から続く
マネージャー
村井には決めなければならないことがあった。荒井由実をマネジメントする芸能プロダクションである。アルファは音楽出版社であり、マネジメント業務はアウトソーシングしていた。ガロは田辺エージェンシーに頼んでうまくいっていた。荒井由実も同じラインでいこうとしたが、村井は彼女は楽曲や性格の点で、田辺エージェンシーに限らず、芸能界の気質には馴染めないのではないかと感じていた。
そこで、阿部義弘(当時43歳)という古くから知る芸能界のベテランに相談を持ちかけた。阿部は、村井よりも一まわり年上で文学座の制作部長をつとめた人物。屋台骨を支えていた女優の杉村春子の強い要請で入座し、演劇制作の責任者として松竹と提携して、京都の南座の公演を実現させるなど積極的な営業力を持ち、特に地方の興行について詳しかった。
村井は、単刀直入に切りだした。「阿部さんに、荒井由実という新人のマネジメントをしていただきたい。アルファにデスクを置いて一緒に仕事をして欲しいんです」。すると不思議な縁だが、阿部は荒井由実をよく知っていた。以前、文学座で杉村春子の劇場公演があるたびに、応援してくれていたのが八王子の荒井呉服店だった。由実は、チケットのまとめ買いをしてもらっていた上客の娘だった。
阿部は語る。「マネージャーをやってくれないかと言われまして、由実さんのことはお世話になっていた荒井さんの娘さんということで、子どものころから知っていました。でも、私は音楽は素人で、おたまじゃくしは読めないし困りましてね(笑)。村井さんにおだてられたり引っ張られたりで、結局やることになりましたが、最初『ひこうき雲』を聴かされて、村井さんに『どうですか?』と聞かれても、私にはいいんだか悪いんだか、『念仏みたいに聴こえる』って言ったら、『阿部さん、これがわからないようじゃ、この世界から手を引いたら』なんて冷やかされましてね、参りました。お引き受けしてから、八王子へ挨拶に行くと、奥さまが娘の芸能界入りをとても心配なさっていて、ためらいを感じました。私もいろいろな役者さんを見てきましたが、すぐに売れてゆく人もあれば、ある時期までよくて消えてゆく人もいます。この世界は、子どもより親の気苦労があるんです。私は『ひこうき雲』の清冽な詞には胸を打たれましたが、正直なところ、そのときは由実さんの才能を見通すことはとても出来ず、奥さまには助言出来る立場ではありませんでした」
こうして阿部は、主にコンサートのマネジメントを手がけることになる。その手足となる現場のマネジメントは、アルファのアルバイトから社員になったばかりの嶋田富士彦(当時21歳)が担当することになった。
東芝EMI
73年、東芝音楽工業は、イギリスの大手レコード会社EMIとの合弁により東芝EMIとなっている。荒井由実のレコードは東芝EMIからリリースされることになった。村井は赤坂にある同社へ、『ひこうき雲』の販売会議のため何回も通い、初回のレコードプレス枚数の話を進めていく。相手が荒井由実を評価する材料は、新作の『ひこうき雲』だけだ。
村井は担当者たちから、このアルバムがフォークか、ロックか、アイドルなのかを問われた。レコード店はジャンルごとに歌手を振り分けていた。フォークなら吉田拓郎が、歌謡曲には美空ひばりが棚に入っている。ジャンルが決まらないと、レコード店の売り場コーナーの見通しがつかない。村井はいずれにも置きたくなかった。村井でさえ荒井由実の音楽をそう簡単に説明することはできなかった。のちに世に浸透し、由実のアルバムが入ることになる、「ニューミュージック」なる言葉はまだ存在していなかった。
村井の赤坂通いが続く。詞や曲の新鮮さや、キャラメル・ママのリズムアレンジなどの説明を繰り返すが、歌謡曲路線を歩んできたベテランのなかには、揚げ足をとるかのように詞の難解さや歌唱力を問題にする者もいた。そこで提示された初回のプレス数は3000枚。フォーク、歌謡曲、アイドルとは別のものだということは理解してくれたが、それ以上の数字が出ることはなかった。
