NHK『細野晴臣ファミリーヒストリー』再現 (1/3) より続く
晴臣の曾祖父にあたる卓二は、幕末の安政四年、現在の静岡県浜松市の河島家に、二男として生まれた。河島家は江戸初期まで遡れる神職の家系で、幕末の騒乱では勤皇を掲げる新政府軍に加わった。戊辰戦争には勝利したものの、田畑を売り払ってまで加勢していた河島家は困窮することになる。ちょうどその頃生まれた卓二は、近くの中谷家に養子に出されることになった。
中谷家は、現在の浜松市大平の農家だった。しかし卓二は農作業が好きになれなかった。周囲の反対を押し切り卓二は単身上京、陸軍に入る。陸軍では会計の職に就き、下士官にまで昇級した。結婚後、長男に続き、晴臣の祖父となる二男の孝男が生まれた。
明治36年、陸軍を退官した卓二は故郷の浜松に戻る。当時9歳の孝男は、浜松高等尋常小学校に転校する。当時この学校には、アメリカ製のオルガンがあった。
明治20年、そのオルガンが壊れたとき、修理をまかされたのが、機械職人の山葉寅楠。この修理をきっかけに山葉は、オルガンの製造に乗り出す。孝男は山葉が創業した日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ)で働きたいと考える。
明治以降の小学校では唱歌が歌われるようになり、オルガンの需要が伸びていた。寅楠は職人を育てるため徒弟養成所を設立する。明治39年、小学校を卒業した孝男は、その養成所に一期生として入所、オルガン部に配属される。
会社は順調に成長、ピアノの生産にも乗り出す。孝男が入社して一年後、会社設立十周年のパーティーが開かれる。ピアニスト澤田柳吉が演奏を披露した。そこで孝男はピアノのもつ豊かな音に魅了される。
その時の感動を孝男は後年、こう記している。「澤田柳吉先生がベートーヴェンの月光ソナタを弾かれた。ピアノ曲という洗礼を与えたようなものであった」
ピアノに魅了された孝男はある日、調律する先輩に弦の張り方をどう調節するのか質問した。すると先輩は、このぐらいだとそっけなく答えた。孝男は納得いかなかった。きっと決まりがあるはずだ。楽譜がきちんと書かれている西洋の音楽の音階を作るにあたって、このぐらいということは絶対ないはずだ。ピアノの奥深い世界に興味をもった孝男は、イギリスの技術書を取り寄せ、辞書を片手に独学で勉強を重ねた。そこには調律の基本となる原理が記されていた。
たとえば音叉を使ってはかる「ラ」の音は、一秒間に440回。この音を基準に弦の張りを調節して、他の音の振動数を変えてゆく。その差が、ドレミファソラシドの音階差を作ってゆく。
研究熱心な孝男は、調律の世界にのめり込んでゆく。誰が弾いても美しい音が鳴るピアノはない。ピアニストの弾き方もバラバラだから、その個性にあった音、音質、それらを求めるのが本当の調律だと孝男は考えた。自分が調律したピアノを弾いた人が、満足そうな顔を浮かべるのが、何よりの喜びだった。
入社から9年後の大正3年、孝男は東京銀座にある東京支店に転勤となる。このころ同じ会社で働く古屋花子と結婚。その二年後、晴臣の母となる長女の玲子が生まれる。
そんな矢先、会社で大規模な労働争議が発生する。これはのちに日本楽器争議と呼ばれるほど激しいものだった。思うように仕事ができなくなった孝男は、会社を辞め独立することを決意する。このとき孝男31歳。調律師としてひとり、生きる覚悟を決めた。
会社を辞め独立した孝男は、調律師としての技術を極めようと必死で努力する。海外の技術書の翻訳にも挑んだ。書き上げた『 ピアノ構成論 』は、調律に繋がる、ピアノの構造を解説した本。
しかしピアノ調律師という本は、世間からはなかなか認められなかった。それでも孝男は信念を貫く。調律師は美しい音を出すことであって、表に出ない縁の下の存在であっていいと。
昭和16年(1941年)、太平洋戦争が勃発。軍事色が一層強まる。贅沢品のピアノの販売は減少し、調律師の仕事は激減した。
そんな孝男にうれしい知らせが届く。長女玲子の結婚。相手は自動車メーカーで働く、細野日出臣だった。
そして昭和20年、終戦。復興と同時に人々は音楽を求めるようになる。そして孝男のもとに、あるピアニストからの依頼が舞い込む。東京音楽学校教授のレオニード・クロイツァー。ユダヤ系のドイツ人で、戦時中はナチスからの迫害を逃れるため、日本で暮らしていた。
孝男は演奏会にも同行した。昭和22年6月、金沢に向かった。新聞にも取り上げられチケットは完売、クロイツァーの戦時中の不遇を知る観客たちは、その演奏を楽しみにしていた。孝男はクロイツァーのしなやかなタッチが生きるようにピアノを仕上げるつもりだった。ところが会場のピアノを見て愕然とする。長期間手入れされていなかったため、弦が切れていたのだ。応急処置として弦を結び、懸命に調律を行なった。
そして開演。やさしい音色が響き渡った。演奏終了後、拍手は鳴りやまなかったという。
音楽専門誌にも、このときのことが記されている。「まるでヨーロッパの演奏会のようだ。ボロ楽器を弾いてくれたことが、観衆を熱狂状態に陥れたのである。クロイツァーの陰に常に忠実に寄り添う、調律の名家中谷氏の苦心があった」
その一か月後、長女玲子が出産、細野晴臣が誕生した。
晴臣は幼いころ、祖父の横でじっと2~3時間、レコードを聴いていた。家族はみんなその姿にいつも驚いていた。
このころ孝男にある思いが芽生える。日本の音楽界を担う調律師の育成をしたい。そして誕生したのが国立音楽大学の調律のコースだった。調律に対する孝男の姿勢は終始一貫していた。黒子に徹すること。調律師は演奏に直接タッチすることはできない。あくまでその場にはいないけれど、縁の下の力持ちであることに喜びを感じるが大切なことなのだと。
昭和43年(1948年)、大学生になっていた晴臣。バンド活動に熱中し、音楽好きの日々を送っていた。
そんなある日、祖父の孝男に調律師になりたいと相談する。すると孝男は即座に晴臣に言った。「おまえには向いていない」。もしこのとき、なりなさいと言われていたら、調律師になっていたかもしれない。晴臣はそう振り返る。
孝男はこう考えていた。「音楽的耳のよさが調律的耳のよさと必ずしも一致しない。音楽を相当やった人が途中から調律志望に転向した場合より、初めから調律に進んだものの方が概してよい」。晴臣の適性を見抜いていたのだ。
晴臣は大学卒業後、本格的に音楽活動を始める。昭和45年、ロックバンド『はっぴいえんど』を結成。日本語でロックを歌うという斬新さで注目を集めた。
その7年後、孝男は83歳で亡くなる。残念ながら、その後YMOを結成し、世界的に活躍する晴臣を見ることはできなかった。
NHK『細野晴臣ファミリーヒストリー』再現 (3/3)へ続く


































