日本人が起こると怖いよ   すさまじい真実が暴露されました 戦争の傷跡真実は壮絶 | サファイアのブログ

サファイアのブログ

スピリットの成長と日々の変化を日記にしていきます。
                       進化する魂

長春包囲戦

 長春包囲戦とは、中国国民党軍によって守られた長春市(新京)に対して中共軍によって行われた包囲作戦(兵糧攻め)のことである。1947年5月23日から10月19日までの150日間続いた。長春包囲戦は遼瀋戦役の一部であり、長春の陥落は遼瀋戦役の第一段階の終了を意味していた。
 1947年5月23日、中共軍は国民党軍に守られた長春に対して包囲を敷き始め、空輸を停止した。包囲の間、中共軍は林彪によって指揮されていた。林ははじめ、4月に長春を攻撃するつもりであったが包囲が完成した後は彼の注意は他の都市へと移った。林は最終的に10月には長春を陥落させるつもりだった。毛沢東は林に先の都市では5カ月もかからなかったと林を嘲笑する電報を送り、林に錦州を攻めるよう命令した。
 その後錦州陥落の情報が長春に届き、国民党軍の指揮官の鄭洞国は大部分の幹部と共に中共軍に投降した。この国民党軍第60軍および新第7軍の投降によって1947年10月19日に中共軍が長春に入り、150日に及ぶ包囲戦は終了した。鄭洞国らは毛個人の命令で中共軍のポストが与えられた。
 包囲の間、中共軍は役に立つ人以外は一切外に出さず、密輸者は即座に銃殺するほど徹底的に兵糧攻め作戦を行い、その結果市内では餓死者が続出した。最終的な餓死者は33万人に達し、国民党軍が降伏する間の5か月間に50万人だった市内の人口は17万人にまで減少した。共産党の軍隊が市内に初めて入って見た光景は餓死者の死体の山だったという。
 1989年8月、六四天安門事件の2カ月後に張正隆中佐が執筆した雪白血紅という本が「中国人民解放軍出版社」によって出版された。この本によると、長春包囲戦の間に150,000人の一般市民が餓死し、市から脱出しようとした一般人は国民党軍への食糧供給に圧力をかけるために追い返されたと記している。張中佐は中国革命が「コストに見合う価値がない」と考え、林彪軍の技術を毛沢東よりも優れていると称賛した。彼はまた、
中国共産党幹部は国共内戦の間にアヘン取引で私腹を肥やしたと主張した。
楊尚昆は雪白血紅が「共産党を侮辱している」と述べ、1990年の春に雪白血紅を発禁とした。
結論
統計による、強姦された中国人、日本人、満洲人と朝鮮人女性は三十万以上に至った。
内戦のとき、共産党軍に残害された中国人は一億以上にいたったかもしれない。しかし、これは共産党山積の暴行の一部だけです。

