明石掃部(全登)の最初の主君は宇喜多直家、次に宇喜多秀家、そして最後の主君が豊臣秀頼です。掃部の妻は宇喜多直家の娘であり、従って掃部にとって宇喜多秀家は主君でもあり義理の兄弟でもある訳です。
掃部の行方は大阪の陣が終わってから不明です。私はこの写真の「秘録島原の乱」に書かれているように、秀頼の大阪城脱出劇に大いに関わり、秀頼と共に薩摩に入ったと想像しています。この小説を読んだことで、なおさら脱出劇に関わっていない筈はないと考えるようになりました。
主君であった宇喜多秀家は関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって改易さました。そののち薩摩に逃れ一時薩摩藩によって匿われたことは有名な話です。掃部自身もその時の経緯は十分に知っている筈で、掃部の立場を鑑みた時、この件に関与していなかったと考える方が不自然なくらいです。掃部と島津氏はこの一件でかなり関係が深かったのではないでしょうか。秀頼を島津家のもとに掃部主導のもと、導いたことについては疑う余地はないと考えています。
掃部は敬虔なクリスチャンでもありました。クリスチャンであるが故に秀頼に自害を避けらよう説得したのではないでしょうか。
この「秘録島原の乱」著者の加藤廣氏も、私と同様に掃部が秀頼大阪脱出に大きく関わったと創造し、この小説を書いたに違いありません。
この小説に書かれているように天草四郎は秀頼の子であると言われています。掃部のそばで幼少期から育ち、掃部の影響を大いに受けたとすれば、クリスチャンとなり島原の乱て勇敢に戦ったことは十分頷けます。
やはり命名書内の明は明石掃部(全登)に違いありません❗️
