自己と出会う | 微塵のごとく

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大震災からブログをお休みしていました。あれから、8ヶ月。ブログを再開しようかなと思いますが、さぁて?!

遊雲さん父さん―小児がんを生きたわが子との対話/有国 智光
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前回に引き続いて、

作者は、こう続けます。


死は虚無などでは決してない。死ぬのが人間である以上、

これまでの人間の全歴史に照らして、死は断じて虚無などではない。


死に直面して自己と出会うならば、少しは気が利いている。

しかし出会うのがやや遅すぎるか。

自己ではまだ答えにはならない。

自己とは何なのか。大切な問いではあるけれど、考えるのならば

元気な間に考えておかないと、間に合わないだろう。


それに、自己は「死ぬ」ことと相容れにくい。死ぬことが課題と

なっている以上、自己が死ぬという矛盾は、解きようのない謎

として立ちふさがってくるはずだ。

解けない謎を抱えたままでは、心安らかにというのとは遠い。


同じことなら、死に直面して、仏と出会おう。ただし、どんな仏と

出会うかは少し注意しておく必要がある。

もし仏が「完成された自己」のようなイメージだとすれば、自己と

出会うのと、さほど変わらない。いざ死に直面して出会いたいのは、

「いのち」としての仏だ。


ある方が、「死にたくない」というのは「永遠のいのちと出会いたい」

という意味の叫びだ、とおっしゃっていた。

いのちの仏と出会えれば、だから「死にたくない」という願いは

満たされる。「死にたくない」が実現されて、安心して死んでいける。


だから父さんは、自分が死ぬのはなんともない。

しかしやはり───まだ遊雲さんが死ぬのは怖かった。


“いのち”あるものは、すべて、永遠に、


生死(しょうじ)をくりかえす。


生も死も、「当たり前」の現象にすぎない。


また、生も死も、そのままでは“迷い”だから、


生死を超えた、あるいは、生死全体を包んでいる


“おおきないのち”にまかせ、信順することが、


この“迷い”の世界を超え、“生死”を超えることだと、


有国さんは言う。


でも、私はまだ、迷いの真っ只中。


自分の居場所がつかめない。


わが子が、今まさに、死を迎えようとしているのに。



人生80年の、いま林住期をいきている自分。


まだまだ、“遊行”の心境にはほど遠い。



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