井上陽水『氷の世界』(2/3) ~NHKドキュメンタリー再現~
から続く
そして
1973年12月1日
『氷の世界』発売
発売と同時に異常な売れ行きをしめし、アルバムチャートの第一位に躍り出た。そのまま113週連続トップテン入りなど、音楽史を塗り替える、モンスターアルバムになっていった。
『氷の世界』とは?
みうら 新しかったですよ。新しいものの見方を示してくれた。
リリー 四十年前に、いわゆる日本のポピュラーソングよりも、わかりやすい歌ではない。歌詞だったり、テーマだったり。130万枚ぐらい当時は売れて、みんなが針を落として聴いていた。いろんな人の血肉になっている。
みうら マニアだけではない。それがすごいよね。
谷村新司 50年に一枚しか出てこないアルバム。このアルバムをつくったらこのあと陽水はどうするんだろうって、同じ仲間としては、ちょっと心配になった。それぐらいやっぱり斬新に感じたし、クオリティが高いし。
なかにし礼 今までのLPレコードはヒット曲の寄せ集めの、いわゆるファンのためのアルバムだったのが、この井上陽水はファン相手ではなくて、日本全国に向かってこの作品を提出したわけです。若者だけでなく、老人もおばさんも、そして少年少女、普段音楽を聴いていない人たちもみんなこの作品に感動した。そのぐらいの普遍性はあったということです。
大卒サラリーマンの平均初任給6万円の時代、2200円のLPレコードは飛ぶように売れた。そして1975年8月100万枚突破。日本音楽史上初のミリオンセラーアルバムとなった。なぜこのアルバムはそんなに売れたのか?
川瀬 本当のことを言えば、僕も知りたいことなんですよ(笑) それがわかったらそんな強いことないですよね。次もそうすればいいんですから。一気に化けたっていうんじゃないんですよね。ちゃんと段階を踏んでるんですよね。奇跡じゃないんです。だからそれが奇跡じゃないことが、自分たちがいいものだと思っていたものが売れるっていう実感につながっているんですね。
陽水 『氷の世界』ってアルバムは、モンスターになっちゃった。こちらの思惑を超えて、そうなると独り歩きしている感じですよ。
一方で『氷の世界』の大ヒットは、「アルバム」のあり方を大きく変えたという?
小室等 70年代、とにかくシングルなんかよりもアルバムを作りたい。そしてそんなに売れなくても自分を表現できる世界、っていうものだったんじゃないかと思うんだよね。だから陽水さんが売れることによって、悲劇は始まって、そしてユーミンがブレイクして売れて、オフコースが売れていく中で、あきらかに置き去りにされたものがあるはずなんですよ。残念ながら『氷の世界』は終わりの始まりっていうか、悲劇的な側面をもったできごとだった。
1973年とは?
終わりの始まり
『氷の世界』が誕生した1973年は?
経済学者 榊原英資 高度成長がちょうど終わった時期なんですよ。高度成長が1973年に終わってるわけなんです。73年にオイルショックがあって、日本経済が74年に初めてマイナス成長になったんです。日本がどんどんおかしくなってきた。これからのエネルギーどうする。これから世界がどうなっていくか。どうも見えなかった。やっぱり新しい時代の始まりっていうかね。今までの時代の終わりっていうかね。それを反映した歌だと思います。まさに『氷の世界』ですね。そういう感じが今もするわけです。
高度成長のあとにやってきた『氷の世界』
陽水は幼いころ、いち早くそれを目の当たりにしていた。
陽水のふるさと、福岡県田川市は筑豊最大の炭鉱の町として、陽水の幼年時代には人口十万人を超え、繁栄を極めた。しかしオリンピックで日本中が沸き返る1964年、炭鉱閉山。高度成長の陰で、町は急速に冷えていったという。
リリー 僕らが見ていた風景は、もう何もない風景だった。炭鉱が閉山になってもう景色は一色だし、町はないし、音楽は鳴ってないし、歌をつくるって発想すら持つことが難しい。陽水さんの歌は、すごく土着的なところと、すごく都会的なものが融合しているで、それはもう思想とかじゃなくて、血にあるもの。実際に闇を経験している、闇を傍観している。
森本レオは陽水の闇を垣間見たことがあるという。
森本レオ うちで遊んでて、陽水がいるから陽水を囲んで陽水を聴こうぜって話になって、それで『断絶』かなにかを聴いたんですよ。そしたら歌いだす瞬間に、ごくりと(陽水の)喉が鳴る気配が聴こえたので、「(緊張して)あがってんじゃん」って、みんなで大笑いしたんですね。そしたら陽水さんがものすごく怒り出して、「生きるか死ぬかなんだ!この瞬間にかかってるんだ!緊張するに決まってるじゃないか!!」って、すごい怒って。そのふっと息をのんだ二秒が、本当に彼にとって神聖な瞬間だった。人生を凝縮した瞬間だったのに、それを笑いものにしたって、ほんとうに申し訳なかったって、思うんだけれども。彼は本当に命がけっていうか、ほんとうに人生のすべてを賭けて作ったんでしょうね。
伊集院静 これはあきらかにこのアルバムひとつ作ったら終わりだって感じてるよね。このあとが続きますようにっていうアルバムではないよね。(そうでなければ)こんなタイトル『氷の世界』なんて付けませんよ。そのぐらいの覚悟というか、覚悟じゃなくて、そういうものだったんじゃないですかね、その時代の、彼のものをつくったり、語ったり歌ったりすることは、おそらく生涯の自分の最後だろうというものは、感じられますよね。
アルバム最終曲は『おやすみ』
中沢新一 『あかずの踏切』で始まって『おやすみ』で終わる。すごい意味を持っていると思いますね。日本はずっと「あかずの踏切り」でやり続けてきた。それが3.11である部分すべて終わった。大変予兆的なものをたくさん含んでいる。
最後にプロデューサーの多賀にこんな質問をしてみた。
アルバム『氷の世界』
あなたのリクエスト曲は?

