私たちの教団が毎月発行している『大乗』の
ある随筆の中に、定量と定性についてのお話が
載せてありました。
定量とは、数値とか量的な側面から物事を捉え、
定性(ていせい)は、質的側面を捉えるということです。
そのモノの価値とか意義は、形や大きさよりも、
その性質や中身の方で評価するという、
一般的には、その中身が問題になるのですが。
どうも、私たちは、「有無」「多少」「大小」「貧富」など、
結構、定量的な価値観にとらわれているような気がします。
また、少し場面は違いますが、
内閣支持率とか、視聴率とか、それだけで、
いい内閣とか、いい番組ということにはならないようです。
親鸞は、先人の竜樹の言葉から、「有無をはなれよ」といいます。
「有」に執着すると、「●●しても大丈夫?」、「●●していないが、
大丈夫?」「こうしてないと、不安で」ということになるのです。
そんな執着が、迷信や俗信を生むのです。
逆に「無」に執着すると、目に見えない世界は、絶対に
意味を持たない存在になります。
「死んだらお終い」
でも、身近な人は、そうはいきません。
ある住職さんが、葬儀を終えて、火葬場まで
行かれました。そこで、別のお葬式の一団と、
行き合わせになられました。
棺が霊柩車から降ろされようとしたとき、
突然女の子の声が耳に飛び込んできたのです。
「おじいちゃん、これからどうなるの?」
・・・・・・・・・・・・・全身が耳になりました。
さあ、このお母さんは、どう答えるのだろう。
「おじいちゃんは、灰になるの」
“こんなに長生きするんじゃなかった”
そんな人生では、寂びしすぎます。
少しでも多くの方に読んでいただきたいので、
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