当時としては、この枚数は決して少なくはない。だが算盤勘定をすると、アルファには原盤使用料としてLPレコードの定価(当時2300円)の約10%から12%が支払われるとしても、3000枚ではスタジオ使用料さえも賄えない。村井が『ひこうき雲』に投下した資金は、1年近くかかったレコーディングや重厚なレコードジャケットからして桁違いだった。通常のレコーディングは3ヶ月間でも長いとされていた。しかし村井は、どこまでも前向きであった。プロモーション用の映像もつくり、協力を惜しまないレコード店にサンプル盤と一緒に配ることにした。
現在、『ひこうき雲』の発売日は73年の11月20日となっている。しかし当初は10月5日だった。それが25日に延期になり、さらに翌月の5日に延び、結局、その半月後にようやく店頭に並べられた。新しすぎてわからなかったのか、どのレコード店からも注文がなかったのだ。
73年も押し詰まったある夜、村井は四谷にあるジャズハウスの前を車で通りかかった。この店はレンガ蔵の一軒家で音楽関係者によく知られていた。村井は何の気なしに店の入り囗に目をやると、暗がりに知り合いの顔を見つけ車を停めた。「お久しぶりです。村井です」。相手は東芝EMIの洋楽部の下河辺晴三(当時29歳)だった。中学・高校と同じ暁星の2年上でジャズや海外の音楽に精通していた。二人は、久しぶりということもあり、近くのホテルのラウンジで話を交わした。
下河辺は、主にザービートルズやジェームス・テイラーなどの洋楽の販売担当で、村井が自分の会社をつくり、ヒットメーカーとして活躍していることや、自社に打合せに来ていることを知っていた。懐かしい同窓生と会話が弾むなか、村井は「うちの荒井由実、知っていますか?」と訊いてみた。評判なら洋楽部でもレコードぐらいは聴いているかもしれない、という期待感があった。
しかし、「えっ、誰ですか?アライユミって。悪いけど僕は知らないなあ」。注目されていないと察した村井は、デビューするまでのいきさつやアルバム制作にキャラメル・ママが参加したことなどを説明。ぜひ意見を聞かせて欲しいと頼んだ。暁星同士は、話が早い。「わかりました。さっそく邦楽部でレコードを聴いてみますよ。アルバム1枚だけじゃ評価は下せないと思うけど、その人は2枚、3枚とつくっていくうちに、誰しもがその実力を認めることになるんじゃないかな」
村井は下河辺なら、きっとわかってくれると思った。下河辺は翌日、邦楽部へ行く。「荒井由実って、うちから出てるんだって?」 「出てるよ。『ひこうき雲』だろう」 「どのくらい売れてるの?」 「300枚もいってないな」。アルバ厶を手にした下河辺は、売れないのは難解そうなレコードジャケットのせいかななど思いながら、さっそく試聴室でレコードに針を落とした。そのときのことを下河辺が語る。
「聴いたとき、これは日本人のつくった洋楽だと思いましたね。言葉は日本語だけど、センスは洋楽。これじゃ邦楽の連中が戸惑っても仕方ないと思ったし、村井さんって相変わらずセンスのいいことをやるなと感心しました」
さっそく村井に電話をかけ素直に感想を話し、その後アルファを訪ねた。「下河辺さんが本当に気に入ってくれたなら、プロジェクトに入って一緒にやってもらえませんか?」
村井は、下河辺なら新たな力になってくれると思った。その後、下河辺は、新しくつくられた邦楽制作第三グループへ異動となり、荒井由実の担当となった。以降、松任谷由実時代の『紅雀』から『LOVE WARS』までのオリジナルアルバム17作品、15年にわたり担当をつとめた。下河辺は青山学院大学時代にバンドに熱中し、卒業まで7年かかっている。5年目のときに東芝のアルバイトで、『愛の讃歌』などを大ヒットさせ、シャンソンの女王と呼ばれた越路吹雪の運転手の経験を持つ。このアルバイトで、頂点を極めたスターの仕事に取り組む厳しさに接した経験から、他の社員とは違う視点を持っていた。
