Kou -85ページ目

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

すこし前になるが、BSの歌番組に「四角佳子」が出ていた。

なつかしい。

すっかり忘れていた。

でも一瞬で記憶がよみがえった。

吉田拓郎の、奥さんだった人だ。


ふたりが結婚したのは1972年。

翌年発売の拓郎のアルバム『伽草子』には、おけい(四角佳子)とのデュエット曲『春の風が吹いていたら』が収録されている。

淡々としたメロディながら軽快なテンポが心地よく、彼女の澄んだ歌声はいま聴いてもとてもさわやかだ。

おけいと拓郎が結婚して、夫婦ふたりで歌った唯一の曲でもある。

 

だがその結婚生活はわずか3年余りで終わってしまった。

その後のおけいは一般人となっていたはずだ。

それがいつのまにか音楽界に戻ってきていた。

 

iTunesに復帰後の曲があった。

CDを出していたのか。

数曲ダウンロードしてみた。
昔と変わらぬ美しい歌声だ。

 

ネットには復帰は2000年とある。

もう17年も前に戻ってきていた。

いまさらこんなこと書いていることがバカみたいだけれど、自分が知ったのは今なのだから仕方がない。
 

彼女のフェイスブックや、中断しているがブログもあった。

応援サイトもある。

それらによると現在は、小規模なライブを中心に活動しているようだ。

でも拓郎と別れた後はどうしていたのだろうか。

気になる。

 

もう四十余年も前になってしまったが、十代のころ拓郎ファンだった自分は、レコードのみならず彼に関する本もよく買っていた。

実家の本棚の奥から、古びたその何冊かを引っぱり出してみると、おけいのことも載っていた。

以下は、それらの本とネットの記述を元に、勝手ながら彼女の半生を構成してみた。

 

 

おけいは、1952年3月大阪の生まれ。

歌のうまい、活発で派手好きな女の子だったようだ。

 

68年、16歳で西野バレー団に入る。

西野バレー団とは、金井克子、由美かおる、奈美悦子らを擁す、今でいう芸能プロダクションのさきがけ的存在だったかもしれない。

芸能界入りはおけいにとって、幼いころから習っていたバレエを生かす道でもあったのだろう。

その矜持だろうか、いまもライブではバレエシューズを履いているという。

 

おけいは金井らに続く、将来を嘱望される期待の新星となった。

志麻ゆきという名で日本テレビの人気番組『レ・ガールズ』に出演を果たし、70年2月にはデビュー曲『風に乗って』のシングルレコードが発売され、8月にも『夜明け前』が出た。

アイドルとして順風満帆、とても恵まれたスタートだったといえる。

 

 

しかし多感な行動派のおけいは、厳しい芸能生活になじめなかった。

スタッフとことごとくぶつかる、喧嘩ばかりの日々だったという。

気の強いおけいの性格がうかがえる。

金井ら諸先輩ともうまくいかなかったのかもしれない。

おけいは2枚目のレコードを出したあと、大阪へ帰ってしまった。

彼女を売り出すために多大な先行投資がされていたろうに、西野バレー団はじめ、レコード会社や関係者の混乱ぶりが目に浮かぶようだ。

 

しかし実家へ帰ったものの、悶々とする日々。

そんな翌71年の初めのこと、小室等から電話があり、六文銭というフォークグループ入りを誘われる。

小室は六文銭のリーダーであり、おけいの歌の作曲者だった。

小室を信頼していたおけいは、渡りに船とばかりに復帰を快諾する。

両親は再度の芸能界入りに猛反対するが、結局は説得のため大阪に来てくれた小室の人柄を信じ、娘を託すことにした。


冒頭に記したBSの歌番組には、新たに結成された六文銭09として小室やおけいが出演していた。

司会の谷村新司は小室に「あのときおけいを誘わなければ・・・」と、数十年も前の勧誘を茶化した。

のちの経緯を知る、古くからのミュージシャン仲間だからこそ言えるきついつっこみだ。

これに対しては、小室も当のおけいも苦笑で応えるしかなかったのだが、まさに運命の分岐点だったことには違いない。

小室の電話さえなければ、おけいは拓郎と出会わなかったのだから。

 

おけいが加入した六文銭はその年、上条恒彦と組んだ『出発の歌』で世界歌謡祭グランプリを獲得、一躍メジャーな存在となった。

この歌でのおけいの役割はバックコーラスだから存在感は希薄なのだけれど、メンバー交代を頻繁に繰り返していた六文銭がこのタイミングでブレークしたことは、現在の彼女にとって幸運だったといえる。

