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Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

 

松任谷由実前史 荒井由実ヒストリー拡大版(1/5)

誕生から立教女学院 早熟な天才不良少女

 

から続く

 

 

 

 

 

シングル・デビュー

     荒井由実の歌手としてのデビューは、多摩美術大学に入学した、72年の夏と決まった。そのシングル盤は、村井の旧知のかまやつひろし(当時33歳)のプロデュースで制作されることになった。由実はかまやつのいたスパイダースの追っかけをしていて、すでに顔見知りだった。当然、かまやつはロックにくわしく新しいことに敏感である一方、経験豊かで懐も深い。音楽プロデューサーとしてうまくやってゆけると村井は考えた。

 しかし村井の目論見は外れた。かまやつの主導でレコーディングが行われるはずが、由実は自分のビジョンをしっかりと主張した。

 「ユーミンとはじめて会ったのは69年ごろだと思うけど、このころの若いミュージシャンの多くがウッドストックの影響を受け、それが時代の大きなムーブメントでした。哲学的にものを考える時代で、ユーミンには精神的にも純粋培養されて育ってきたような印象を受けましたね。ユーミンは僕たちでも聴いていないロックのレコードを聴き、単なるロックファンではなかった。子供のようなきれいな顔をして口数も少なくガラス細工みたいで、もしかしたら泣きながら詞を書いているんじゃないかと思ったぐらいです。そのころ僕たちの世界ってどちらかというと四捨五入で、気分で『いいね』とアバウトのところが多かったけど、彼女にはまったく通用しないんです。自分自身で納得しないと、こっちが面倒くさいと思っていても、あらゆる角度から突っ込んでくる。ユーミンは妥協するっていうことが、そのころからないんだよね(笑)。僕はもう、大変な人を引き受けてしまった。村井さんには悪いけど、正直、早く終わって欲しいと思ったし、このときは打ち解けないまま終わりました」(かまやつひろし)

 レコーディングメンバーには、ドラムス高橋幸宏(当時20歳)、ギター小原礼(当時20歳)が参加。由実は自ら編曲、ピアノ、ハモンド・オルガンを担当した。かまやつは、イギリスのストレートなロック風にしようとしたのだが、プロコル・ハルムらのプログレッシブ・ロックを好んでいた本人には受け入れられぬまま、レコーディングは終了した。

 4年後の76年、由実とかまやつは、伝説となったTBSの番組『セブンスターショー』で、メインアーティストとして共演している。おたがいに曲をプレゼントし合い、由実がかまやつにプレゼントした曲として初披露されたのが、名曲『中央フリーウェイ』である。この番組に出演した、のちに由実の夫となる松任谷正隆は、著書『僕の音楽キャリア全部話します』で語っている。

 「この番組では、かまやつさんも由実さんに曲をプレゼントしています。『楽しいバス旅行』という曲です。これはしゃべっていいのかな……。かまやつさんだから許してくれるかな…。この曲、僕は、酔っぱらって一分でつくったんじゃないかと思いました。楽しいバス旅行、ピピッピー、という曲です。これを『いい曲』と言った人もいたけれど、でも、僕はやっぱり一分でつくったんだと思いますよ」

 本人も認めている通り、かまやつはやはり”アバウト”な人のようだ。後述するが、『中央フリーウェイ』を由実は難産の末に生み出した。正隆はそれを「奇跡がおきた」とまでに表現している。音楽に対して一途な由実と、”四捨五入”のかまやつは、水と油だった。

     荒井由実のデビューシングル『返事はいらない』は、72年7月5日にリリースされた。ジャケットには「シンガー&ソングライター界のスーパー・ヤングレディー!」とのコピーが記され、女子大生になったばかりの由実が、スーパーマンのTシャツを着て写っている。

