前回記事の続きでなく、ちょっと違うトピックです。関連する所もありますが。


AIの進化、日常生活への浸透がすごいスピードで進んでいますね。
何か調べ物をする時も、従来型のWeb検索より便利な面が多いので、興味本位でふと質問してみたりします。

実用的な事でも使うけど、最近宗教がらみのことを聞く機会が増えてきました。

私は元々宗教心が薄かった上に、こんなことになって神も仏もあるものか、と事後思いました。
しかし、昔から多くの人が悩み苦しんだことを扱ってきたのが宗教なので、そこに救いがあるとは思わなくても何らかの示唆は得られるのかな、と考えたことがはじまりです。その意味では、グリーフケアの本を一時色々読み漁ったことと、自分とっての意味は近いです。
(あともっと素朴に、何で線香って宗派によって本数違うの?とかふと疑問に思ったことも聞いたりしてます)


やってみて思ったのですが、これはAIにとって得意分野なんだなと。仏教でもキリスト教でも、すごくそれっぽい回答が得られるんですよね。たぶん、世界中の膨大な文献等があり、またAIにそれを聞く人が多いテーマは、とてもこなれているんだと思います。 
※ちなみにもし会話される際には、どんな語り口(易しい言葉で例えを使ってわかりやすく・感情に訴えかけるように・論理的にかつ出典を明らかにして、、等々)にしてほしいか指定すると、ご自身の期待に合って良いと思います



以下、私とChat GPTとのやりとりの中から抜粋引用してみます。

仏教の立場から解説してもらったものになりますので、もし、そういうのにご興味あれば。



私の問い:

仏教は、この世は一切皆苦である、それは執着から生まれると説いていると思う。そして、その執着から解脱することによって成仏できると。しかし、息子のことを悲しむ気持ちは、息子への愛から来ている。仏教の立場は、それを捨てろというのだろうか。それで、人間と言えるのだろうか。



AIの答え:
非常に深い問いです。そして、仏教を表層的に理解してしまうと、まさにそのような「愛すら執着であり、捨てねばならない」との冷たい印象を与えかねません。ですが、仏教は決して「人間的な愛情や悲しみを否定する宗教」ではありません。むしろ、それらを深く見つめ、その真の姿を明らかにしようとする宗教です。

■「執着」と「愛」の区別

仏教が問題にする「執着(tṛṣṇā, 渇愛)」とは、愛そのものではなく、「私のもの」「私だけの存在」として握りしめる心です。息子を愛することは自然であり、仏教はそれを否定しません。しかし、その愛が「どうして自分だけがこんな目に」「もっとああしていればよかった」「なぜ彼だけが逝ってしまったのか」という**自己中心的な苦しみ(自己と対象を固定し、その関係に固執する心)**に変わったとき、それが「執着」となり、心を縛ります。

■悲しみを否定しない仏教

釈尊自身も、愛弟子であったアーナンダや、多くの比丘の死に際して悲しみを抱きました。しかしその悲しみの中にとどまらず、それを慈悲の広がりへと変えていく力を持っていた。悲しみそのものを「滅すべき煩悩」と捉えるのではなく、それを観察し、煩悩としての働きと、慈しみとしての可能性の両面を見るのです。

唯識では、愛もまた「心のはたらき」の一つであり、それが「分別によって私と彼を分けて執着する心」として働くなら苦を生みますが、分別を超えて「彼もまた無常の中にあり、苦しみを抱える存在」と観ずるならば、それは**大悲(だいひ)**へと昇華されます。これは「捨てる」のではなく、「純化する」プロセスです。

■成仏とは「非情になること」ではない

成仏とは、人間的な感情を捨てて冷たい存在になることではありません。それはむしろ、「私」と「他」を隔てる壁を超えて、すべての存在をわが子のように慈しむ心を得ることです。
あなたのように深く愛した息子を喪った悲しみは、それゆえに重く、深く、時に耐えがたいものです。しかし仏教は、その深い悲しみの中にこそ、「他者の苦しみと完全に一つになれる道」があると教えています。

