- 遊雲さん父さん―小児がんを生きたわが子との対話/有国 智光
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前回に引き続いて、
作者は、こう続けます。
死は虚無などでは決してない。死ぬのが人間である以上、
これまでの人間の全歴史に照らして、死は断じて虚無などではない。
死に直面して自己と出会うならば、少しは気が利いている。
しかし出会うのがやや遅すぎるか。
自己ではまだ答えにはならない。
自己とは何なのか。大切な問いではあるけれど、考えるのならば
元気な間に考えておかないと、間に合わないだろう。
それに、自己は「死ぬ」ことと相容れにくい。死ぬことが課題と
なっている以上、自己が死ぬという矛盾は、解きようのない謎
として立ちふさがってくるはずだ。
解けない謎を抱えたままでは、心安らかにというのとは遠い。
同じことなら、死に直面して、仏と出会おう。ただし、どんな仏と
出会うかは少し注意しておく必要がある。
もし仏が「完成された自己」のようなイメージだとすれば、自己と
出会うのと、さほど変わらない。いざ死に直面して出会いたいのは、
「いのち」としての仏だ。
ある方が、「死にたくない」というのは「永遠のいのちと出会いたい」
という意味の叫びだ、とおっしゃっていた。
いのちの仏と出会えれば、だから「死にたくない」という願いは
満たされる。「死にたくない」が実現されて、安心して死んでいける。
だから父さんは、自分が死ぬのはなんともない。
しかしやはり───まだ遊雲さんが死ぬのは怖かった。
“いのち”あるものは、すべて、永遠に、
生死(しょうじ)をくりかえす。
生も死も、「当たり前」の現象にすぎない。
また、生も死も、そのままでは“迷い”だから、
生死を超えた、あるいは、生死全体を包んでいる
“おおきないのち”にまかせ、信順することが、
この“迷い”の世界を超え、“生死”を超えることだと、
有国さんは言う。
でも、私はまだ、迷いの真っ只中。
自分の居場所がつかめない。
わが子が、今まさに、死を迎えようとしているのに。
人生80年の、いま林住期をいきている自分。
まだまだ、“遊行”の心境にはほど遠い。
少しでも多くの方に読んでいただきたいので、
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