2024年はオリンピックイヤー、パリ大会だ。開会式ではセーヌ川を選手たちがパレードするのだそうだ。今からわくわくするではないか。準備はこれまでのところ大きな問題なく進められているように見える。

かたや、前回わが東京オリンピック・パラリンピックは相当すったもんだした記憶がある。きわめつけは新型コロナパンデミックのための1年延期であったが、この点はうまくやり遂げたと思う。それよりも大会前後に実にいろいろな問題が噴出した。

そのひとつが、森喜朗元首相の一件であった。覚えておいでだろうか。

組織委員会会長の森氏が「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」などと発言。女性蔑視の批判を浴びて、辞任に追い込まれた。

森氏は女性蔑視の意図はなかったと弁明したが、本心だろう。「あなたは女性差別主義者ですか?」と問えば、「違います」と、当時も今も森氏は100%答えるにちがいない。そして、ほとんどの日本人男性も、この質問に同じ返答をするだろう。

しかし、実態はどうか。世界経済フォーラムによるジェンダーギャップ指数(2023年)で、日本は146か国中125位、主要7か国(G7)では最低である。日本より上位の国にはイスラム教国があり、カースト制のインドでさえ2つ下の127位だ。モヤモヤ感が残るが、これが世界の評価なのだ、残念ながら。

多くの国民は、自分にはジェンダー差別意識はないと思っていて、文化や制度としての構造的な差別の当事者であることに無自覚である。結果として不平等社会が連綿と続く。このちぐはぐさこそが森氏の件の本質ではないだろうか。

男女格差解消は、少子化対策や働き方改革など、わが国がかかえる問題の解決のために取り組むべきである。しかし、無意識の領域で育まれた伝統と文化の結果として、男性優位社会が築かれているのであれば、それは根深く、解決容易ならざるものであろう。

このテーマを医師会報に書くのは他でもない。下関市医師会役員に女性を迎えたいと考えるからである。

わが国が抱える諸々の問題の根っこは、ものごとが男性中心に決定され進められる、日本社会の慣習の過程で生じた部分が小さくないのではないか。そして、医師会も同根ではないだろうか。その解決には女性の力が有効と思うのだ。

令和4年度下関市医師会名簿によると、会員453人中、女性は66人。一方、医師会役員の中に女性はゼロ。これは偏っていると言わざるを得ない。

 何人かの女性会員が裁定委員を務めておられるが、幹部役員(正副会長、理事、監事)に女性が就いてしかるべきだ。会員の女性比率(14.6%)からすれば数人の女性幹部がいておかしくない。

無意識下に育まれた伝統と文化を変えていくのは容易ではない。しかし、組織の構成やルールを変更することは、すぐにでも可能だ。女性役員を迎えるには、女性が働いてもいいと思える環境と運用方法を整えることに、医師会執行部がまず知恵をしぼらなくてはならない。そう考える一人である。

(下関市医師会報、2024年春季号)

 

私が下関医療センター病院長に就任した2018年からお届けしてきた本メッセージは、今回が最後となる。

このシリーズは病院広報誌・レインボウ通信の中の「院長のメッセージ」として、医療従事者を読者に想定して掲載してきたものだ。広報誌を少しでも興味をもって手に取ってもらうために、あれやこれやと執筆してきた。

私は2024年3月をもって院長を退職した。1か月ほどで突然に決定したことだが、循環器内科常勤医の山口大学からの派遣打ち切りに伴う病院内外の混乱が原因にある。これを収拾し、下関の医療を守るためには、私が身を引くことが最善と判断させていただいたというわけだ。

心残りは、下関市で協議中の病院再編のこと。

本欄では過去2回(2021年4月と2023年4月)、アメリカ・ナパバレーのスーパーブルームになぞらえて、病院統合への意気込みを伝えた。在任中の開花はかなわず、最後の水やりに関われないことが残念だ。

しかし、スーパーブルームは間近だろう。下関医療センターを離れても見守ることはできる。美しい花々が下関の地にいっせいに咲き誇る光景を、いつの日か目にすることができると信じている。

 

そのようなわけで、やじろべえの更新はしない。これを最後とする。

 

すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ

夜空のむこうには もう明日が待っている

 

 

下関市医師会の仕事で那覇に行く機会を得た。インドア派でビーチリゾートに興味のない私にとって、沖縄は足が向きにくい地であり、これが最後の訪問となる予感がした。

そうならばと、観光の日程を丸一日とって、太平洋戦争・沖縄戦ゆかりの地を巡ることにした。タクシー運転手が薦めるまま、糸数アブチラガマ、沖縄県平和記念資料館、ひめゆり平和記念資料館、旧海軍司令部壕の4か所を回った。