下川辺は新しい部署の名刺が出来たころ、荒井由実と会社のロビーで初めて会った。そのときの印象をこう語る。「普通に会話もするし、気取ったところもない普通の女の子でしたが、でもどこかが違う。これからは芸能人でもフォークシンガーでもない、オリジナルの曲をつくれる彼女のような女性アーティストが大衆に受け入れられる時代が来ると思いました」
だが下河辺が由実の担当となるのは先のこと。東芝EMIは、「レコーディングは何回でもやり直しが出来るが、人前で歌うのはとにかく慣れること。これまで人前で歌ったことがないのなら、コンサートを早々に準備して欲しい」と村井に要望していた。客の反応を知るためばかりではなく、ステージ経験を積ませる必要があった。
初ステージ
73年6月、東京・渋谷にファッションビル、『パルコPart1』がオープンしている。パルコ前の通りは、それまで「区役所通り」と言われていたが、いつの問にか「公園通り」と呼ばれるようになった。パルコの9階には、西武劇場(85年にパルコ劇場と改称)という客席数458席の小ホールが完成していた。村井は、流行を意識した若者たちが人気ショップの並ぶパルコに集まり始めたことに目をつけ、西武劇場のステージに荒井由実を立たせてみようと考えた。
その前に、まずは小手調べということで、73年11月、國學院大学の学園祭で由実は歌っている。学園祭でのこの種の催しは、まだ一般的ではなかった。学生たちは興味津々で聴き入ろうとした。だが由実は、『ベルベット・イースター』と『ひこうき雲』をピアノの弾き語りで始めたものの、緊張から途中でつまづいてしまい、最初からやり直した。
11月20日に荒井由実のファーストアルバム『ひこうき雲』がリリースされると、12月26日、「村井邦彦スーパーセッション Introducing Yumi Arai」と題したコンサートが西武劇場で開催された。ガロ、かまやつひろしらが応援出演し、ステージの演出は川添象郎が担当している。もっともこのステージは、業界関係者へのお披露目を目的としていた。そのため、チケット販売には力を入れていない。当夜MCをつとめた村井は、「プレイガイドで売れたのは2枚だけ」と明かしている。
当夜、荒井由実がステージに登場しスポットライトが当たると、客席はざわついた。フォークシンガーなら、ジーンズにTシャツ、サロペット、チューリップハットなどカジュアルファッションが普通である。しかしこの新人は、真っ白なタカラジェンヌのようなスーツ姿であらわれた。由実を可愛がっていたキャンティの川添梶子が、友人であるサン・ローランの衣装を準備してくれた。梶子は「この子は絶対スターになる」と、みなに触れまわっていた。
ピアノを弾きながらの歌がはじまる。しかし声は小さく、こわばった様子が観客に伝わっていった。2曲目を終えると、由実は川添に指示された通り、観客に向かって話をしたが、本人の心臓の鼓動が聞こえそうなぐらい客席は静まりかえってしまった。舞台の袖で見ていた村井は、川添とともに苦笑するしかなかった。川添は、村井から本人が人前で歌うのは苦手ということを聞かされていた。リハーサルでは細やかな指導をおこなっていたが、初の大舞台ということもあり、由実は想像以上にぎこちなかった。
このステージの記述は、『村井邦彦の時代』からの引用した。しかし別の資料である、『松任谷由実1972ー2011フォトストーリー』には、本人自身が語る、さらに混乱した様相が記されている。
「人生最初のステージは、真っ白のタカラヅカみたいなスーツを着て、弾き語りで4曲歌ったんですけど、1曲目の途中から歌詞を忘れて、ずっと泣きっぱなし。極度に緊張してたから、でしょうね、よく覚えてないけど(笑)」。また別の資料にある当夜の観客は、「彼女は登場するなり泣いちゃって、メロメロ状態・・・」と証言している。
つまり、どうやら『村井邦彦の時代』の情景描写は、いささかオブラートに包まれているようだ。本人や観客の言葉が、真実の姿であったと思われる。表舞台が苦手で、歌手にはなりたくなかった由実の懸念が当たってしまった。荒井呉服店の裁断の台の上でマンボを踊っていたゆみすけの面影は、どこかへ消えてしまっていた。
