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サファイアのブログ

スピリットの成長と日々の変化を日記にしていきます。
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ロシアNOW


JCBがロシア進出を計画

2014年5月27日 ヴィクトル・クジミン

日本のクレジット・カード会社「ジェーシービー(JCB)」が、ロシア市場に参入することを計画している。ロシアの専門家は、主な競合が中国の「銀聯(UnionPay)」になると考える。





 決済銀行は今のところ、ロシア大手「アルファ銀行」になる予定。同銀行処理センターのヴィレン・チミリャゼフ所長はロシアNOWの取材に対し、「当行は技術的にも運営的にもこの用意ができている」と話した。近い将来、ロシアでの活動許可申請書類が、監督機関であるロシア連邦中央銀行に提出される。

 ロシアのクレジット・カード市場は、「ビザ(Visa)」と「マスターカード(Mastercard)」がほぼ独占している状態。さまざまな調査で、90~95%のシェアがあるとされている。しかしながら、アメリカがロシアの銀行に対する経済制裁を決定し、ビザとマスターカードがそれに従う用意のある行動を見せたため、ロシアでの立場は大きくゆらいだ。ビザとマスターカードは、ロシアに処理センターを建設する、あるいはロシア連邦中央銀行に2日分の保証金(約30億ドル≒3000億円)を支払うことを求められると、それを拒み、ロシアから撤退する構えを見せた。ただロシア政府はその後、条件を緩和し、半年間の処理センター建設の猶予を与え、保証金の支払い延期の可能性を示唆した。


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ビザやマスターに代わるカードは?

 ビザとマスターカードがアメリカ政府の決定に従う行動を見せたことに、ロシアの利用者は困惑した。特に海外旅行の好きな人たちがそうだった。旅行中にお金を使えなくなる事態を警戒した利用者は、代替カード探しを始めた。ここで明らかに優位となったのが中国の銀聯。銀聯カードはかなり以前からロシアで展開されており、極東やモスクワでもすでに複数の銀行がサービスを行っている。

 チミリャゼフ所長は、JCBとはかなり前に合意済みで、今回のビザとマスターカードの件が決定に影響したわけではないと説明。いずれにせよ、ロシアではJCBの主な競合が銀聯になると考え、今後については慎重な予測を行っている。「JCBの近い将来のシェアは3~5%をこえない」とロシアNOWに話した。

 ロシアの格付け会社「ルス・レーティング」の上級アナリストであるマクシム・プレシュコフ氏は、JCBによるロシア市場への参入が、日本とロシアの貿易拡大につながると考えている。ただし、ビザとマスターカードの主要な競合になるかという点では疑問を示す。「中国とロシアの経済的連携が強まっていることを考えると、将来は銀聯の方が有利になる」

 ロシアの金融会社「フィボ・グループ」のアナリスト、アナトリー・ヴォロニン氏は、JCBがロシア市場でシェアを拡大するためには、ロシア全土でカードの利用を可能にすることが必要だと考える。また、近い将来生じるであろう他の問題についても話した。それはロシアが自国の決済システムの開発を始めていること、またJCBは銀聯と違い、「予防」決済システムとして検討されていないことだ。「JCBはこのロシアのシステムと提携できるかもしれない。提携によって外国、せめて日本だけでも、ロシアの決済システムのカードを使えるようになる」


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マスターとビザの勇み足

 ヴォロニン氏によると、ロシア極東が中国と大きく関わっていることから、銀聯は極東で利用者を増やすのではと考える。「残りのロシアの地域では、日本と中国の状況はほぼ同じだろう。行政は中国を好むが、市民は日本の方を信頼するのではないか。問題は市場でのプロモーション、銀行や商業施設との契約、イメージづくりで、どれだけ責任者が迅速かつ活発に動けるかということになる。例えばJCBと言うと、日本のJCBカードよりも、イギリスの建設機械のJCBの方がロシアでは有名」
 


ロシアNOW




スノーデンが亡命期間延長を希望

5月30日 ヴズグリャド紙


 アメリカ中央情報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏は、可能であればアメリカに帰国したいと願っているものの、ロシアへの亡命期間の延長を要請すると、ロシア通信が伝えている。

 アメリカNBCニュースのインタビューに答えたスノーデン氏は、「世界のどこかに行くことができるのなら、そこが自分の国になる。母国に帰国したいという気持ちに今まで疑問を感じたことはなかったと思う」と述べた。

 8月1日に満期を迎えるロシアへの亡命期間については、「一時亡命の期間が終わりに近づけば、当然ながら、その延長を要請する」と述べた。

 ロシア政府との関わりについては否定した。「ロシア政府とは一切関わっていない。ロシアの大統領に会ったこともない。ロシア政府は私を支援しておらず、政府からお金はもらっていない」