 

 

六文銭(右端が小室等)

 

 

六文銭に入った71年5月、おけいと拓郎は初めて出会う。

愛知県岡崎のコンサート会場だった。

あいさつに来たおけいに、照れ屋の拓郎はぞんざいな返事をする。

第一印象は悪かった。

 

それから一月ほどたった初夏のころ、ふたたび共演した。

その打ち上げのあと、拓郎は四谷の路上で酔っぱらいの喧嘩の仲裁に入り、けがをしてしまう。

おけいは近くの深夜スーパーに駆けこみ、ガーゼと絆創膏を買う。

初めて見た男同士の喧嘩と、血だらけの拓郎にショックを受け、泣きじゃぐりながらの介抱となった。

 

拓郎はそれまで、数少なくない女性とつきあってきた。

だがいつも2、3回会っては、終わっていた。

どの人にも、心を動かされなかった。

だが涙を流しながら、かいがいしく手当をしてくれるおけいに、拓郎は一気に惚れてしまう。

 

その後約一年の交際を経て、72年6月、おけいが20歳、拓郎が26歳のとき、ふたりは結婚。

半年前の1月にリリースされた『結婚しようよ』は、おけいとのことを歌ったものだが、軽井沢聖パウロ教会での結婚式では、多くのファンがこの歌を自然発生的に唱和した。

拓郎は感涙にむせんだという。

 

 

 

 

しかし、蜜月は長くなかった。

拓郎は離婚のあと、単行本インタビューに応えて、「子供は欲しかった。子供が生まれたらお互いに変わって、うまくいくと思った」と、語っている。

この言葉を素直に読みとれば、子供をつくる前から不協和音は生じていたことになる。

 

73年12月に娘が授かってからも、「子供中心になっちゃおもしろくないね。俺の性分としてね。ちょっとつまらんね、味気ないんだよ。俺にゃ俺達の世界っていうのがある」と、雑誌インタビューで語っている。

 

今回このブログを書くにあたり、彼の著書などを四十余年ぶりに再読して感じたことは、その言動があまりにもわがままだということ。

これら子供にまつわる部分だけを取り上げてみても、自分本位の考えに驚く。

スーパースターに、家庭人としての倫理を求めること自体が誤りというものなのだろう。

おけいの性格や若さで拓郎とうまくやってゆくことは、土台無理な話だった。

 

75年9月、ふたりは離婚。

娘はおけいが引き取った。

拓郎は慰謝料として、すべての財産をおけいと娘に譲ったという。
 

おけいは一般人となった。

再び音楽界に戻るまでの25年もの間、その消息は公になっていない。

しかし、2000年に復帰の三年後に始まったおけいのブログは、自らその一端を明かしてくれている。

 

ブログ開始早々、おけいはいきなり大学三年生の息子について語っている。

拓郎との間には娘しかいなかったから、普通に考えれば再婚し、男児を生んでいたということになる。

しかしブログには、夫君が登場しない。

2015年にブログが中断するまでの12年間の記事には、その影すらない。

ブログを読む者としては、おけいに再度の別れがあったのだと思わざるをえない。

 

一方で、おけいは娘が結婚したことも記している。

拓郎の娘である。

娘に関する記事はブログスタートから数ヶ月にわたり埋められていて、ウェディングドレス姿など結婚式の写真まで披露している。

 

この結婚を拓郎は何も知らなかったらしい。

マスコミから突然聞かされ絶句したという。

1980年のインタビュー記事で拓郎は、離婚以来おけいと娘には一回も会っていないと語っている。

ちょうどこのインタビューの頃におけいは「再婚」したと思われるので、以降も会っていないはずだ。

おけいが娘の結婚をブログにアップしたのは、拓郎へ知らせるためだったのかもしれない。

あなたの娘を立派に育てあげましたと、誇りたかったのかもしれない。

結婚を機に、拓郎は娘と再会を果たした。

拓郎は美しく成長した姿を見て、「娘じゃなければ口説いている」と喜んだという。


 

ただおけいのブログには、拓郎の話は出てこない。

しかし彼にまつわる、間接的な話は記されている。

 

『ペニーレーンでバーボン』という歌がある。

東京原宿表参道にかつてペニーレーンというスナックがあり、拓郎はこの店を歌った。

時は流れ、ペニーレーンがライブハウスとして新装オープンすることになったとき、皮肉な運命のいたずらで、他でもないおけいがこけら落としをすることなった。

そのときの思いを彼女は、ブログにこう綴っている。

 

