このブログでは前回、名盤ドキュメント『風街ろまん』の文字に起こしをアップした。はっぴいえんどの同名アルバムをテーマとしたNHKの番組から、細野晴臣ら元メンバーの言葉を採録したもの。当事者の貴重な証言を、できる限り忠実に再現した。番組の内容にはいろいろ思うところもあったが、再現という主旨に反するので個人的感想は遠慮した。
今日は、別ブログということでそれらを徒然書かせてもらう。一言でいえば、はっぴいえんどというグループの人間模様といえるかもしれない。純粋なピュア・ファンには怒られるかもしれない内容である。でも自分も、相当なはっぴいえんどフリークだと自認している。昭和のフォークロック人間の戯言と、ご笑読ください。
一周忌
この番組の放送は、2014年12月30日。
大瀧詠一衝撃の急逝から、ちょうど一周忌にあたる日だった。
番組のナレーションは、亡くなった日だと伝えたものの、前年の当日であることには触れなかった。
放送日のもつ意味を、番組編成担当が意識しないわけない。
触れなかったのは、再放送などを考慮したためだろう。
一方で、放送日自体が偶然とは考えられない。
大瀧逝去の記憶が生々しい翌年の当日にぶつけてくるとは、思い切ったことをしたものだ。
細野晴臣
ファンの間では知られた話ではあるが、
はっぴいえんどの解散は細野晴臣と大瀧詠一の確執が原因とされる。
しかし番組がこれをはっきりと取り上げたのには驚いた。
きれいごとだけを扱わない姿勢はさすがだと思った。
そして確執の比喩が詠われたのが歌が、『花いちもんめ』である。
この曲を語るには、避けられないエピソードである。
しかもテレビ的に、おいしい話だ。
この話を放送で語ることを許した(?)、細野もえらい。
彼にとって、決して名誉な話じゃないのだから。
一見、好爺然とした風貌や語り口から、穏やかな人柄を想像させる細野だが、結構難しい人と聞く。
はっぴいえんどの前に属したロックバンド、エイプリルフール の解散も人間関係が原因だったし、YMOでも坂本龍一と衝突している。
でも、ここまで歳を重ねたら(実績を重ねたら)、それらももう過去のことで、
もうどうでもいいのかもしれない。
ただ、大瀧が存命なら許されただろうか。
すこし気になる。
ついでながら、細野の娘さんも父を評し、
「音楽的には素晴らしいかもしれないが、人間としては失格」と断じている。
細野の発言に関しては、この放送中「誤り」がある。
「はっぴいえんどで初めて作られた曲を、彼は『春よ来い』」だと語っていたのだが、正確には『12月の雨の日』のはず。
手元にあるはっぴいえんどの「歴史」を語る幾多の本には、『12月の雨の日』がまずできたことによって、グループ結成が成されたと決まり文句のように書いてある。
細野はデビューアルバム『ゆでめん』の最初の曲、という意味で言ったとは思うのだが。
大瀧詠一
大瀧が亡くなった後に、番組がつくられたことが気になる。
遅きに失した、という意味ではない。
逆説なのだが、亡くなったからこそ番組が実現したかもしれない。
NHKはずっと以前から、四人に番組制作のオファーをしていたのではないだろうか。
他の三人は了承したのだが、大瀧だけが頑なに拒んでいたのではないだろうか。
大瀧没後の翌年に番組が生まれたことが、この仮説を証明していると思う。
その根拠として、どうやら大瀧は、他のメンバーとの関係が疎遠だったらしい。
細野の著書にある、大瀧が亡くなった前後の細野の動静は、ふたりの交流がなかったことを窺わせる。
亡くなる直前、細野は「また一緒に音楽をやろう」と、仲介者に大瀧への伝言を預けていた。
また、訃報を聞いても遺族に連絡をとらなかったり、ふたりが親密でなかったことは明らかだ。
そして松本も大瀧と距離があったようだ。
大瀧の『イーチ・タイム』制作時に、歌詞の改変をめぐり衝突があったらしい。
以来交流がなかったようだと、松本と親しい太田裕美が証言している。
やはり、大瀧の生前に番組が実現することは、望むべくもなかったことになる。
風をあつめて
大瀧逝去で番組が実現したという上記の仮説に立ち、以下の感想も披露させていただく。
それは、番組が細野の『風をあつめて』がはっぴいえんどの代表曲として構成されていたこと。
