色々あったけど、40歳近くまで生きてこれました。 -33ページ目

色々あったけど、40歳近くまで生きてこれました。

 横浜市北部、青葉区、都筑区、緑区に不動産賃貸・管理を担当に地域密着で毎日走りまわっています。都筑区生まれ、緑区育ち、青葉区の高校卒業、青葉区の会社に働いて、田園都市線市ヶ尾駅で不動産業を営んで、自宅は緑区です。生粋の横浜北部人間です。
 

 
 私は自分の体が健康だと信じていました。
 
 昨年末から、難聴、吐き気、眩暈などの症状が出ました。病院が嫌いなのと、症状が落ち着いてたりしてたので放置していました。(たぶん二日酔いの延長程度に考えていました。)

 最近、凄い吐き気と眩暈の為,イヤイヤ病院に行きました。

 父親が37歳の時に脳梗塞になったため、脳だろうと考え脳神経外科を受診しました。採血をして、レントゲンとCTスキャンで頭を撮影され、勝負は写真判定に持ち込まれました。
 「父親も脳梗塞になったのでその線ですよね?」「まだ倒れてないから薬で良くなるんですよね!?」と一方的に要求しました。

 私と同年代位の医師は「血圧が少し高いけど、脳は問題ないです。あと尿酸値が高いです。」との事。「あっ、あと勝手に喋りすぎ」と捨て台詞。

 私はすっかり安心して、小躍りをしながら帰宅しました。

 数日後、区役所に書類を取りに行った際、いきなり耳がステレオからモノラルになってしまい、激しい眩暈に襲われました。フラフラではなく、世界が回転している感じでした。「こりゃ、切れた。」と思い家人と息子に永訣の言葉を残さなかった事を後悔していました。

 立つ事もできずに、ベンチに座り込む事数分(だったと思う。)だんだん眩暈もなくなり、音もステレオに戻りました。しかし、なんだか恐ろしくなり、今度は同じ病院の内科を受診しましたが、「疲れではないでしょうか?」と言われ、一応、耳鼻科を受診することを勧められました。

 後日近くの耳鼻科に行きました。
 今までの症状をありのまま話し聴力の検査をしました。医師が検査結果をみると、「あーここでは診察はできませんねー。紹介状を書くので〇〇病院で診てもらって下さい。」

 この時にものすごいイヤな予感がしました。

 怖くなってすぐに、紹介状に書かれた病院に向かいました。受付を済ませ順番を呼ばれると、最初に病院に行った時の勢いは無く、白洲に引き出された罪人のように神妙にしました。

 医師は紹介状を読むと、では検査しましょうと、看護婦同伴で色々な検査をしました。検査が終わり、再び医師の元に戻ると、今度は裁判で判決を聞くように背筋を伸ばして罪状じゃなかった、病名を聞きました。「〇〇病だと思われます。」と聞いた事の無い病名を告げられました。「とりあえず薬だすから来週きてねー」との事、「命に関わる病気ですか?」と聞くと「死なないからダイジョーブです。」
 この「ダイジョーブ」に何回も騙されいる私は会計を済ますと、車に戻りスマホのバッテリーが無くなるまで調べました。幸い病気は完成していなく「ホッ」としました。

 とりあえず薬を貰って調子はいいのですが、120歳まで生きると勝手に決めているので将来が少し不安です。

 分っていても病気になると、健康の大切さがよく分ります。皆様もご自愛下さい。


 
 何故か私が以前所属していたバスケ部に不思議な中学生の集団でした。

 ナガクラ君は視力が低く、小学生の時よりメガネを常用していました。中学校3年生の時に事件は起こりました。

 私は一応スタメンで試合に出ていました。試合が優勢に進み、得点差が開き、スタメン総交代になり、ナガクラ君が試合に出ました。

 ナガクラ君はコートに一例をして闘志を燃やしていました。頼もしい姿でした。

 敵陣のサイドコートからナガクラ君がパスを受け取ると、何故か自陣のコートに向かってドリブルをしていきました。チームメイトが「逆だぁ、逆、逆!」声を掛けるも緊張の為、聞こえなかったのかどうか分かりませんが、自陣のゴールにレイアップシュートをしました。「あーっ」て騒ぐも、シュートは外れました。そこで私も「ナガクラ!逆、逆だぞ、!」と叫ぶも、ナガクラ君は自らリバウンドをとり、ジャンプシュートを決めました。

 私が初めて見たバスケのオウンゴールでした。

 
 当然、監督は激怒してタイムアウトを取りました。すでに爆笑寸前の私は笑いを堪える為に唇をおもっきり噛んでいました。 

 「集合!!」と監督が号令をかけると、チームメイトは今後起こるであろう悲劇を予想しながらも駆け寄ってきました。自体を把握してないナガクラ君も得点して嬉しさであろうか、ドヤ顔で駆け寄ってきました。

 円陣に加わり、ナガクラ君はメガネを中指で、グイッと押し上げた瞬間に火の出るようなビンタが飛びました。メガネはフレームからレンズが外れカラン、カランと体育館にひびき渡りました。

 私はその瞬間に世界が終わってしまえばいいと思いました。

 またもや、限界を超え、爆笑してしまいました。当然、武道派で有名の監督はナガクラ君をビンタを返したその手で私もビンタされました。

 「何が可笑しい!?」と監督は私をビンタの雨を浴びせながらも監督も笑っていました。

 その後、ナガクラ君は交代になり、私は試合が終わるまで外周を指示されました。顔はとても痛かったのですが、そのお陰で、外で走りながら爆笑できました。

 試合が終わり、ナガクラ君は私を呼びに来てくれました。

「あぱん(私のあだ名)・・・・ごめん」とひしゃげたフレームにレンズが1枚外れたメガネをかけたナガクラ君を見て再び私は爆笑してぶっ倒れてしまいました。

 
 色々辛く、厳しく色々ありましたが、バスケ部時代は、私の人生にとって大きな財産です。

 それにしてもナガクラ君はいい男でした。 





 



 先日、図書館に行きました。別に勉強や読書を目的に行った訳では無く、ただ、お昼ご飯の後、便意をもようしたので、図書館のトイレを借りました。
 トイレは入り口の受付の所か入るので、小心者の私は「ただ、トイレを借りにきたのではありませんよ。」感を出す為に、なるべく難しそうな顔を作って「うーん」と唸りながら「郷土史」のコーナーで調べものしているふりをしていました。

 本を出しては、一瞥して戻して行くうちに一冊の資料を手にしました。

 みどり新聞社発行の「緑区の20年」と書かれた、地元新聞のバックナンバー全集でした。私が生まれる前の昭和50年頃から、バブル崩壊後間もない、平成2年までのバックナンバーです。

 その後の記事も気になるので調べたら、どうやら、同新聞社は無くなってしまったようです。

 当時の風物が良く解ります。特に興味深かったのが、不動産バブルの狂乱の記事です。「公団の新築マンションに倍率680倍!!」「不動産ローン超低金利5%」「マンション平均価格、1か月毎に100万円の上昇」等などの見出しや、広告欄がほぼ不動産情報で占められており、今では信じられない価格で売られているのです。

 最後の方には新聞社自らかが不動産業の免許を取得して広告を出したのには噴飯物でした。(不動産事業に参入したため、新聞社は無くなってしまったと個人的に考えています。)

 バックナンバーを読みあさり、気が付いたら閉演時間になっていました。あまりにも面白いので借りて帰ろうかと思ったら「館内専用・貸出禁止」のシールが貼ってありました。

 今度の休みは正々堂々と図書館に入りたいと思います。