 「最初のシングルができたときは、やっぱりうれしかった。やっぱりね、盤になったから。盤になったからすごいうれしかった。今考えると、最初からメジャー志向ではあったと思うのね。やっぱり商人の娘だからさ。商品として出したものは売れなきゃしようがないっていう感覚はどっかに持ってたんだろうと思う。でも、とにかくできたことがうれしかったのね。半年ぐらいして、シングルを出すなんてちょっと運がよければだれでもやらしてもらえるんだっていうふうに思いだした。だから、次がんばんなきゃなって思ったのね。次をちゃんとしないとしようがないなって」(松任谷由実)

 「シングル盤を出したときに、何人かのプロの人たちが、これはすごいみたいなことをいってくれたの。長谷川きよしっていたでしょう。あの人がなんかわざわざアルファに訪ねてきてくれて、ほかにストックがあったら聴かせてくれなんていったらしいよ。『ひこうき雲』を聴いてもらったら、なんかけっこう大感激したらしいよ」(松任谷由実)

 だが『返事はいらない』は売れなかった。わずか300枚の売り上げとも言われている。しかし村井はまったく気にしなかった。ミュージシャンたちの間の評判は上々である。人前で歌うことに抵抗感をもっていた本人が、レコーディングの経験で苦手意識が少しでも和らげばいい。問題は、アルバムだった。


アルバム

 72年も残りわずかになったころ、村井は社員の一人である有賀恒夫(当時25歳)を呼び、荒井由実のオーディションを行うことを告げた。シングル盤とは異なり、アルバムの制作は桁違いのコストがかかる。アルファは村井中心の組織とはいえ、やはり社内手続きを踏み決定しなければならない。それは、彼女のシンガーソングライターとしての可能性を試すものでもある。有賀は村井と同じ慶應大の出身。2年下の後輩で、アルファにレコード・ディレクターとして入社していた。

 由実がスタンウェイのグランドピアノに向かう。季節は冬。スタジオの空気はひんやりとしていた。弾き語りで『ひこうき雲』、『雨の街を』、『紙ヒコーキ』の3曲が演奏され、その歌声は緊張のせいか時折かすれた。

 有賀が話す。「このときはあまり声も出ていないし、歌は上手とは言えませんでしたが、曲はとにかくいいと思いました。歌詞は一回聴いただけではわかりませんけど、曲はそれまでの誰とも全然違うなって感じたんですね。村井さんと調整室で聴いていて、村井さんが『やってみようか』と言い、僕はうなずきました。それからユーミンは、書きためた10曲を持って来て、僕は何回も楽譜を見直しましたが、作詞のどれもが彼女のそれまでの人生を凝縮したような少女の生き方みたいなものが描かれていました」

 このオーディションで有賀は、すべての曲を2トラックで録音し、村井は録音されたテープを何度も聴いた。村井は、そのときをこう語っている。「語りかけるような歌い方が、それまでのポップスの歌手だちとは違っていた。これは、声質だとか歌う癖に魅力があったということです。社内でもユーミンの応援団が増え、アルバムをつくろうと盛り上がっていたけど、しかし僕は、商品にするまで相当なトレーニングが必要だと感じていました」

 村井と有賀は、由実の歌唱力に不安をおぼえつつも、大きな魅力と可能性に賭けることにした。実は『ひこうき雲』は、由実が作家としてつくり、他の歌手が歌うことになっていた、その候補者のひとりが雪村いずみだった。

 雪村はこの歌を大変気に入り、レコーディングをすでに終えていた。しかし上手すぎた。最高の歌唱力をもつ歌手だったのだが、由実が訥々と歌う方が心にしみた。そのため村井は本人に歌わすことにした。雪村は、「とっても好きな曲。荒井由実さんのまっすぐで素朴な歌声にあこがれてます」と語っていて、90年、当時の音源のまま自分のアルバムに入れている。