 多くの民間人が戦闘に巻き込まれ犠牲になった歴史を持つ沖縄は、わが国で特別の存在である。沖縄の人々の苦渋と辛酸には胸が痛む。だから今も多く存在する米軍基地を撤廃すべき、とは考えない、しかしながら。

 戦争というものは、いったん火ぶたが切られてしまえば止めることはむずかしく、やがて戦地は混乱と狂気に支配され、コントロールできなくなる。ウクライナやパレスチナの惨状を見れば明らかだ。

 だからこそ、戦争を起こさないことに英知を注がなくてはならないのだが、そこには抑止という仕組みが不可欠なのである。抑止とは、武力や基地にほかならない。

 平和のために軍備が必要。この大いなる矛盾を人類は未だ克服していない。矛盾を抱えたまま、やりくりしなくてはならない世界に我々は生きている。現実は、理念だけではどうにもならないものなのである。

下関市医師会の仕事で那覇に行く機会を得た。インドア派でビーチリゾートに興味のない私にとって、沖縄は足が向きにくい地であり、これが最後の訪問となる予感がした。

そうならばと、観光の日程を丸一日とって、太平洋戦争・沖縄戦ゆかりの地を巡ることにした。タクシー運転手が薦めるまま、糸数アブチラガマ、沖縄県平和記念資料館、ひめゆり平和記念資料館、旧海軍司令部壕の4か所を回った。

 多くの民間人が戦闘に巻き込まれ犠牲になった歴史を持つ沖縄は、わが国で特別の存在である。沖縄の人々の苦渋と辛酸には胸が痛む。だから今も多く存在する米軍基地を撤廃すべき、とは考えない、しかしながら。

 戦争というものは、いったん火ぶたが切られてしまえば止めることはむずかしく、やがて戦地は混乱と狂気に支配され、コントロールできなくなる。ウクライナやパレスチナの惨状を見れば明らかだ。

 だからこそ、戦争を始めないことに英知を注がなくてはならないのだが、そこには抑止という仕組みが不可欠なのである。抑止とは、武力や基地にほかならない。

 平和のために軍備が必要。この大いなる矛盾を人類は未だ克服していない。矛盾を抱えたまま、やりくりしなくてはならない世界に我々は生きている。現実は、理念だけではどうにもならないものなのである。

デジタルトランスフォーメーションは昨今のトレンドだが、これによって現出する世界はどのようなものだろう。デジタル空間とは、時間と空間を短縮・省略する場だと思う。これは、つまりワープのようなものである。3次元空間を曲げて縮小させ、瞬間的に目的地に到達する、SFに登場するあのテクノロジーだ。

ワープのイメージとしては、スタートレックやスターウォーズの中の映像がうかぶ。まわりの星々の光が線上に伸びて、そのトンネルの中を一瞬に移動する。映画の中では喝采の声が上がるが、実際にはそんなものではないだろう。3次元の存在である人間が時空のゆがみに耐えられるはずがない。

コロナ禍で人流が滞ったために、会議や会合のデジタル化、Web化が一気に普及した。便利なツールであり、仕事や生活の効率化に有用ではあるのだが、それを経験した今、実感することがある。人と人が直接会って触れあうことには、捨てがたい価値があるということだ。

コロナ5類移行後の昨年、地域連携交流会や宴会など、対面式の交流を少しずつ再開した。やってみて、やっぱりよかったと思う。コミュニケーションの成立と深化には、一定の時間と空間が必要であることがよくわかった。人間の能力と感性は、ワープに適応するようにはできていないようだ。

(2024年1月)

11月、COVID19ワクチン接種の案内が届いた。7回目である。これまでは速やかに接種してきたが、今回は逡巡した。副反応のリスクが頭をよぎったからである。

COVID19ワクチン副反応の実態は徐々に明らかになっている。厚労省によると、有害事象報告9137件のうち、ワクチンとの因果関係が認定されたのは4675件(2023年10月16日現在)。中には突然死が含まれ、深部静脈血栓症や心筋炎など恐ろしいものもある。治療法が進歩して死亡率が低下した今、命を賭してまでワクチンで予防する必要があるのかと躊躇したのだ。

副反応で思い起こされるのはHPVワクチンの一件である。有害事象発生は非接種者と差が無いとされ、最近では接種勧奨の論調に傾いているが、もやもやした感情が残る。大規模調査のエビデンスを盲信することにもリスクがある。何不自由なく過ごしていた者が突然生活困難となり、それがワクチン接種後であれば、因果関係を疑うのが自然。何か変だ、と感じるセンスを、臨床にたずさわる者は錆びつかせるべきではない。

で、7回目のワクチンをどうしたかというと、結局接種した。公的病院院長という立場上、接種を推奨するお上の方針に逆らうのもなんだかなと考えたのが理由である。ワクチン接種の決断も多分に社会的要素が大きくなっているのも、アフターコロナということか。

