日本人ランナー、スタッフから祝福された。その後、大会側からコーラが配られた。冷えているだけでもうれしいのに、コーラである。世界で1番美味いコーラと聞いていてが納得である。

画像:大会後の写真。隣は優勝者のラシッド選手

 少し休んだ後、マメの処理をする為にメディカルテントに向かった。重症でない限り、ドクターに頼らず自分で処理しなければならない。しかし、僕は血や針が苦手なので処理は非常に辛かった。四苦八苦している僕を見かねて、イギリス人のドクターが最初の一つは私がやってあげると言ってくれた。とても親切だ。1.5倍くらいに腫れあがった小指を処置してくれた。次から自分でやらなければならない為、じっと観察していたが吐き気とめまいがして一旦外で休んだ。過酷なのはレースだけではないのだ。

 外で深呼吸した後自分で処置してテントに戻った時には既に日が暮れていた。急いで食事をして、寝支度をした。マットレスは捨てた為、横になると砂利で背中が痛いが、疲労の為すぐに眠れた。

上の画像:大会後の写真。3ステージ最後に一緒に歩いてくれたスタッフの方。

下の画像:大会後の写真。3ステージ後にマメを処置して頂いたドクターの方。

ちょっと似ているのは気のせいだろうか。