 村井は由実のアルバム制作では、新たな化学反応が起きることを期待し、細野晴臣(当時25歳)にサウンド・プロデュースを、細野率いるキャラメル・ママに演奏を依頼した。 

 村井は、長年の有人であり、アルファレコードの創設メンバーでもある川添象郎の家を訪ねたことがあった。その日が細野との出会いの日であった。細野はダイニングに座り込んでギターを弾いていた。村井曰く、会ってわずか30秒だったという。その音の素晴らしさに驚いてしまう。「僕がレコーディングするときは、ぜひ参加して下さい」と、ぞっこん惚れ込んでしまった。由実のアルバム制作に、他の候補はありえなかった。

 キャラメル・ママは、細野率いるはっぴいえんどの解散後、ベースの細野とギターの鈴木茂が、ドラムスの林立夫、キーボードの松任谷正隆(後者三人とも22歳)と共に結成したグルー プである。はっぴいえんどはアルバム『風街ろまん』など、ロックに意図して日本語の詞をのせ、その音楽性は、日本のロックシーンにおいて半世紀が過ぎた今でも高く評価されている。

      細野が語る。「ユーミンの音楽プロデューサーのオファーがありました。村井さんの説明はせっかちですが(笑)、決して自分の美学を押しつけることなく、信頼すると全面的に任せてくれる。だから、やる気が出るんですよね。その後、家に届いたユーミンのデモを聴くと、それなりにまとまりがあるけど、村井さんはこれとは違うものを望んでいるんだろうなと勝手に想像して……また、何にも言わないから余計、大幅に変えちゃおうと思ってね。その曲が『返事はいらない』です。僕はそれを当時好きだったアメリカ風のスカビートでやろうと思った」

 アルファの制作会議で、ディレクターには有賀、エンジニアは吉沢典夫、そしてサウンド・プロデュースと演奏はキャラメル・ママと正式決定した。村井がこれらのことを直接由実に告げる。するとキャラメル・ママと聞いたとたん、悲しい顔を見せた。由実はブリティッシュロック志向であり、キャラメル・ママがやっているウェストコーストサウンドは泥臭くて嫌いで、まったく聴いていなかった。

 「高校の終わりごろになってくると、レッド・ツェッペリソとか、キング・クリムゾソとか、イギリスのハードロックやグラム・ロックみたいなものがすごく好きになってたし、なんかヨーロッパっぽい香りのするものが好きだったのよ。あのころブリティッシュロックが最高におもしろかったときだもんね」(松任谷由実)

 村井も振り返る。「ユーミンは、それはもう決定したことなのでしょうかと言う。自分のバンドをつくり、そのバンドでレコーディングをしたかったようだ。だが僕は却下した。クオリティの高いものにしたいので、僕がもっとも信頼している細野君にしようと…。少し考えてから、彼女は受け入れてくれた」

 レコーディングが開始される前、荒井由実とキャラメル・ママの4人は、新宿のヤマハの練習スタジオで顔合わせをしている。由実と、細野と鈴木・林の3人は六本木のディスコなどですでに顔見知りだったが、松任谷とは、この日が初めての出会いの日であった。

 由実にとっての問題は、音楽面だけではなかった。メンバーのいでたちも、あまりにもアメリカンだった。由実の頭の中にはプロコル・ハルムの『青い影』、キーボード奏者マシュー・フィッシャーの音色が鳴っていたのに、正隆はウェスタンシャツとウェスタンブーツ姿であり、おまけにブリティッシュロックが大嫌いだった。

 細野が語る。「僕らは取っ付きにくかったタイプだったはずです。ファッションはアメリカンでヒッピーですよ(笑)。ユーミンはイギリス仕込みのヨーロッパ的なアプローチで、僕たちに随分と気をつかっていた。よく冗談を言って、それがとてもおもしろかったことを覚えています。でもユーミンは最初のころ音楽的に凄く不安だったと思いますね」

 

 正隆も振りかえる。「由実さんはおそらくもっとシンプルなブリティッシュ・ロックをやりたかったはずなんです。それをぼくらがいろいろといじってしまった。彼女はそういうときに我を張るタイプではないので、どこか引いてしまったんでしょうね。彼女自身はそれほど覚えてないようだけど、ぼくらの演奏に対して少し不満そうな、『わたしはどう弾けばいいの?』みたいな顔をしていたと思う。ぼくもこれでいいのだろうかって、疑問符だらけだった感覚をよく覚えています」


