矢野顕子 ジャパニーズ・ガール (1/3) NHK名盤ドキュメント再現 から続く
矢野顕子の自由すぎるピアノ演奏は、どのように生まれたのか。
音楽的ルーツを辿ってみよう。
矢野顕子は1955年、医師 鈴木威男の長女として生まれた。
3歳の時、家族で青森市に移住。
クラシックピアノを習い始めた。
幼いころから、感情の赴くまま。自由奔放に演奏するのが得意だったという。
矢野顕子 全然変わっていない、今と。(幼いころから) きちんと流れるままという演奏で弾けなくて、いわゆる表情記号(発想記号)=楽曲の表現方法を支持する記号 が、目が悪いので見えなくて、私的にはこうだと、そういう弾き方をしていた。
矢野が子供の頃から親しんだ音楽が、もうひとつあった。
ねぶたの祭囃子だ。
矢野顕子 わたしの日本のものといったら、ねぶたの祭り。
清水ミチコ やっぱりときめく感じがあったんですか。
矢野顕子 ありますね。いまだに。
ねぶたの祭囃子に、矢野はオリジナルの歌詞をつけた。
B面5曲目の「ふなまちうたPartⅠ」
B面5曲目 ふなまち唄PartⅠ
ふなまち唄PartⅠ が流れる。
原田郁子 海が荒れそうだよね。
坂本美雨 厳しい海だと思う。青森は。
原田郁子 ねぶたは夏?
坂本美雨 夏です。8月。ちいちゃいときにおじいちゃんと見たのをよく覚えているし、青森で暮らしたことはないんだけれど、青森生まれなんです、わたし。だから血が騒ぐ気が。
ジャパニーズ・ガールには、津軽三味線の第一人者山上進が参加している。
当時18歳。矢野の弟と同級生だった縁で、笛と太鼓を演奏した。
山上進 (演奏を頼まれたときは) なにかプロの仲間入りしたかなって、ですかね。お祭りのとき、吹いているもんですから。地元の方だからぜひ先導して掛け声かけてやってくださいって。「あ~せら~」って入ってますけど、あれ私のそのときの声です。
坂本美雨 母の実家の一階がおじいちゃんの診療所で、三階が実家だったけれど、そこに続く長い階段があって、階段を上り始めたときに独特な匂いがする。それがこの曲を聴いてよみがえってきた。
矢野の音楽的なルーツがもうひとつある。
中学時代、ジャズにはまった。
矢野顕子 これだ。ピアニストと言うよりも、即興演奏。これがわたしよ。そんな感じでしたね。
矢野は十五歳のとき、ジャズを演奏したい一心で上京。
軽音楽部のある、青山の私立高校に入学した。
しかし高校のクラブ活動だけでは物足らず、ジャズクラブに通うようになった。
当時青山にあったジャズクラブ『ロブロイ』
山下洋輔、中村誠一など、一流のジャズメンが一堂に集い、連夜熱い演奏が繰り広げられた。
店のオーナーは安部譲二。
のちに作家として活躍する安部譲二。
矢野の才能に惚れ込み、自宅に下宿させ、プロにまじって演奏させた。
安部譲二 (本名は)鈴木顕子。すごい奴らがいっぱいいたよ。間違いなく鈴木顕子はそのなかの一人で、けたたましい才能だったよ。プロってのはお客にシビれてもらう音を出さなきゃいけない。アッコはそれが16の頃からできたんだよ。
矢野が弾き語りを始めたのも、実は安部がきっかけだった。
矢野顕子 昔、部屋で練習しているのを安部さんたちが聴いているんで。
清水ミチコ 居候していましたからね。
矢野顕子 それで「アッコ、演んなさい」って。で、キャロル・キングとか、やったら、ギャラが倍になって、ものすご~く褒めてもらえた。弾き語りとかで、歌もピアノとかだけでなくて、ギャラが倍になる。これはいいわって。
当時16歳だった矢野の弾き語りは、たちまち評判に。
その噂は敏腕ディレクター三浦光紀にも届いた。
三浦ははっぴいえんどを始め、あがた森魚や小室等の名盤を世に送り出していた。
三浦光紀 青山のロブロイに、足でピアノを弾く高校生がいるという噂を聞いて、例えはちょっと間違っているかもしれないけれど、大谷翔平みたいな、超絶技巧のピアニストがシンガーソングライターやっているようなもんですよね。何が何でも彼女と仕事をしたいなっていうふうに思うようになって。
ミュージシャン細野晴臣も、矢野の弾き語りに惚れ込んだひとり。
細野晴臣 持って生まれて歌心があるという。で、歌心というのが中心にあって、それにピアノがひっついてくるという、気持ちのまんま歌えるっていう、非常に数少ないシンガーですよね。
というわけで、スペシャルゲスト細野晴臣が、矢野顕子と清水ミチコの席に加わる
清水ミチコ ふたりが知りあったきっかけって何だったんですか・
細野晴臣 だれかが連れてきたんだよ。鈴木茂だったかな?16歳だってのは覚えている。
清水ミチコ 16? じゃあ、ジャパニーズ・ガールのずいぶん前です。
矢野顕子 うん、もっと前。
細野晴臣 こんな短いスカートはいてて。きれいな足していた。
矢野顕子 もう一回はいてくれって(笑)
実は、ジャパニーズ・ガールを出す二年前、矢野はザリバというバンドでレコードデビューしていた。
作曲は、歌謡界の巨匠筒美京平。
『 或る日 』
このレコードで、矢野と細野は初共演したとされる。
清水ミチコ 覚えてます?