何年前になるだろう‥
仲間が集まって飲める場所を作りたいということから、あの店ができたのは

‥皆、若くはじけていた。
当時、もう子供がいた私は飲みにいくことは殆どなく、数えるほどだったと思う。
錚々たる人達が集まり今なお語り継がれている、逸話が生まれた場所でもある。

 

歌になった元のペニーレーンがあった頃、おけいと拓郎の関係は悪化していた。

当時を淡々と振りかえるこの文面には、その苦しい日々をすでに思い出の彼方とした感がある。

 

 

北海道札幌に、『居酒屋拓郎』という店がある。

名の通り、拓郎ファンのメッカのようだ。

おけいはペニーレーンでのライブの三か月後、ここでも歌っている。

復帰後、六文銭の旧メンバーや安倍なつみとのユニットを経て、この頃はソロ活動を本格化させていたようだ。

元の夫にゆかりのある店で次々と歌う彼女は、やはり過去を完全に霧散させたように思える。

しかし、そうではなかった。

 

おけいはライブ当日、居酒屋拓郎に入るドアを押すのを、なぜかためらった。

ブログはその理由を明らかにしていない。

だから以下は推察でしかないが、自分はこう思う。

 

ソロ歌手として一人立ちするため、おけいはどこででも歌おうと決めていたはずだ。

たとえそれが元夫の名を冠した店だとしても、集客のためには致し方なかった。

しかし初めて訪れた店のその看板を見たとき、やはりまだ心の奥に居座る苦い記憶をよみがえらせてしまったと思われる。

ドアが鉛のように重く感じたのは、おそらくそのせいだった。

 

しかしおけいは、日頃教訓としているという母の言葉を支えに、強く心をもちなおして店に入る。

店内では、音楽仲間があたたかく迎え入れてくれ、気持ちがやわらいだ。

そしていざステージが始まれば、満員のファンに胸が熱くなった。

これらが伏線になったのだろうか、自ら熱唱するライブの最後の歌が、おけい自身の心を覆いつくした。

 

そのときの思いが、ブログに綴られている。

 

ラストに「春の風が吹いていたら」を歌わせてもらった。
伊庭恵子さんの作品で、好きな曲、と言うか,

歌う機会が増えこの曲の優しさに触れたと言った方が正しいかもしれない。
 

「明るい朝の光より、夕焼け雲の色が好き」
 私も夕焼けが好き。
 

「どこかで泣いている人の心にきっと届くよう‥」
 今の私の歌が誰かの心に届くように。
 

悲しみの涙ではなかったが、止めようのないものだった。
皆が一緒に歌ってくれて嬉しかった。
頑張って歌おうとしたが、だめだった。
ごめんなさい、そしてありがとう。
あの一瞬見えない言葉が、かけがえのないものを連れてきてくれた。
遠い記憶のかけらを乗せて‥。

 

『春の風が吹いていたら』は、このブログの最初に記したように、拓郎との唯一のデュエット曲である。

目の前で突然涙するおけいを、居酒屋拓郎につめかけた観客はどんな思いで見つめていたのだろうか。

 

この歌が収録されたアルバム『伽草子』が発売されたのは、73年6月のこと。

結婚からちょうど、一年目ということになる。

拓郎は「結婚から一年は楽しかった」と述懐しているから、この歌のレコーディングの時期はまだ仲睦まじかったと思われる。

 

結局は拓郎とはうまくいかなかった。

でも彼の傷の介抱から芽生えた恋心は、本物だったはず。

この夜のおけいの脳裏には、昔のよき思い出が走馬灯のように甦ったのかもしれない。

ただ涙の本当の理由は、誰にもわからない。

「遠い記憶のかけら」は、彼女だけが知っていることなのだから。

 

 

『春の風が吹いていたら』

 

ひとりで空を見ていたら

やさしい風につつまれた
春の野原の菜の花を

あなたにつんであげたいの

雨だれの音きいてたら

なぜか楽しくなってくる
雨のしずくに青空がうつって

雲が揺れている

明るい朝の光より

ゆうやけ雲の色がすき
空ゆく鳥に身をかえて

ゆうやけおっていきたいの

誰かがならす草笛が

春風にのり吹きわたる
どこかで泣いている人の

心にきっととどくよう

 

 

 

 


 

おけいと拓郎 ~ 四角佳子ライブ初観戦記 ~

おけいと拓郎 ~ 四角佳子さんのこと Ⅱ ~ 

 をアップしました。よろしければこちらもご覧ください。