ひこうき雲

 アルバム『ひこうき雲』のレコーディングは、由実の大学1年の終わり頃からスタートしている。キャラメル・ママのメンバーは、各自のパートでそれぞれの個性を発揮した。コードとリズムの簡単な決めごとだけを譜面に書き入れ、あとは細野の「せ~の、ドン」で演奏をはじめた。その光景はまさしく村井がキャロル・キングのレコーディングで見た、フリーなライブセッションのようであった。やがて由実もキャラメル・ママのサウンドに慣れ、両者は融合していった。

 だがヴォーカルの録音は難航した。ディレクターの有賀から、音程に対しての手厳しい指摘が飛んだ。キャラメル・ママのリズム録音のときとは違って、由実一人がターゲットになり、どんよりとして重たくチクチクと張りつめた空気が漂うことになった。他社では譜面を読めないディレクターもいる時代で、アルファのディレクターは誰もが譜面も読めるばかりでなく、音程には厳しかった。そして、特に有賀は妥協がなかった。

 有賀が語る。「レコードはずっと残るものだから、完璧に近いものをつくっていかなくてはいけないという村井さんの考えがあり、それは任されたディレクターの責任でもあるわけです。ユーミンがアルバム用に選んだ十曲について、村井さんは注文を出さなかったし、のびのびと本人のそのままが出るようにしたいと言っていました。僕もそう思っていましたが、歌入れに関しては、基本的な考えが違ったんです。いまなら違わないと思うけど、彼女はそのとき、まだプロじゃなかった。作品には文句はなかったけれど、でも、歌い方、とくにピッチ(音程)がバラバラになるのは許さなかった。発声の先生に習ったみたいな歌い方は不自然だから、語りかけるような歌い方でかまわないからと、そんなことを強要していたような気がします。当時はまだ録音機は16トラックしかなく、それが最新鋭の機材なんです。歌を3テイクぐらい録音して、いいところに丸をつけてピックアップして、そのテープをつないでいく。だけど彼女は、そういうやり方だと自分の気持ちがつながらないと言うわけです。哀しそうにスタジオの片隅で泣いていることもありました。ユーミンはなんとか自分を出そうとしていたし、僕もディレクターとしての自分を出そうとしていて、歌い方に関してはずっと対立していました。潜在的な力のあるアーティストに対し、ディレクターはある種そういう闘いがあるものじゃないかと思います」

 「レコーディングの際は、歌声だけを取り出してチェックすることを嫌がっていました。『まるでトイレのドアを開けられたような気分』とも言った。これはさすがの表現でしょう。たしかに、『ひこうき雲』をレコーディングしたときの歌い方にはクセがあった。彼女のビブラートは細かく声を震わせる、いわゆる『ちりめんビブラート』でした。これでは、どうしても歌が不安定に聴こえてしまう。その部分だけは譲れず、ビブラートをかけない歌い方に矯正しました。しかし、その習得は簡単ではない。彼女も相当な努力を重ね、自分の歌い方を手にいれたんです。歌手としてデビューしてからも、彼女の声が変だとあげつらう評論家は多かった。しかし、そんな雑音は長くは続かない。音楽が本物で、その声には何にも代えられない魅力が宿っていたからだ」
 
 一緒にいたエンジニアの吉沢が振り返る。「歌は時間がかかりましたね。ユーミンから『何とかしてください、吉沢さん』って相談されたこともあったけど、でも僕から有賀君には言えないですよ。有賀君は本当に厳しかった。僕らエンジニアは、ミュージシャンの出している音を素直に録りたかったし、温かみを求めるとか、音づくりにしてもいろいろ工夫しました。それにしてもユーミンは長いあいだよく頑張ったと思います」