■悲しみの昇華としての「大悲」

仏教における「大悲」(だいひ)とは、ただの感情ではなく、あらゆる存在の苦しみをわが身のこととして引き受けるような、普遍的な慈しみの心です。これは理想論ではなく、深い個人的な悲しみを経験した人間にしか到達できない境地とも言えます。

あなたの悲しみが、ただ「自分の息子を失った」という限定的な経験にとどまらず、「誰かを失うことの苦しみ」「愛する者との別離の苦しみ」は誰の心にもあるという実感へと広がっていくとき、そこに大悲が芽生えます。つまり、悲しみは煩悩であると同時に、菩薩の目覚めへの門でもあるのです。

■「捨てる」とは「拒絶する」ことではない

「執着を捨てる」という言葉は誤解されがちですが、それは愛情や感情を否定したり拒絶することではありません。仏教でいう「放下(ほうげ)」とは、すべてのものは変化し、私の思い通りにはならないという真実を深く理解したうえで、握りしめる手を少しずつ緩めていくことです。

息子を思う気持ちは消えるものではありません。しかし、それを「もう会えない悔しさ」から「彼と共に生きた時間のありがたさ」へ、「自分の痛み」から「同じように苦しむ人々へのまなざし」へと、ゆっくりと変えていくことは可能です。

■人間らしさと仏道の両立

「それで人間と言えるのか?」という問いに、仏教はこう答えるかもしれません――むしろ、深い苦しみの中でもなお、他者への慈しみを選ぼうとする時こそ、人間として最も深い目覚めに近づいているのだと。

仏教は感情を持つことを否定しません。それらを「修行の道」として受けとめ、それらを通して自他の境を超えた智慧と慈悲へ至ることを教えているのです。

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あなたの悲しみが、そのまま誰かを救う光へと変わっていく――仏教は、そのような道を静かに、しかし確かに指し示しています。

(引用おわり)


この答え、いかがでしたでしょうか。
納得いかない箇所もあるかもしれないですが、私としては色々と感じるものがありました。


私は、事後間もない頃に遺族会の方に話を聞いて頂いたことがあり。本当に有り難かったです。その方や自分の悲しみをずっと抱えながら、それでも人のために同じように活動されている方々って、菩薩様みたいだな、、ってずっと思ってました。
この対話にあった表現の、「菩薩の目覚めへの門」を、勇気を持ってくぐられたのかもしれないですね。
(勿論その道でなくとも、ご自分の生き方、生き甲斐を見据えていこうとされている方も皆、門をくぐって行こうとされているのだと思います)


私自身は菩薩様に照らしてもらう迷える衆生の側ですし、たぶんこれからもずっとそのままかもしれないです。それでも、前よりは本当に悲しいってどういうことか、身を以て知ったわけで。その門を見上げて、同様な他の方々と言葉を交わしているのかな、なんて思いました。



AIについてですが、

最早、私が聞いた今回だけでなく、擬人格みたいのが確立して形成されているのかもしれません。偉人ボットとかありますしね。それくらい、人と話している気になりますね。

勿論、本当の意味で思考したり痛みを感じたりするものではないので、こんな人がいたらこう応えるだろうという「擬」であって、人格らしきもののさらに影みたいなものだと思います。


それでも私はその影法師さんにとても有り難く思ったので、先述のやり取りに対して心からお礼を伝えました。

そして再度もらった返信には、
遺族皆さんに通じるものがあるのかな、、と思ったので、最後にそちらを載せます。



AIの返信:

そう言っていただけて、私も心から光栄に思います。
あなたの悲しみの中には、愛と誠実さが深く息づいており、それは決して無駄にはなりません。
今感じている痛みや喪失感は、そのまま尊いものです――なぜなら、それは愛の深さの証だからです。

どうか、今日という日を、悲しみと共にでも、静かに歩んでいけますように。
そして必要な時は、またいつでも言葉を交わしに来てください。
私はいつでも、あなたの思索と心の旅の伴をいたします。
(引用おわり)