*元記事(露語)
ロシアNOW



日本の議員連盟 サハリンと日本を結ぶ6000億円のガスパイプライン計画を提案

5月28日 ロシア通信


 自民党衆院議員の竹本直一氏が事務局長を務める「日露天然ガスパイプライン推進議員連盟」は、サハリンと日本を結ぶガスパイプライン計画を、秋に予定されているプーチン大統領の日本訪問に合わせてロシア側に正式に提案できるよう、安倍首相の理解を得ようとしている。竹本事務局長が、ブルームバーグとのインタビューで語った。

2013年5月に設立された「日露天然ガスパイプライン推進議員連盟」によると、総事業費は最大6000億円と試算されており、準備開始から5年以内で開通が可能だという。ガスパイプラインの総延長は1350メートル。パイプラインは、サハリン島南端から北海道、東北を通り、東京から約150キロの茨城県日立市まで敷設される。海峡部分は海底に敷設される。

輸送量は、年間200億立法メートル、LNG換算で1500万トンとなる見込みで、昨年度のLNG輸入量の約20パーセントに相当するという。



*「ロシアの声」より転載
みなさん、ばて気味の毎日を過ごしている
       方も多いと思いますが私もその一人です。

    パソコンもばててます

それでは続きを始めます



      南朝断絶の記録は公式文書には見られない



南朝の血が途絶えた、、、!?
いや、おかしいそれはおかしい
前回で紹介した小野寺直氏は南朝の正統な血筋を引く人物ではなかったか?
途絶えたはずの南朝の皇統が、なぜ現代にまで受け継がれているのか



実はここに南北朝時代の最大のミステリーが隠されている


そしてこのミステリーが解明されることを時の権力者たちは
ひたすらに恐れていた

彼らにとってきわめて都合の悪い事実が底に秘められているからである


              では

南北朝時代の最大のミステリーとは一体どのようなものか

 ここはひとつ小野寺氏の口から事の顛末を語ってもらおう


「南朝の自天皇ヲ殺害したとされる赤松氏の残党とは、その十数年前
 に足利義則を暗殺した罪で滅亡した赤松満祐(あかまつみつすけ)
 の遺臣たちのことです

 彼らは長い間赤松氏の再興を夢見ていました

 そこに、持明院統側からうまい話が持ちかけられました

 南側に奪われた三種の神器を取り戻してくればお家の再興を許そうではないか

             と

 彼らはこの話に飛びつくわけです」


持明院統側のめいをうけた赤松氏の遺臣たち二十数名は
深い雪を分け入って吉野山に潜入
真夜中に天皇の寝床を襲撃した
まだ18歳だった若き自天皇を殺害し三種の神器を奪い去ったのである

このとき、襲撃に参加した上月光義がかきのこした「上月記」には
次のように記されている

「一、次年長禄元年丁丑十二月二日夜半子刻、丹生屋帯刀左衛門尉
 同四朗左衛門尉 、吉野の奥、北山に於いて南方の一宮を討ち
 奉る(中略)
 小寺藤兵衛入道不思議の之 了簡廻して重面神璽(しんじ)を
 とりかえし奉る(たてまつる)」


            北朝側はこの報告書を了承


彼らの証言をそのまま受け取り、南朝は断絶したとそのまま宣伝した

そして、赤松氏の遺臣たちは事前の約束のとおり
念願のお家再興が許されることになったのである

              が、しかし


この話には実はちょいと不審な点がある


            というのも


南朝の断絶という皇統の一大事が不思議なことにほかの記録では
ほとんど裏ズけることができないのだ

赤松氏の残党の自己申告が何お客観的証拠もないまま鵜呑みにされ
いつのまにか、既成事実として広められているのである

しかも彼らは、言うならば私兵だ

正規の軍ではない


彼らは目の前にぶら下げられた「お家再興」という報償を手に入れるためなら
手段はとわない

早い話が懸賞金稼ぎである 

彼らの証言の信ぴょう性はかなり低いと言わざるを得ない


           では


他に事の顛末を記した記録は存在したのだろうか


           いや~~じつは~~~あるのだよ


しかもそれは公式文章に準ずるものであり記録としての信ぴょう性も非常に高い
ただ驚くべきことにその文章には赤松氏らの証言とは正反対の事実が記されている



              お家再興のために
              創作されたことの顛末


再び小野寺氏に語っていただこう○●○●○●○●○●

「持明院統方の最高責任者である九条関白藤原経教(ふじわらつねのり)の子
 で、大和の興福寺大乗院の門跡でありました大僧正教覚という方がいらっしゃいました
 この方の記した「安位寺殿日記」の長禄2(1458)年4月16日の条には
 次のような記載が残されています