 キャラメル・ママのメンバーも、録り直しをくり返す有賀を見かねて言った。「有賀さん、ユーミンの声の震えはシンガーとしての持ち昧だから、これは生かしたほうがいいと思いますけど…。何度も録り直しをしていると、そのうちハートがなくなっちゃうような気がします。僕たちはその場の雰囲気を大事にしたい」

 上のメンバーの言葉は、『村井邦彦の時代』からの引用であるが、これは松任谷正隆の言葉と思われる。その著書『僕の音楽キャリア全部話します』に、こう書かれてある。


 「レコーディングには1年くらいかかりました。由実さんの歌に有賀さんがOKを出さなかったからです。由実さんの声には微妙なヴィブラートがかかっていて、それを取り除くために、彼女はヴォーカルのレッスンに通わされました。(中略)でも、僕はね、ヴィブラートがかかったままがいいと思ったんですよ。デモで歌った声は十分に魅力があったからです。無理やりヴィブラートを取ると、歌がどんどん無機質になっていくように感じました」

 しかし有賀は少しも表情を変えず言った。「このアルバムはずっと残るものですから、ストレートに歌ってください」と、一歩も譲らなかった。また有賀や吉沢がいいと思っても、今度は村井が「ミックスのバランスが悪いね」などと、やり直しを求める場面もあった。社内の制作会議では、「完璧なものが仕上がるまで、荒井由実のアルバムは出さない」と村井が断言し、大幅に遅れたスケジュールは完成日を設定しないことになった。出口の見えないトンネルに入ってしまったレコーディングに不安にかられた社員も多かった。彼らに対し村井は、「いい音楽は、必ずお金に換算される」と話した。

 歌入れで特に苦労したのは『雨の街を』だった。由実は、この歌がいまでも一番好きだという。しかしレコーディングではうまく歌えず、苦しい日々が続いていた。今日こそはOKをもらおうとスタジオに入ると、ピアノの上に牛乳瓶にさした赤いダリアの花が一輪だけ無造作に飾られ、そこだけスポットライトがあたっていた。レコーディングの途中から付き合いが始まっていた正隆だった。前日に由実と井の頭公園を散歩しながら、「ダリアが好き」と聞いていた。この日、『雨の街を』の録音を終えることができた。

 この引用文も、『村井邦彦の時代』からである。だが正隆の本によると、ダリアの花も有賀へのレジスタンスであったという。

 「レコーディングの最後の曲『「雨の街をは、なかなかうまくいかなかった。(有賀による矯正では)『雨の街を』という作品そのものにも深みがなくなっていくようにも思いました。ピッチの正確さは確かに大切です。でも、そのシンガーの持つ情緒を取り除くのはバッド・ディレクションだと感じました。でも、僕の意見は受け入れられません。立場は、セッション・ミュージシャンですから。由実さんのファンの中でよく知られているエピソードの一つに、一輪のダリアの話があります。レコーディングを行っていた頃、二人で井の頭公園を散歩していて僕が好きな花を訊いた。彼女はダリアと答えた。その翌日、スタジオを訪れると、ピアノの上に僕が置いた一輪のダリアがあって、『雨の街を』の歌入れがうまくいったという話です。このダリアの話は恋愛の甘いエピソードとして語られることが多いけれど、あれはディレクターのディレクションに対する僕の意思表示でした。ピッチも大切だけど、エモーションのほうを優先するべきたというね」

 さて、いよいよ、アルバムのタイトル・チューンとなった『ひこうき雲』の歌入れが行われた。ピアノの前奏が静かに流れ、荒井由実が歌いはじめた。

白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる
空に憧れて 空をかけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

 歌が終わると、スタジオに集まった社員のなかには目頭を熱くする者もいた。この曲が、病で亡くなった友人の短かった命を、空に流れる飛行機雲にたとえてつくられたこと、そして本人が涙を流し歌えなくなるときがあったことを誰もが知っていた。

