やっと秋になったと思ったら
はや晩秋
寒気がひた寄ります
タイトルの「木下杢太郎(きのしたもくたろう)・・・」は明治、大正、昭和を生きた作家です。中高年以上の人は名前ぐらいは知っているかもしれません。1885年(M.18)生まれ、1945年(S.20)10月に胃がんのため60歳で亡くなりました。
1907年に与謝野鉄幹が始めた「明星」に北原白秋らとともに参加したり、南蛮ものの戯曲を発表したり、鴎外全集の編纂をしたりしました。戦国時代のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡集を翻訳出版もしました。とても文名の高い人物です。
その杢太郎のもう一つの顔が皮膚科医学者としての太田正雄です。
東大医学部を卒業した後、皮膚科の研究・指導者として愛知医専(現・名古屋大学)、東北大学、東京大学で教授を務め在任中の大戦末期に胃がんが見つかって戦後まもなく亡くなりました。
彼の主要研究テーマのひとつがハンセン病(らい病)でした。
(梅毒やハンセン病は皮膚科医の扱うべき疾病だった。)
そして東大教授ともなれば医学界では相応の影響力を持ったでしょう。
「・・・の i f 」とは、もしも太田正雄が戦後すぐに亡くならずに数年でも長生きしていたら・・・という空想です。
明治40年(1907)に「癩予防法」が制定されて患者の終身隔離(完全隔離)が本格化します。病気である不幸だけでなく、社会的な偏見・差別という不幸も背負います。
皮膚科医太田正雄は医学者として成長するにつれ不合理と感ずるようになりますが有効な手は打てません。特効薬もありませんから。患者たちは困窮している場合が多いので、隔離療養もやむを得ない一面があると考えていたようです。
ただし東大に赴任した1937年(S.12)頃になると、専門医の間ではハンセン病が細菌性の伝染病で、結核や梅毒よりもむしろ感染力の弱い病気であることが共通認識となってきます。
東大や京大をはじめいくつかの大学病院では細々とハンセン病の外来治療が行われて当局もそれを黙認していました。
1940年代に入ると欧米では医学的大エポックが起こりました。病原細菌そのものを殺す抗生物質(抗菌剤)の開発です。日本は戦争中だったので薬剤が入ってくるのはかなり遅れたでしょうが、学術誌等を通じて情報はつかんでいたのではないかと推察します。
梅毒にペニシリン、結核にストレプトマイシン、ハンセン病にプロミン、と戦中戦後に先鞭をつける薬剤が登場します。
プロミンは日本国内でも合成に成功して1948年(S.23)に臨床試験が行われて好成績を得ました。
すなわち、太田をはじめ専門医たちが望んだ「治癒」への道、治せる病気にする確かな光がつかめたのです。
ところが、1953年(S.28)には新たに「らい予防法」が制定されて隔離は強化の方向に向かいました。偏見・差別は緩和どころか助長されたことでしょう。
光田健輔をはじめ隔離療養主張者たちがこの新法制定に力を尽くしました。(光田はハンセン病医療の功績で1951年に文化勲章を受けている)
太田がもう数年でも生きていたら、この流れを黙って見ていただろうか? ・・・というのが、「木下杢太郎の i f 」の意味するところです。
この成り立ちのおかしな「らい予防法」はその後何十年も改められることなく存続して多くの不幸を生みました。
やっと平成の1996年、隔離元患者たちが声を上げることによって、この法律は廃止されました。同時に元患者たちの名誉回復をはかる施策が講じられました。
だからといって、失った時間は取り戻せないし死者はよみがえらないのです。