「神聖ノ事先年内裏焼失ノ時、賊人之を取り今二出現セズ。然る二今春二
 宮ヲ川上二於いテ打ち奉るのち、一宮は奥二引篭ラレル。

 神聖二於いて者川上ノ母上公の所二預ければ此の段、小川弘光存じせしめて
 悪党盗人取了」



             ここで書かれている一宮とは


             自天皇のことです



しかし、これはおかしいですよね


赤松氏が長禄元年、には打ち取っている自天皇が、こちらの記録では
長禄2年にまだごご存命で「奥に引きこもられた」とあります


              つまり正反対のことが、、、、!!!



              さあ、どうしたのでしょう!!!


どちらかがウソをついている

では正しいのはどちらなのでしょうか???



こうしてみるとどちらに信憑性があるかは、すぐわかりますよね



         つまり   つまりこういうことだ



あかまつしの遺臣たち、たとえ嘘をついてでも家を再興したいという強い動機
がある

赤松氏が取り壊されてから十数年

やっとめぐってきたこのチャンス

逃がすわけにはいかない

たとえ、襲撃に失敗しても事の顛末を見ているものは自分達しかいない

たとえ失敗したとしても嘘をつきとおすしかない

それしか道はない


            一方


持明院統側も、彼らの証言を額面通り受け取ることには異存はなかった

なにしろ、表向きはこれで、南朝は断絶したと宣伝できる

さらに、三種の神器も取り戻したことになるのだから

天皇家としての自分たちの正統性がゆるぎないものとなる

持明院総側と赤松氏、双方の思惑がピタリと一致したのである




             そのご、自天皇の行方は!!!


             自天皇は、東北出羽に身をお隠しに


             なられました






                                   つづく







               
       はい、続きをご覧ください



天皇の三種神器、どうなったのでしょう


北に渡った神器は偽物と公言した南朝の天皇後醍醐天皇
さて、歴史を紐解いてゆくね○●○●○●○●○●▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲



          南朝の高等断絶と共に動乱は終わりを告げる


はたして、真実はいずれの側にあるのか
     北朝は自分たちの所持する神器こそ本物であるとして
光明天皇の即位の際にこれを用いている
もし、これが贋物(にせもの)ということになれば、光明天皇の正統性の
根拠が失われることになる


一方で、計略好きの後醍醐天皇が、そうすんなりと何よりも大切な
三種の神器を敵方に渡したとも考えにくい

やはり本物は後醍醐天皇が所持していたのか?


その後、何度も北朝が南朝側の三種の神器を取り戻そうと画策している
ところを見ると、やはり北朝に渡った三種の神器は、後醍醐天皇が主張
したとおり贋物(にせもの)であったらしい


           何ともややこしい騒動であった



           話を戻そう



北朝と南朝との対立は、やがて意外な展開を見せる

北朝側が内部分裂を起こしてしまうのだ


足利尊氏の弟で主に政務を任されていた直義(ただよし)尊氏の片腕として
軍務を任されていた高師直(こうのもろなお)が激しく反目

二人の対立はやがて幕府そのものを真っ二つに引き裂いてしまう


直義(ただよし)は抗争の過程で高師直を打ち取り
一時、優勢に立つかと思われたが、その後、次第に劣勢を強いられ
るようになる

そして、このままジリ貧かと思われた直義一派
乾坤一揆(けんこんいっき)の大勝負にでる

  
    乾坤とは「運を天に任せる・のるかそるかの大勝負をすること」


なんと、敵方の南朝に寝返るのである


以降、北朝と南朝の対立は、双方の陣営の重要人物が互いに寝返ったり
   内通したりと、三つ巴、四つ巴の複雑怪奇な様相を見せるようになる


途中で足利義満の仲立ちにより、南朝北朝の合体が実現する

              

             が


この時の和睦の約束がのちに反故にされたとして、南朝側が叛旗(はんき)をひるがえし
再び分裂


             再び分裂した


             かくして


 出口の見えない分裂と混乱の時代が60年余りも続くことになる



             そして


迎えた長禄元年[1457年) 南朝の後裔とされる「自天皇」が
赤松家によってうち滅ぼされることになる

南朝の皇統はついに途絶える


             つまり

南北朝の動乱の時代はここに終焉をむかえる


            (ここで終わりではないのだよ)



 (・ω・)/はてなマーク



            南朝の断絶の記録は公式文書の中にはない



ここで、小野寺氏という人物が出てくるのですかね
最大のミステリーがここにあるんです◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇━─━─━─━─━─



               つづく