   73年の初秋、『ひこうき雲』のレコーディングが終了した。アルバムジャケットのアイデアは本人によるもので、教会音楽に影響を受け、中学のころから好きなドイツのクラシックレーベル、アルヒーフレコードを模してデザインされた。だが後から問題になり、途中から変更されている。どちらも、タイトル以下、曲目やバックミュージシャンの名がすべて横文字で列記されていて、73年当時の邦楽レコードとしては、かなり冒険的なデザインである。インナーは、少女をモチーフとしたエッチングを由実自身が描いた。

 『ひこうき雲』は荒井由実の十代の思い出が詰め込まれ、十代の最後につくられた作品となった。このアルバムには『ひこうき雲』がオープニングとエンディングに2曲入っているが、エンディングで歌われているものは、オーディションのときに有賀が調整室でテスト録音していたもので、これを残そうと取り入れたのは有賀の考えだった。

 「ユーミンとは、アーティストとしてかなり闘ったと思う。彼女には悲しい思いもさせたけど、とにかく一所懸命でした。随分たってからユーミンが、ストレートに歌うっていうのを有賀さんに教えてもらって良かったという話をどこかで聞いたことがあります」(有賀恒夫)

 レコーディングから三十余年経って、NHKの番組収録で由実と有賀は再会。番組内で由実は、感謝の意を有賀にあらわしている。

 同アルバムに収録されている『恋のスーパーパラシューター』は、ジミ・ヘンドリックスが米軍のパラシュート部隊として戦争へ行ったことを知ってつくられたもので、『ベルベット・イースター』は、立教女学院でのイースター復活祭や横田基地で体験したハロウィン・パーティなどが下地になっている。こういった時代背景と共に自身の感性を歌にする作家、荒井由実の発想とセンスは際立っていた。

 林立夫は語る。「ユーミンの曲は素晴らしかった。こんな曲が書ける人がいるんだって思いました。スタンダードジャズ、フレンチポップスやブリティッシュロック、すべてのジャンルの一番珠玉のエッセンスが次々と現れるんです。これはいけるって、演奏しながら僕らは目を合わせてにやにやしてしまって。彼女のメロディを聴き、歌詞を読んで、コードを追うのが宝さがしをしているみたいで楽しかった。ユーミンは歌詞に入り込みすぎないんです。一歩引いた語り部というか、映像的っていうのかな。シーンを俯瞰する歌い方だから、リスナーは曲の中に自分を置くことができる。シンガーソングライターゆえの作家性もあって絶妙だった」

 本人も振り返る。「キャラメル・ママとは、新宿西口のビルの中にあった、ヤマハのスタジオでリハーサルをしたの。5人で車座に座って、弾き語りのデモ・テープをもとにヘッドアレンジしていった。何小節目から入るとか、簡単に打ち合わせして、何度か演奏して決めていった。そのころわたしはブリティッシュぶりっこだったから、最初は音のとり方が違う気がしたけど、だんだん自分の声と合わせるのは、こういうサウンドかもしれないと思うようになった。私の曲は、コード進行が何者でもなかったりするでしょ。ジャジーなところがあっても本当にジャズをやっている人にとってはジャズじゃないし、フォークのようでもフォークじゃない。そのとらえどころのなさと、キャラメルママのとらえどころのなさが、別物なんだけど、うまくあったんじゃないかしら。同時代的にキャラメル・ママのような人たちと出会えたのは、ほんとうに幸せだったわね」


反響

 村井は出来上がったばかりの録音を、音楽プロデューサーであり、村井とともにアルファを設立した川添象郎に聴かせている。

 「僕はユーミンがヘアーの楽屋に遊びに来ていたころから作家としては知っていたけど、まさか自分で歌ったアルバムをつくるとは思ってもいなかったのでびっくりした。何より詞も曲もいい。『曇り空』なんていうのは、もうあの当時ですでに細野君たちのつくり出したリズムは16ビートだからね。すごくうねってくるサウンドだった」

