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Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

三年前NHKで放送された『細野晴臣ファミリーヒストリー』。この番組の再放送が先月あり、以下はその「文字起こし」となります。

 

ファミリーヒストリーはいつも、最後のクライマックスで盛り上げます。この細野晴臣の場合も、父方の祖父の、タイタニックからの生還にまつわる、いわれなき中傷が払拭されたシーンがラストでした。歳のせいか涙腺がゆるくなっている自分は、ここで感極まり涙をこぼしてしまった。妻の前での、思わぬ不覚でした。

 

しかしこの文字化は、効果的な音楽も抑揚のきいたナレーションもありません。拙い構成による、静止画とテキストがあるだけで、感動をお伝えすることはできません。でも僭越ながら細野家の歴史を記せることは、自分としてはうれしいことです。細野晴臣ファンの皆さんにご一読願えればと思います。

 

 

 

 

 

 

 

まずは晴臣の父方の曾祖父から、そのルーツを探ってゆく。

 

 

細野晴臣の曾祖父は、九左衛門(くざえもん)といい、現在の新潟県上越市下吉野に住んでいた。細野家は九百坪もの敷地をもつ、集落をまとめる豪農だった。上越市公文書センターにある、江戸後期の古文書には、「長百姓九左衛門」の名が記されている。

 

 

明治3年(1870)、細野家の四男として生まれたのが正文。細野晴臣の祖父である。幼いころからの勉強家で、村きっての秀才として知られていた。その後、難関の東京高等専門学校(現在の一橋大学)へ進学する。

 

 

明治30年(1897年)、正文は逓信省鉄道作業局に入り、日本最初の駅、新橋駅に配属される。近代化を進める日本は、全国に鉄道網が急速に伸びていった。正文が鉄道の世界に飛び込んだのは、これからの日本のため、その先駆けになるような仕事をしたいという志からだった。働き始めて一年後、同郷の土肥トヨと結婚、三男一女の子宝に恵まれた。

 

 

明治38年(1905年)、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約を締結する。そしてロシアが建設した南満州の鉄道を租借。ロシアの鉄道事情を知る人材育成が急務となった。明治43年、正文は鉄道員の中から選ばれ、ロシアへの留学を命ぜられる。 (鉄道院文書)

 

 

正文が向かったのは、当時のロシアの首都サンクトペテルブルク。教員の年収が120円の時代、年間1800円もの破格の公費をもらう留学生活だった。下の写真はロシアにある日本大使館で撮影されたもの。中央にはロシア大使、後列左側にいるのが正文で、将来を嘱望されたエリート官僚だった。

 

 

留学から一年後、子どもたちに宛てた手紙が残されている。「汽車は速い。西洋人は偉い。日本人も負けてはならぬ。ただぼんやり見て驚いているだけではいかぬ」。

 

 

明治45年(1912年)2月、正文は一年半のロシア留学を終える。日本にいる子どもたちは、父が帰る日を待ち望んでいた。長女から正文に宛てた手紙が残っていた。「パパ様、おめでとう。お帰りあそばせと申して、お出迎え致します」

 

 

正文は帰国のため、ロシアからイギリスに向かう。このとき鉄道員の同僚だった木下淑夫(現在のJTB創設に関わる)が、ある船に乗ることを勧める。それが完成したばかりのタイタニック号。全長270m、当時最大の豪華客船だった。豪華絢爛たる船内、最新設備でつくられ、絶対沈まない船と評判だった。

 

 

4月10日、ニューヨークへ向けての処女航海。多くの貴族を含む乗員乗客二千二百名、その乗員名簿に正文の名が残されている。二等客室の乗客だった。

 

 

4日後の14日午後11時40分、タイタニック号は氷山に激突し、わずか二時間後に沈没。助かったのは七百名余り。そのなかに正文もいた。

 

 

帰国直後正文も、奇跡の生還者として大々的に報じられた。(東京日日新聞 明治45年6月4日)

 

 

ところがしばらくすると風向きが変わる。正文を非難する声が高まったのだ。女子どもを差し置いて助かった。昔の武士だったら生きて帰らない。死んで当然だと。

 

 

生きて帰ったことは間違いだったのか。正文はタイタニックのことを一切語らなくなる。

そして事故から一年後には鉄道員副参事の地位を退くことを余儀なくされる。その後嘱託として鉄道員の職に留まったものの、表舞台からは遠ざかった。家族の暮しも一変する。当時中学1年だった長男の日出児は、この騒動に巻き込まれ、東京から新潟へ転校せざるを得なくなった。

 

 

大正6年、46歳の正文に男の子が誕生する。四男の日出臣で、細野晴臣の父である。

 

 

定年まで鉄道員を勤めた正文は、大正14年(1925年)、岩倉鉄道学校の講師となる。駅の業務や、車掌の業務を教えた。正文の教え子たちは日本国内はもとより、旧満州や朝鮮半島で活躍した。

 

 

そして昭和14年、正文は68歳で亡くなる。最後までタイタニックのことを語ろうとはしなかった。

 

 

ところが家族が正文の遺品を整理していたところ、思わぬものが見つかった。タイタニックから生還した、一部始終を記した手記だった。他の船に救助された直後、この出来事を記憶に留めておこうとしたのだ。タイタニック号の船内からたまたま持ち出した便箋に綴られていた。この手記は現在、横浜みなと博物館に保存されている。

「大事件が発生せしことを知り、命も本日にて終わることを覚悟し、別に慌てず、日本人の恥になるまじきと心がけた」

正文の目の前で降ろされた救命ボートはすでに満員。まわりの乗客たちは、次に降ろされるボートに向かった。もはやこれまでと正文はあきらめ、その場に佇んでいた。するとそのとき満員の救命ボートから声がかかった。「あとふたり乗れる」。その声を聞いたのは正文と、隣にいたアルメニア人男性のふたり。すぐにアルメニア人が飛び乗った。

 

そのときの正文の心境。「最愛の妻子を見ることも出来ざることかと覚悟しつつ、凄愴の思いにふけりし今男一人飛び込むのを見て」。正文も思い切って飛び込む。そして生還を果たした。

 

 

決して卑怯なまねはしていない。昭和17年、家族はこの手記を発表した。しかし戦争中ということもあって、注目を集めることはなかった。 『巨船タイタニックの遭難日記』

 

 

細野家はその後もタイタニックの重荷を背負うことになる。

 

 

 

 

NHK『細野晴臣ファミリーヒストリー』再現 (2/3) へ続く