この歌はオリンピックで喪われてゆく、古き良き東京を懐かしむ歌ともいえる。
つまり、東北出身の大瀧には関係がない歌なのだ。
大瀧が存命なら、『風をあつめて』がメインに据えられただろうか。
当初、NHKが企図していたのは、細野大瀧両雄が並び立つ構成だったのではないか。
大瀧作の『抱きしめたい』あるいは『はいからはくち』が、『風をあつめて』と同列に扱われたのではないだろうか。
悲しいかな、大瀧逝去によって企画書も書き換えられ、番組が実現したことになる。
高田蓮
高田漣というミュージシャンのことは、あまり知らなかった。
高田渡の息子という認識しかなかった。
番組内で冒頭、鈴木茂がフォークソングについて否定的な言葉を吐いたとき、
ある本での松本隆の発言を思い出した。
松本隆 関西フォークは、関係ないね。『自衛隊に入ろう』とか、大キライだから(笑)。のちに、高田渡とも知り合ったけどね、あんなの嫌いだったね。あと、岡林信康も嫌いだったしさあ。まさかバックやるとは思わなかったよ(笑)。
インタビュアー 細野さんも嫌いだとか、言ってましたしね(笑)。
ー 『定本はっぴいえんど』215ページ 1986年刊ー より。
これは結構過激な発言なので、ずっと記憶に残っていた。
なのに、高田渡の息子の高田漣がはっぴいえんど称賛する番組に出てきた。
不思議な思いがした。
しかし、松本は最近の別番組で高田渡との親しい交友を語っていた。
まぁ、上の引用文をよく読むと、「のちに、高田渡とも知り合った」とある。
歌は嫌いだけれど人柄は好きになった、というということなのだろうか。
深く詮索するようなことではないけれど、狭い音楽の世界の人間関係も、結構複雑なんだろう。
松本隆
番組では、松本の自己アピールが散見される。
詞の創作苦労話や、ドラムテクの秀逸さ自慢などなど。
細野や鈴木の口からは、控え目な言葉しか出てこないのに。
松本はツイッターをやっている。
自分を褒めてくれるツイートを頻繁にリツイートしている。
巨匠と呼ばれる存在なのに。
自己愛が相当強いようだ。
読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる。
1982年、大瀧の『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』発売時に、細野と大瀧が対談しているが、ここに松本の話が出ている。当時、細野はイモ欽トリオの『ハイスクール・ララバイ』を作・編曲し、大瀧は松田聖子の『風立ちぬ』を作・編曲した。作詞はともに松本隆で、どちらも大ヒットしている。
細野 ヒットチャートの作者欄に松本、大瀧、細野が並んだりすると、松本が結構意識する。
大瀧 作詞家はもうけてばかりいて、尊敬されないというヒガミがあって…(笑)
細野 顔も売れていない(笑)
大瀧 はっぴいえんどのなかでは、いちばんスター志向が強い男なのに、裏方に回っちゃったんで、そのウッ積たるやすごいものだ(笑)
2015年、松本隆を特集した雑誌『ブルータス』に載っていた、松任谷由実の言葉。
「松本隆は、松本隆が好き」
けだし名言だと思う。
鈴木茂
番組で、鈴木がはっぴいえんどを学校の話に例えると、松本と細野が「大人になったねぇ」と、からかっていた。
一番の年少者だったゆえ、当時の関係性がいまだ続いていることが、笑える。
残念なことに、鈴木は大麻で捕まっている。
二十代で渡米録音の際に覚えて、ずっと続けてきたという。
松本と細野の、鈴木を揶揄する言葉の裏には、彼がやっと悪弊を断ち切ったのだという一種の感慨が込められているようにも思える。
ならば、単純に笑える話でもない。
あの事件のあと、釈放された鈴木に親身に声をかけてきてくれたのは、大瀧だけだったという。
普段から鈴木と接点があったとは思えないし、大瀧は厳しい人だったと聞く。
それでも、落ち込んだ鈴木を思いやる、やさしいこころの持ち主だったことがうかがえる。
鈴木の初のソロアルバム『バンドワゴン』は、今も色褪せぬことのない名盤だ。
いまも自分は聴くことがある。
おもえば鈴木の頂点だったのかもしれない。
大麻に走ったのは、それを超えられぬ苦悩があったのだろう。
鈴木はいま、バンド活動をさかんにおこなっている。
なによりだと思う。
了