 村井はまた、暁星の学友、中村吉右衛門を自宅に招いて、その音源を聴かせている。その様子を中村が、2003年に連載していたサンデー毎日のエッセイに記している。

 「もう以前のことになりますが、友人の村井がレコード会社を立ち上げて、社長業と作曲業をバリバリやっていた時です。(中略)『聴いてもらいたいものがあるから家へ来てくれ』とのこと。(中略)彼のレコード会社かどうかは忘れましたが、とにかく、若い女性のシンガーソングライターを売り出すことになったが、二人いるので聴かせるから感想を述べてくれということになりました。聴いてみると一人はきちっとした歌い方で、声も奇麗でしたがなんとなく魅力がありませんでした。もう一方の女性は素人のわたしには音程が危うく、声も素晴らしく良いようには思えませんでした。しかし、どこがどうとはいえませんが何故か引き込まれるような、魂に響くような歌声でした。わたしは友人に、後の人のほうが魅力があるように思う旨を告げると、『ふ~ん、君もそう思う』とのことでした。専門家と同じ意見だったので、『うむ、俺の耳もたいしたものだ』なぞとひとり悦に入って友人宅を後にしました。そう、わたしが気に入ったほうのシンガーソングライターが『ユーミン』だったのです」

 荒井由実のデビューアルバム『ひこうき雲』は、クラシックの作曲家からも賞賛された。オペラ『夕鶴』、童謡『ぞうさん』の作曲者であり、エッセイ集「パイプのけ むり」でも著名な團伊玖磨は、『ひこうき雲』を次のように評している。

 「はじめにきいたのは『紙ヒコーキ』『ひこうき雲』など。それからはいろいろ。それらを耳にして、非常に驚き、感激もしたのです。なぜならば、そこには、過去の日本の作曲家がやろうとしてできなかった、べたべたしたものからの飛躍があったからです」(「朝日新聞」77年1月11日夕刊)

  曲を書くことは絵を描くことに近い、メロディーは形、詞は構図、そしてコード(和音)は色彩なのだ、と美大出身の由実は言う。

 「ドミソ(C)という和音がはっきりとしたオレンジ色だとしたら、そのうえにシというメジャーセブンの音を加えると、もっと白っぽい、桃色みたいな音になる。マイナ ー(短調)のラドミ(Am)が紫色だとしたら、ドミソの下にラをつけたラドミソ(Am7)というコードは、オレンジと紫が混ざりあって、微妙なバイオレットみたいな色になっていく。曲というのは、色彩が流れて行く経過がすべてと言ってもいいくらい。自分の特徴は中間色にあると思います」(松任谷由実)

 フォークソングの歌手たちがギターを使い、限られたコードフォームを行き来して曲を作るのに対して、ピアノで作曲するユーミンは、コードにしばられることなく、 ひとつひとつの音を自在に組み合わせた。 日本語は抑揚に乏しく、だからこそ歌手はこぶしを利かせ、メロディーを崩して歌う。しかしユーミンはテンション(コード外の音)を有効に使い、コード進行に意外性を与えると共に、平板単調になりがちな日本語のメロディーラインにスピード感や浮遊感を出すことに成功した。
 
 C・U・チェンも、由実の初のアルバムができた当時をこう語る。

 「『ひこうき雲』は、人の死をとりあげながらも、重々しくないメロディーとアレンジが印象的です。当時の彼女は純粋に、真剣に自分の人生や将来をみつめていた。だからこそ命をテーマにしたあの曲を書いたんじゃないでしょうか。最先端のスタジオに最高のミュージシャンが集まり、好きなだけ時間をかけて作ったからこそ、あれだけの作品になったんでしょうね。レコードが完成した後、ユーミンはわざわざ僕の家まで届けてくれたんですよ。『これ作ったのよ』って。とてもうれしそうだった」

 

 

 

 

 

荒井由実ヒストリー拡大版(3/5)