(2023年12月)

今回は書評をひとつ。採り上げるのは、高橋幸春著「だれが修復腎移植をつぶすのか」(東洋経済新報社)。

慢性腎不全患者に、腎臓癌の腎臓から癌を取り除いた腎臓(修復腎)を移植する。この治療を長年行っていた医師グループが広く知れることになったのは2006年のこと。当時、大論争を呼んだ。

この事件をよく覚えているのは、中心的存在の医師・万波誠氏が岡山県出身で山口大学医学部卒という、私の経歴と重なるところが多いことにもよる。

彼らの修復腎移植によって多くの患者が救われた。しかし、いったん修復腎移植は原則禁止に追い込まれる。医学的、倫理的に正当なこの治療をつぶしたのは日本移植学会であるという、著者の主張の是非は、私には断じえないが、私見を以下に述べる。

万波氏は腎臓外科医としてカリスマ的な腕前の持ち主だが、名声や報酬への関心は薄く、仕事の姿勢は患者第一であった。著者の取材では、サンダル履きに、白衣の下は下着姿で現れるという人物。臨床医のひとつの理想像に映る。

しかし、この素朴さ、ナイーブさこそに騒動の根っこがあるのではないか。ありきたりのスタンダードな医療ならば、これでよいだろう。けれども先進的な医療を行うには、彼のスタイルとやり方は内向きすぎた。もっと社会と学会に開かれた形で進められていたならば、修復腎移植は違う形で残ったのではと悔やまれる。

作品中の大島伸一氏(日本移植学会副理事長)の言葉が重い。「医療が医師と患者との間で完結できれば、それでいいという考え方もあるが、それが普遍化されてしまえば、閉ざされた医療集団の中で大変なことが起きかねない。移植は医療集団の中だけでは解決できない問題を含んでいる」

万波誠医師、2022年10月逝去。合掌。

今回は書評をひとつ。採り上げるのは、高橋幸春著「だれが修復腎移植をつぶすのか」(東洋経済新報社)。

慢性腎不全患者に、腎臓癌の腎臓から癌を取り除いた腎臓(修復腎)を移植する。この治療を長年行っていた医師グループが広く知れることになったのは2006年のこと。当時、大論争を呼んだ。

この事件をよく覚えているのは、中心的存在の医師・万波誠氏が岡山県出身で山口大学医学部卒という、私の経歴と重なるところが多いことにもよる。

彼らの修復腎移植によって多くの患者が救われた。しかし、いったん修復腎移植は原則禁止に追い込まれる。医学的、倫理的に正当なこの治療をつぶしたのは日本移植学会であるという、著者の主張の是非は、私には断じえないが、私見を以下に述べる。

万波氏は腎臓外科医としてカリスマ的な腕前の持ち主だが、名声や報酬への関心は薄く、仕事の姿勢は患者第一であった。著者の取材では、サンダル履きに、白衣の下は下着姿で現れるという人物。臨床医のひとつの理想像に映る。

しかし、この素朴さ、ナイーブさこそに騒動の根っこがあるのではないか。ありきたりのスタンダードな医療ならば、これでよいだろう。けれども先進的な医療を行うには、彼のスタイルとやり方は内向きすぎた。もっと社会と学会に開かれた形で進められていたならば、修復腎移植は違う形で残ったのではと悔やまれる。

作品中の大島伸一氏(日本移植学会副理事長)の言葉が重い。「医療が医師と患者との間で完結できれば、それでいいという考え方もあるが、それが普遍化されてしまえば、閉ざされた医療集団の中で大変なことが起きかねない。移植は医療集団の中だけでは解決できない問題を含んでいる」

万波誠医師、2022年10月逝去。合掌。

(2023年11月)

下関は住みよい街だ。

地震や風水害が少ない。年間を通じて寒暖差が小さい。海の幸・山の幸にこと欠かず食材にめぐまれている。新幹線や高速道路へのアクセスがよい。空港へもさほど遠くない。おおむね不満はないのだが、個人的には残念なこともある。ジャズ喫茶がないことだ。

山口大学医学部卒のジャズ好きにはわかるだろうが、山口にはポルシェ、宇部にはボブという老舗のジャズ喫茶がある。うらやましい限りだ。両店とも今も健在なのが救いである。

さる8月某日、湯田温泉・かめ福オンプレイスで開催された山口県医師会主催・臨床研修医交流会に出席した。わざと早めに入り、開宴までの時間をぬって、ポルシェにぷらりと寄った。実に久しぶりに。

その日の夜はライブがあるらしく、セッティングをするミュージシャンたちを眺めながら、昔と変わらぬスピーカから流れるサウンドを楽しむ。1時間ほどの至福の時を過ごしてチェックアウト。すっかり白髪となったママは私の顔を覚えていてくれて、帰り際に短い会話ができた。

