日本人を怒らせたばかりに出るわ出るわ  つづきます | サファイアのブログ

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スピリットの成長と日々の変化を日記にしていきます。
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強制連行は徴用の歪曲  日本にいる朝鮮人は100%本人の意思で来日

1938年 国家総動員法 (国民徴用令は1939年)が成立
→ 日本、台湾  15~45歳までの男子、16~25歳までの女子が徴用
→ 朝鮮    徴用の代わりに、内地の企業による求人活動が許可される
1942年 人手不足により、「官斡旋」による募集が始まる
 → 日本、台湾   既に徴用済み
 → 朝鮮    日本企業への就職が斡旋される。しかし、雇用先を辞めても罰則なし。
1944年 朝鮮に初めて徴用令発布 (実質、六ヶ月間で終了)
 → 日本、台湾   既に徴用済み
 → 朝鮮  ★本人の意志を優先した★為、達成率は79%に留まる。
         → 徴用で来日し、戦後残留した朝鮮人はわずか245 人 (外務省公式発表、朝日新聞報道済)
参考)「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社 http://resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm

在日の正体    米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授

 戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。
大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。
戦後も在日ネットワークを頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。
 在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。
今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。
日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。
http://resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm

目を覆う画像がありますので、心の準備をしてからどうぞ
http://megalodon.jp/2013-0430-0029-31/www.destroy-china.jp/index55j.htm

満州はソ連軍に蹂躙された

 ソビエト連邦にしろ中華人民共和国にしろ、共産主義が残したものは強姦と虐殺と食人だけです。1945年8月8日、ソ連は広島の原爆のうちに、日本と満洲国に宣戦したとんたに満洲に侵入した。15日の天皇陛下の玉音放送から数日の後、ソ連軍が満州の首都入城となった。ソ連軍は新京市内に入れず、日本軍と交戦していない部隊を入城させたというソ連司令部の話しだったが、
虐殺、強姦、掠奪は日常茶飯事だった。
家に押し入ってきたソ連兵が父母の面前で娘をレイプしようとする。それを止めに入った父親に“ダダダダッ”とマンドリン(ソ連製自動小銃)が火を噴く。母親も標的にされる―戦争の悲惨な姿が、一夜にして崩壊した満州帝国の首都で、絶え間なく展開されたのだった。
これから、満州では、大通りの真ん中で、日本人、満洲人と中国人女性がソ連兵に 強姦されたり、収容所で、多くの人々の前で強姦された、女性も居ました。
 現在は人口約700万人といわれ、ハルビン市、大連市と並ぶ満州屈指の大都市、瀋陽市にソ連軍が侵攻してきたのは8月19日である。
すぐにハルビン市、長春市と全く同様にソ連軍兵士たちのレイプ(強姦)凶暴・暴行・殺戮・略奪が始まった。
 中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書の『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』(朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 三五館 1993年8月発行)第223頁~第229頁からで次のように述べている。
「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、
同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」
 満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、得た金を着服した。夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。
 瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのをよく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、それでも軍紀違反者が後を絶たない。
 ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から訴えを受けた。
 しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。この回答に八路軍は屈しなければならなく、中共はソ連の傀儡政権ですからだろう!

ソ連軍は中共軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦、略奪および虐殺の行為が始まった

 その後、中共はソ連に媚びへつらうために、ソ連軍の命令を従り、ソ連の「義挙」を賛成した。
彼らはソ連軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦しまくっていた。
 日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、
北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。
北鮮にはいってきたソ連軍と中共軍は、満州におけると同様、
略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍と中共軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
 満州奥地から引き揚げて来た人、ソ連軍と中共軍の侵攻と引き揚げが重なった人たちは悲惨だった。
ソ連兵、中共軍や現地の中国人は無抵抗の日本の民間人に掠奪と暴行の限りを加えた。
集団は散り散りになり、飢えと疾病で多くの人の命が失われた。
中でも日本人婦女子の惨状は想像を絶するものがあった。
特にソ連兵は日本人の女性とみれば見さかいなく襲いかかった。殆どが銃口を突きつけての強姦、輪姦であり、その実態についての記録は数多く残されている。
ソ連兵は満州だけでなく欧州においても、現地の住民を対象にしたレイプで性欲を処理するのが慣行であった。
ようやく満州から陸路朝鮮に入り、半島を南下するに際し

ここで再び現地人男性による凌辱が繰り返されたのである。

不法妊娠者の数から医師の試算するところでは、被害者は少女から中年婦人に至るまで約5,000人に及んだと推定される。

■ 福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言
 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍と中共軍から暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
 「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。
 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
 現在特別養護老人ホームがある同保養所跡には八一年、福岡市の医師が石碑を建立。以来、ホーム側が毎年、供養を続けている。証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は「万感迫るものを感じた。ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず」と指摘。
 供養を主催した一人の済生会二日市病院の水田耕二院長らは「悲惨な歴史を明らかにすることが、生まれてこなかった子供たちのためにもなる」として、旧二日市保養所の実態解明を続けることにしている。

尼港(ニコライエフスク港)事件について

(前略)ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。

この惨殺には、中国人と朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。

以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。
 また誌面に限りがあるので書ききれないが、

満州から引き上げてくる無防備な日本開拓団の人々に対し、

ロシア兵も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も暴虐の限りを尽くしている。

後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、
賄賂や婦女暴行は日常茶飯事だったという。
筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。
 日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」と言うのが良くあるが、
これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺されたのである。
この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所をその目で見たと書いている(原文には犠牲者の名前も書いてある)。

中共兵に強姦された女性

「敗戦の翌年の2月、ソ連兵が日本軍の捕虜を連れて引き上げると、入れ代わりに国民党が共産軍と戦うために入ってきて、またしても戦争です。大勢の日本女性が殴られ、仕方なく妓女にされました。私は国民党軍の師団長に脅迫されてとらわれの身となり、乱暴されました。」
(「女たちの太平洋戦争Ⅰ」 朝日新聞社)
「列車は臨時停車し、そのたびに八路軍兵士が復員者の携帯している貴重品などを強奪する。・・・そして、彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、・・・
連行されたところは元の天津で、『妓女戸』と呼ばれる慰安所であった。彼女たちはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた・」
(富沢繁編「女たちの戦争よもやま物語」光人社)
「応城でのこと、一人の慰安婦が新四軍(中共軍)に拉致された。だが、運よく、日本憲兵隊で抑留していた新四軍の中隊長の妹と、その慰安婦を交換する交渉がまとまり、新溝かどこかの橋の上で相互に引き渡された。その折、慰安婦の話によると、向こう側でもやはり慰安婦をやらされたそうである。中共兵は行列を作って順番を待っているので一体、何人やらされるのかと勘定したが、30人ほど教えて面倒臭くなってよしたそうだ。中共兵は切符制なのに比べて、日本兵の場合はお金がないと遊べないから可哀想だと思ったという」
(長沢健一著「漢口慰安所」)