弥生三月
あなたにはもう春が来ましたか
さて、
現在、「原田直次郎」(1863~1899)という明治時代の洋画家の巡回展が開催されています。
「騎龍観音」という大作で知られる画家です。以前、当ブログでも記事にしました。
( → http://ameblo.jp/atonrt/entry-11125262975.html )
数年前にほんの偶然でこの作品のカラー写真を見た(週刊誌の記事だったと思う)のですが、震災後に、これも偶然に、実物を間近で見る機会がありました。で、息を飲んだ。予想外に大きな作品だったので。
後に少々この画家のことを調べたのですが、なかなか興味深いのでした。
原田は森鴎外との関係で語られることが多いのです。
鴎外のドイツ留学時代の友人であり、小説を書き始めた頃の作品モデル(「うたかたの記」)であり、美術にも深い造詣があったことの証でもあるからです。
<この辺のことは、うまく述べている人が既に多くいます>
幕末明治期(明治元年=1868年)に開国後、海外(欧米)の文物が一気に入ってきますが、美術界でも油絵が本格的に始まって、その中に原田直次郎も登場します。あまり広く知られていないのは早死にしたため活動期間が短く、作品が少ないのも一因と思われます。
1863年(文久3年)に岡山の藩士の子として江戸に生まれ、開明的な家風の中で育ち、始め高橋由一(「鮭」の油絵で有名な洋画第一世代とも呼ぶべき画家)に師事しました。1884年(明治17)にドイツに留学してミュンヘン美術学校で絵画教育を受けます。私費留学ですから、父親に財力があり我が子を信頼していたのでしょう。ミュンヘンの2年半の滞在中に画力はかなり高まって、この時代に描いた作品の一つは近年「重要文化財」(準国宝とも言うべきもの)に指定されています。
原田がドイツに渡った数か月後、森鴎外もドイツに留学します。陸軍軍医としての官費派遣留学でした。鴎外はおもにライプティヒに滞在しますが、精力的に活動して1886年にミュンヘンの原田を訪ねました。二人とも22,23歳の青年です。
(参照: 森鴎外著「独逸日記」 鴎外のドイツ留学体験記)
原田は当地でなかなか好感を持たれたらしく、彼の等身大の肖像画を描く画友がいたり・・・鴎外の回想記に存在が記されていたこの絵は近年になって発見されました・・・、現地妻のような女性がいたり・・・鴎外にもそういう女性がいたようですね・・・、東洋人だからと阻害されたりはしなかったようです。
原田は1887年に、鴎外は翌88年に所期の目的を果たして帰国しました。原田は洋画の技法を習得し、鴎外は軍医官僚としての礎を築いたわけです。
原田の不運は、この頃日本画回帰の気運が起こっていて(フェノロサや岡倉天心たちが思い浮かびますね)、洋画は力を失っていたのです。
美術界や美術愛好家の層はさほど厚くはなかったでしょうから、何が主流でもてはやされるかは重要だったかもしれません。
そこで原田は洋画塾を開いて洋画(油絵)を教え始めます。遠近法と光の明暗で絵画に深みを与える技法です。
1890年に「騎龍観音」を発表した時、観覧者は皆強い印象を受けたらしいのですが、中にはサーカスの絵のようだと酷評する論者もいたりして、鴎外が原田擁護の論陣を張ったりしたこともありました。
その後、黒田清輝がフランス留学から帰国すると(1893年)、彼の明るい油彩の方が好まれるようになってしまい、洋画界でも主流からはずれます。(後に黒田は国立博物館内に専用の記念館ができるほどの有力者になっていきます。)
病身となって神奈川に転地した翌年1899年(明治32)に36歳で亡くなりました。
鴎外は小倉赴任中で、この報に慨嘆したそうです。
印象深いのはこの後の物語です。
彼の死の10年後1909年(明治42)、鴎外たちが原田の遺族の頼みで、直次郎の回顧展を一日だけ開きました。初めての個展です。もうその頃には忘れられかけた存在でしたが、その個展の図録とも言うべきものが翌年限定出版されました。絵の写真はもちろんモノクロでしたがほとんどの作品は網羅され、黒田清輝はじめ多くの関係者が回想を寄せています。
この現物をわたしは見たことがありますが、当時としては、立派な装丁です。(今では復刻版も出版されています。)
そして、その後現在に至るまで散発的に展示されることはあっても、個人画集が出ることも個展が開かれることもありませんでした。
やっと今回、約100年ぶりに原田の回顧展が埼玉を始めとして数か所で開かれることになり、展覧会図録として個人画集が作られました。
発案、実施した方々には敬意を表します。
過小評価か過大評価かは別として、こういう画家がたしかにいたのだということが一般に知られるようになるのは喜ばしいことです。
鴎外は回想して、原田の一生は「寒生涯」(不遇な生涯、ぱっとしない生涯というような意味と思います)であったが、彼の妻や家庭の温かさを知っていたので、必ずしも不幸だったとは思わない、といった意味のことを書いています。
原田直次郎展サイト
http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=327