「マスターはお元気ですか。」

「亡くなった。10年前。」

ああ、それはそうだろう。それだけの時間が過ぎたのだ。ママの達者とお店の永続を願いながら、晩夏のきびしい暑さを引きずる夕日の下を、交流会会場へと向かった。

(2023年10月)

この7月末をもって下関市保健部長が異動し、保健部は新体制に移った。ほぼ2年ごとの恒例行事ではあるが、このたびの人事はいくぶん重い意味を持つ。保健部長ポストは、下関市では長らく厚労省付き医系技官が出向して務めてきたが、それが途絶えることになったのである。本庁で離職者がたくさん出たためらしい。2024年問題は官僚の世界も例外ではないようだ。

地域医療構想が議論されている下関にとって、本庁とのパイプが細るのは痛い。が、歴代保健部長の下で、病院再編は大きな一歩を踏み出したことをひとまず感謝すべきだろう。これからは彼らが敷いたレールをさらに延伸すべく、現地の我々が汗をかくときだ。

保健部長といえば、あることを思い出す。

ずいぶん前になるが、医系技官でもあるH保健部長と会話したときのこと。さぞかし新聞をよく読み、朝・毎・読・日経といった主要紙は必ず目を通しているのでしょうね、と問うたところ、「新聞は読まない」と返ってきて、仰天した。

彼によると、情報は一次情報が貴重なのであり、それが新聞では得られないとのこと。そればかりか新聞はしばしば真実を伝えていないから、ということらしい。 

ナマの一次情報が容易に手にはいる環境に官僚たちはいるのだろう。そうではない者たちは、情報リテラシーをいっそう磨かなくてはいけないようだ。

(2023年9月)

なかなか消化できない有給休暇をひねり出して向かったのは、7月の琵琶湖周辺。目的地のひとつは長浜市菅浦である。

「菅浦の湖岸集落」は重要文化的景観に指定されている。琵琶湖北端の、険しい山に囲まれた70世帯ほどの小さな集落は実に静かであった。信号機も電車もコンビニも無い。湖岸の水音と、ピーヒョロロと鳴く鳥の声を聴きながら散策した。

この地を有名にしているのは、眼前に広がる琵琶湖と中世の面影が残る景観だけではない。惣村としての歴史的価値である。惣村とは、中世に営まれた自立的・自治的村落共同体のこと。自衛のために部外者の出入りを厳しく監視し、外部との交流を制限する排他的な風土は、近年まで残っていたそうだ。ひっそりとした雰囲気はそのためかと思うのは、旅行客のうがちすぎなのだろうけれど。

各地にあった惣村の中でも菅浦が貴重なのは、「菅浦文書」という、代々の村民が残した記録が現存しているからである。大切に受け継がれたのには、近隣の大浦地区との田地をめぐる200年におよぶ争いが背景にある。産業と資源に乏しい村が争議を戦うには、事実や証拠を正確に記録して示す必要があったというわけだ。

つまりは訴訟に臨むための資料である。リスク管理や医療事故対策のために、日々の記録をカルテに残すことの大切さは今も変わりない。などと、休暇中にも仕事に思いをはせてしまう悲しい性を自嘲しながら、帰路についたのであった。

(2023年8月)

GWが明けて5類移行後、COVID19が落ちついたままの時期の医療関連ニュースを埋めたのは、マイナンバーをめぐる問題であった。続出するトラブルで現場は混乱し、政府は説明に追われた。軽視はできないものの、なんだかデジャブ感がある。いつか見た光景がコロナ禍にもあった。

コロナ禍では、VRS、HER-SYS、G-MIS、COCOAといったデジタルシステムが導入されたが、多くは満足に機能しなかった。デジタルのパワーよりも、国民の行動変容と、医療従事者や行政の献身的労働によって乗り切ったのである。デジタルを使いこなせなかった一因が導入時のトラブルへの過剰な反応にあったと思う。

新技術の導入にトラブルはつきもの。バグを気にし過ぎて、足がすくんでいるうちに、システムは朽ちていく。作業をじゃまする小さな虫は振り払えばよい。トライ&エラーでとにかく前に進み、ブラッシュアップし続ける工程こそが大切だ。マイナンバーもしかり。

デジタル技術は、社会インフラが整っていない国に普及しやすいとか。安定した先進国の方が後塵を拝するというパラドックス。デジタルトランスフォーメーションには、ゆるさと軽さが有利なのかもしれない。

適応は適応能力を締め出す(中公文庫「失敗の本質」より)。過剰な適応は柔軟さとスピードを奪い、その先には日本がしばしばはまりこむ陥穽、ガラパゴス化がある。マイナンバーを見る目はきつすぎず、しなやかに。

(2023年7月)