多賀 一曲ね。そしたら『帰れない二人』かな。「思ったよりも夜霧は冷たく二人の声もふるえていました」って、誰が考えたのかなって興味が、興味津々っていう意味でね。いや本当に知らなかったんだ。清志郎と陽水の合作だったっていうのは。そういう意味では『帰れない二人』かな。
陽水 多賀さんの『帰れない二人』ってのは、まぁいろんなことを考えさせる選曲で、興味深かったよね。『心もよう』って決断はしたものの、いやぁ、お前たちの気持ちはよくわかるよって、『帰れない二人』の方がいいっていうのは、お前たちよりずっと俺の方が分かっているよっていう、そういう選曲だった気がする。
陽水に
あなたの選曲は?
それでは、アルバム『氷の世界』の世界のコンセプトは?
陽水 今回録音したアルバムのコンセプトは何なんだということをよく聞かれて、で、その時にいつも答えているのは、特にコンセプトなんかないんだ、みたいなことになってしまって、それを言葉にして出していくべきだったんだけれど、当時そんな力もなくて、いろんな曲にいろんな思いがあって、今の時代を生きているわけだから、生きている僕がいろんなことを感じたり考えたり、喜んだり悲しんだりしているのが曲になっているわけだから、今を生きているっていうことがコンセプトにある、コンセプトっていうか、今を生きてます、それでいいでしょうってことだったんだけれどね。
陽水 言うと恥ずかしいんだけれど、人間の不条理かね。
ブログ後記(追記 2018年8月)
この番組には冒頭、福岡のラジオ局プロデューサーだった野見山實さんが登場します。井上陽水を世に出した方です。その野見山さんが2018年5月、肺がんのため亡くなりました。闘病中、陽水は頻繁に見舞い、葬儀でも弔辞を読み、葬送曲として『夢の中へ』が流されたといいます。
読売新聞(2018年8月26日)にも、追悼記事として陽水は談話を寄せました。恩人への感謝の思いがあふれています。追記となりますが、下に引用させてもらいます。
歯科医を目指しての大学受験も3浪目に入った1969年4月の深夜、RKB毎日放送(福岡市)に、初めて作った歌「カンドレ・マンドレ」を吹き込んだ家庭用のオープンリールを持っていった。当時はやっていたラジオの若者向け深夜番組で、流してほしかったから。応対してくれたのが、番組ディレクターの野見山さんだった。聴いてくれた後、「スタジオで録音し直そう」と言ってくれた。番組で放送されて、僕はとてもうれしかった。ちょうどフォークソングのムーブメントが花開きかけていたからでしょう、ほどなくレコーディングも決まって。野見山さんは、私の両親に説明し、東京の事務所も手配してくれた。この世界の入り口を開けてくれた方です。でも、よく、むさ苦しい身なりの若者が真夜中に持ってきた歌を、適当にあしらわないで聴いてくれたなあと。ありきたりな言い方だけれど、「誠実」ですね。音楽を僕がどのくらい好きか、わかってくれたのかもしれない。ビジネスではない、音楽や番組に対する情熱がきっとあったんだと思います。若者に対する愛情も。その後も、放送局の音楽ディレクター、プロデューサーなどの立場で、椎名林檎さんをはじめ、有名無名数多くの若者をデビュー前から親身になって応援していたと聞いています。そういう人と巡りあえたことは、本当に幸運でした。あれから約50年、僕もずっと歌い続けているわけだけれど、野見山さんが僕に小言を言ったり、頼み事をしたり、威張ったりしたことは一度もなかった。たまに博多(福岡市)に帰ってくると、近くのコーヒー店まで自転車で来てくれて、「元気そうだね」と笑顔で。つかず離れず、見守ってくれていたんだと思います。


