細野晴臣 (首を振る)全然。誰?え、ぼくが弾いてんの?
矢野顕子 そうだよ(と、不服顔)
坂本美雨 これほんとに、お ・・(ブログ注:おかあさんと言いかけたようだ) 矢野さん、歌ってる?全然声違うじゃん。こういう歌い方できるんだね。歌謡曲みたいな。
え~っ。なんか恥ずかしくなっちゃう(笑)
実は演奏しているのは、ザリバのメンバーではなく、細野晴臣率いるバンド キャラメルママ。
荒井由実などのバックもつとめた凄腕ミュージシャンたちだ。
矢野顕子 昔、モンキーズの楽し気なジャケット(写真)があるけれど、実際に演奏しているのは、ベンチャーズだったみたいな、そういう感じ。
細野晴臣 お仕事っぽく、やってる感じ。
矢野顕子 筒美さんには申し訳なかったけれど、本意じゃなかったから、自分がこういうシングルを出すっていうのは。ぎんざナウ(人気テレビ番組)とか、そういうのに出て、ちゃんと売れる路線に乗せようとしてくださったのに、本人はそういうのに全然関心がないから。それでこれ出して、解散。
1974年、シングル発表直後に矢野はザリバを解散。
細野のキャラメルママとアルバムのレコーディングを始める。
顕子の父、鈴木威男が資金を提供した自主製作盤『ジャパニーズ・ガール』に収録された『大いなる椎の木』は、そのときの録音だ。
B面1曲目 大いなる椎の木
大いなる椎の木が、流れる。
清水ミチコ これは (ザリバのような嫌々の) 仕事じゃないですね。
細野晴臣 いま (聴きながら心の中で) 練習しちゃった(笑) ずっとやってるからね。古く感じない。
(細野は近々、矢野のライブでもこの曲を演奏することになっている。)
矢野顕子 古くならないですよね。
しかしこの自主制作盤が世に出ることはなかった。
いったいなぜか。
その秘密を解く手がかりが見つかった。
ジャパニーズ・ガール宣伝用につくったパンフレット。
自主制作を中止した理由として,、矢野は自分の未熟さを挙げ、他のシンガーをも批判。
矢野のこの言葉に、原田と坂本は。
原田郁子 痛いねぇ。
坂本美雨 痛いねぇ。(そしてふたりで大笑い)
原田郁子 なにか時を超えて叱られているみたい(笑)
頓挫した矢野のアルバム制作。
助け舟を出したのが、ディレクター三浦光紀だった。
三浦光紀 アッコちゃんはスタジオミュージシャンやってたんですけど、自分のリズムと合う人が、なかなか日本人にはいない、ということを雑談の中で言ってて、リトル・フィートのグルーヴ感だったら、アッコちゃんにピッタリだと思って、一緒にやることになったんです。
リトル・フィートとは、アメリカ西海岸を代表するロックバンド。
代表作は73年のアルバム『ディキシー・チキン』
矢野顕子 ディキシー・チキンは画期的なアルバム。
細野晴臣 飛躍して、進化しちゃった。
矢野顕子 曲がまず素晴らしいことと、アレンジなんかもニューオリンズの影響を受けたっていうか、それをロックンロールのバンドがやったのが、彼らしかいなかった。あの時代のリトル・フィートとやったの、って言うと、「え~」って驚かれた。
細野晴臣 すごいことだよ。
76年3月、矢野はリトル・フィートとの録音に臨むため、ロサンゼルスへ向かった。
矢野顕子 ジャパニーズ・ガール (3/3) NHK名盤ドキュメント再現 に続く




