89 - 衆 - 本会議 - 3 号(回) 昭和20年11月29日

福家俊一君 
 諸君、私は復員兵の一人として不幸にして生きて還つて參りました、茲に再び本院の議席を汚すに至りまして、復員兵たる私の立場上已むに已まれない氣持の下に、大體四點の質疑を總理大臣、陸海軍大臣、其の他關係諸大臣に質したいと存ずるのであります
 質疑の第三は滿洲、關東州、北鮮、樺太に於ける同胞の救出に關する問題であります、此處には百萬近い軍隊と、百六十萬を超ゆる居留民が、終戰「ラツパ」と共にどう云ふ生活に陷つて居るかと云ふことは、私が説明するまでもなく政府が一番能く御存じの筈であります、現に恐怖に戰慄き、饑餓と寒さに喘いで居るに拘らず、今にして其の救援の手が伸びず、復員の時期に對しても見透しが付かないと云ふ實情であるのでありますか、若し斯かる事實であるならば、政府の怠慢甚だしいと言ふべきであります(拍手)
 我が方に於きましては「マッカーサー」元帥自らが米國民に放送せられたる如く一君の下萬民擧げて「ポツダム」宣言の忠實なる履行に專念し、武裝解除も時短日の間に完了し、而も國内の政治、經濟、社會各界に亙る民主主義化の努力も、今や着々其の成果を擧げつつあると申されて居りますが、此の復員問題を解決せずして何の民主主義かと私は言ひたいのであります(拍手)
 國運を賭して戰つた將兵、千里に使ひした軍屬竝に其の居留民にして、尚ほ異境の空に取殘されて何等の恩典に浴さないやうでは、國内の建直りが果して出來るでせうか、成程「アメリカ」軍占領下に於ける武裝解除後の我が將兵に對する待遇を聞きますと、其の道義的にして好意ある處置に對しては我我國民として洵に感謝して居ります、而して復員軍隊は速かに其の家庭に歸らしめ、決して日本人を奴隸の境地に置かないと言明され、著々と復員されつつありますに拘らず、「ソ」聯軍の占領下にあつては果してどうでありませう、我が復員軍隊は今尚ほ現地に抑留された上、苦役の鞭に呻吟し、寒さと飢ゑに迫られて居るのです、又
在留同胞は暴行、掠奪、強姦等、聞くも怖しき目に遭はされ、奴隷にも劣る取扱ひを受けつつあるのである、
如何に敗戰したとは云へ、民族的誇りを持つ私共日本人としては、果して耐え得られるでせうか、現地を脱して歸還した同胞の語る所に依りますと、錦州では二十幾名の同胞が生埋めにせられ、奉天、安東、鳳凰城に於ては、相當の曝し首を見たと云ふことであります、又
北鮮の端川地區に於ては最も掠奪強姦が酷く、
いたいけな十二三歳の少女まで犯されるに至り、聞くも哀れな話でありますが、
其の母や或は未亡人は申合せて自ら慰安婦人會を組織して、どうか私共は「ソ」聯兵の犧牲になりますから、皆さんは一刻も速く此の娘を連れて逃げ伸びて下さいと、此の慘劇の中に母は娘の犠牲となつて敢然と殘留して居ると云ふことであります、
洵に涙なくしては聞けぬ暗黒地獄の出來事としか想像出來ませぬ、果して斯かる非合法な、非人道的鬼畜行爲が許されるでせうか、私は「ポツダム」宣言は人權尊重の上に立つて、民主的にして而も道義的世界の建直しを目指して居るのだと思ひます(拍手) 
 私は敢て此の場合「ポツダム」宣言を批判したくはありませぬが、日本は既に此の宣言を忠實に履行して居るに拘らず、「ソ」聯軍の占領下にあつては、此の精神は蹂躙せられ、或は泥濘の中に踏み躙られて居るのではないでせうか、此の事實に對して一體政府はどう御考へになつて居られますか、國際正義に照し、且又人道の上からも、一日と雖も看過すべからざる問題であると存じます、尤も政府では「スエーデン」を通じ「ソ」聯に對し、是が解決方を交渉したと聞及んで居ります、然るに「ソ」聯は終戰後利益代表國たる資格が消滅して居るとの理由で、我が方の申出を取合はぬと拒絶されて居るのみならず、日本人の生命財産の保障は、一方的に之を處理する旨の囘答に接して居ると云ふことでありまするが、此の眞僞は事實でありますかどうか、政府は斯く申せば必ず外交上何等の機能を有せざる我が國の現状では、如何ともなすべき方法がないと御答へになると思ひますが、併し是は餘りにも官僚的な言ひ逃れであつて、責任轉化論に過ぎませぬ、斯樣な説明では全國民が承服致し兼ねると私は信じます(拍手)
 宜しく政府は此の問題解決に對し、今後如何なる方針を持つて居るか、七千萬同胞に對し責任ある答辯をすべきであります、先づ其の所見を伺ひたいのであります

「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑

夜明けの舞台裏    中保与作(元京城日報主筆)
(終戦とともに)朝鮮人は、全鮮各地で、公然と日本の諸機関や日本人の財産の接収を始めだした。
京城では、総督府に近い中心の鍾路をはじめ幾つもの警察署が朝鮮人の手に帰した。ピストルを狙って襲撃する者もある。警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。ほとんど、どの駐在所からも巡査が姿を消してしまった。

駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、大勢で襲撃されるので2人や3人では守っていられなくなったのである。

このように警察が力を失い出した矢先、安在鴻の放送があった(朝鮮の建国準備委員会が政治の実権を握ったかのように放送した)ので日本人に日頃恨みを抱く者や泥棒は、この時とばかり、目ぼしい日本人の家へ押しかけた。
泥棒はたいていピストルか刃物を持っているので、街々にはあちらでも、こちらでも、たまげるような悲鳴が起こった。「助けて!」と呼んでも呼んでも、誰も表へ出るものがなかった。日本人はもう互いに助け合わないと知ると、今度は3人、5人と組む集団強盗が横行した。
(中略)
(米軍進駐後、筆者の勤める京城日報社は米軍の管理下に置かれることになった)米軍政府は間もなく朝鮮人李相哲を管理人に指名した。江原道で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、米軍政長官の側近にいる知り合いの旧宣教師が斡旋したからであると言われた。「あなた方は、運悪く、とんでもない悪党に、管理されることになりましたね」と李の甥にあたる、毎日申報幹部が私たちに同情した。(中略)当時の米軍政庁は、英語さえできれば、どんな朝鮮人でも重用し、一々その言うことに従った。一般の朝鮮人はそれを「通訳政治」だといってあざ笑った。
英語を話したり、米軍に好意を寄せるものは、たいてい極端な反日家である。これらの人々は、何事につけ、日本人を極悪非道の人間に印象づけようとし、朝鮮にある日本人の財産は全て搾取し略奪したものであると言い続けたのである。
(中略)
李管理人は、1年前からの伝票を取り出して一々収支を調べさせ備え付けの写真機などの比較的値段の高いものはもちろん、1冊の書物、紙片1枚に至るまで猜疑の目を光らして点検した。足りないと思うものについては一々弁償を要求した。私ども社長、副社長に対する解散手当ても前年度の賞与も不当であるといって返還を迫った。日本人社員が引揚げ後、生活の道を得るまで、補助機関として設けた京日互助会の基金50万円も取上げてしまった。私はそれをよこせという要求を受けたとき、「それは、互助会のものである。君は互助会までも管理しに来ているのではない」と拒んだが、私の留守に米兵を連れてきて金庫を開けさせ、それをどこかへ持って行ってしまった。
当時の50万円といえば、300倍に計算しても今の1億5千万円である。
李は、彼が雇い入れた朝鮮人たちを使って、「日本人の幹部連は隠していた50万円を、それぞれ山分けしてふところに入れた」と宣伝させた。どの団体も、どの会社も多かれ少なかれこれに似た災難にあったのである。中には帳尻が不明だというだけの理由で投獄されるものさえあった。自宅の畳の下や、便所の上に2、3万円の金を隠していたということで拘引される者もあった。本社の地方部長なども北緯38度線以北から南下する支局員たちの給料や解散手当てを預かっていたのをみんな取上げられてしまった。猜疑心の深い李は刑事を使ってまで私たちを脅迫した。20代のその刑事は「きょうは、留置場入りの用意をして来るように」と家へ電話したこともあった。
(中略)
ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。
(中略)
日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。
米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。
日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。
言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。知ってか知らずか、

家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。

U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。
〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。
(中略)
 私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。機関手や車掌が3万円、5万円というチップ要求し、誰もそれを出さぬと、「機関車が故障を起こした」といって山中や野原で、ガタンと車を停めたこともあった。
(中略)
 引揚げ列車が出る竜山駅へ、くる日もくる日も、延々と長蛇の列が続いている。ひとり者のBのお婆さんが、竜山へ出かけたばかりなのにあわただしく帰って来て、ガラン洞の我が家で泣いていたこともあった。訪ねてゆくと、「私はもう、国へ帰れない」と言って、身もだえしているのである。「婆さんしばらく、あんたも帰るんですか」となれなれしく近寄る若い男があるので、「ながながお世話さまで」と挨拶すると、
「その荷物、私が担いで上げましょう」と親切気に取り上げて、その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。
もしや元の家へ戻ってはいはせぬかと来てはみたが、「もう誰もいやしません」と、身寄りのないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。
駅前で用を足している間に、最後の財産であるトランクを盗まれてしまった人もあった。血まなこになって走り回ると、2、3町先の路傍でそれを開いて、セリ売りを始めている男がある。「それは僕のものだ」と言い寄ると、その男は「ナニッ!なんの証拠があって、そんな言い掛かりをつけるのか」とつかみ掛かるのであった。群集が、「なんだ、なんだ」と取り囲むと、打つ、殴る、蹴るの狼藉。――たちまち、顔も手も血と泥にまみれて動かなくなってしまった。
 路傍では、ツギのあたったあわせや、赤子のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」と思った。それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事に持って帰ろうとした人には、どんなに深刻な痛手であろうと思うと、とめ度もなく涙が溢れ出るのであった。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2114/jijisama/rekisi2.htm#hikiage
http://megalodon.jp/2013-0519-2038-31/www.geocities.co.jp/WallStreet/2114/jijisama/rekisi2.htm

「雨森芳洲」 上垣外憲一 1989年 中公新書

新井白石の朝鮮観 (江戸中期の儒学者・政治家 1657~1725)

 日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んでみると、敵情探索を目的としている。これは恩義を忘れたものである。
大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。
「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然」
(朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。狢(むじな=タヌキの異称)の類の風俗は、天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。
 白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の文人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。
「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル (生田滋訳 1969年 平凡社東洋文庫)
(ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き、1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた。)
この国民の誠実、不誠実および勇気について
彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。
「新・韓国風土記 第1巻」 ソウル市根の深い木社編 安宇植訳 1989年 読売新聞社
両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。
さらには、そうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。
常民階級が徳目に背を向け… したがって彼らは、ほんのわずかでもおのれの利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵倒したり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
 暮らし向きの楽な人々は一軒また一軒と場所を変えて時間をつぶす。政治については危険すぎるので話題にしないが、宮廷や市内のゴシップや著名人をさかなにした冷やかしを受け売りしたり、ニュースを仕入れたり、披露したり、でっち上げたりする。(中略)庶民は通りや家の前で宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところぐあいなど、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。
耳に入れたことを嘘と誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語の国なのである。
朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す。
ノース・チャイナ・ヘラルド紙 1905年5月5日号 (「外国新聞に見る日本3」 1992年 毎日コミニュケーションズ)
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。
また、この半島ほどなんの理由もなくだましたり、だまされたりすることが広く行なわれている国もない。

そして、これまで朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。

しかし、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れ、これには気づかなくなっており、他人の欠点ばかりが見えるのだ。 (エッソン・サード記者)
「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
(学者である両班は)礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことにはことごとく答えられなければならないわけですが、ただ、わざと騙そうとするのではありませんが、
その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。
自分が正しい場合がほとんどないにもかかわらず悪びれる様子がほとんどない。
もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は礼を守り抜くために必死の努力をするんです。なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身思えるまでは、決して投げ出したりはしません。
「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫)

韓国人は、遺伝と教育とによって、その大部分が、おおげさな物言いをする人間か厚顔無恥の嘘つきかである。

それで、日本人の非行についての彼らの陳述は、検証なしに、これを受け入れることはできない。(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用している)
「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房
〔佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた(1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件)〕
誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「原コリアン」に会ったのである。なぜ「原コリアン」かというと、彼は正直に自分の感情を表明する。そして、
自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。
しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる… 
次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。
看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。
彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。
その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまう
のだが、これらのことは筆者にとってはまさに驚きの連続であった。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2114/jijisama/rekisi2.htm#hikiage


            私の意見などちっぽけですが、大きな傷を背負い生きている
            人々に感謝し亡くなられた方々には私たちのために犠牲になって
            くださった、この歴史を、、、、、、。