しかし普段の由実は快活な明るい女の子だった。この夜のみならず、以降もバック・バンドをつとめたパパ・レモンのメンバー平野肇は、初めて会ったときの印象を、著書『僕の音楽物語』でこう語っている。
「19歳の多摩美の学生と聞いていたので、もっと幼いイメージを持っていた僕は、一瞬とまどってしまった。背が高くてモデルっぽく、(平野の在籍する)慶応のキャンパスでは見たことない派手なメイクに少々たじろいだりもした。どんな挨拶をしたか憶えていないけれど、歌のときとは違って低い声で、話しはじめるとどこかのオバちゃんみたいに、気さくでまったく気どっていない。モデル然とした風貌と、話しっぷりの落差が印象的だった」
デビューコンサート
こうして業界へのお披露目は、曲がりなりにも済ますことができた。村井が、一般向けの荒井由実の本格的なデビューコンサートを行うことを阿部に伝えたのは、74年1月のことだった。地方の興行に詳しい阿部は、京都にある京都産業会館『シルクホール』を会場に選んだ。
なぜ京都なのか。阿部がこのホールを選んだ理由は、荒井呉服店だった。由実の実家は京都に着物関係の取引先や知り合いも多く、招待者を多く望めると目論んだ。また、親の気持ちになるならば、娘の初のリサイタルとしてこれ以上の場所はない。
村井はベテランの阿部から、それなりの目算があることを感じとっていた。だが村井とスタッフたちは、シルクホールの客席数が760席ということを知らされる。渋谷・西武劇場では、ガロとかまやつひろしと組んでも458席だった。なのに、かけ出しで無名の荒井由実一人では冒険が過ぎると、危惧する意見があがった。
村井はその会議の場で、「京都は僕も知り合いが多いから、勝さんなんかにも声をかけてみるよ」と阿部をフォローした。勝さんとは俳優の勝新太郎のことで、村井は本人主演の映画『顔役』(71年)を手はじめに、数多くの映画音楽を担当している。勝に電話をすると、「よしわかった、心配するな。何十人でも連れていくから、俺に任せておけ」という豪快な声が返って来た。
勝は村井より14歳年上で当時43歳。芸能界の大先輩であり、村井はその豪放磊落な人柄に接するほどに惹かれていた。だが勝の映画は撮影に懲り、時間がかかる。さらなる撮り直しや編集作業を経て、ようやく音楽の尺が決まる。上映まで1週間しかないという作品では、村井は京都に泊まり込み、徹夜で曲を書き上げていた。予算も撮影に使いすぎ、音楽にまで落ちてこなかった。勝は村井が京都に足を運ぶ都度、有名どころの店でごちそうしてくれていた。
74年4月13日に京都で行われたデビューコンサートは、『FIRST IMPRESSION 荒井由実コンサート』と題された。前々日、由実らの一行は、数台のクルマに分乗し、京都へ向けて出発した。由実は松任谷正隆のマイカーの助手席に乗り、二人はすでに一緒にいることが当然になっていた。
パパ・レモンの平野は正隆の慶応の同級生である。このバンドを由実のバックに抜擢したのも正隆だった。「ほかのミュージシャンと一緒にツアーをまわらせるのが不安なんだよね」。正隆は、そんな嫉妬心を平野に洩らしている。
泊まったのは、京都風の老舗旅館ではなく、修学旅行で使われる、ごくふつうの宿だった。公演前日は、楽器店である京都十字屋でのサイン会と、KBS近畿放送の公開収録出演など、プロモーションをそつなくおこなった。
当日は、開演前から並ぶ若者たちの他、着物姿の年配者の姿が目立った。シルクホールの階下には、室町通りという、着物関係を取りあつかう問屋街が軒を並べていた。上得意の荒井呉服店の愛娘のため、仕事を終えた関係者が、大挙してエレベーターで昇ってきていた。勝も祇園の芸妓や映画仲間を大勢連れてきた。
スタッフの一人が、「今日集まった客たちは、ユーミンの本当のファンが少ないよ」と、阿部の痛いところを突いた。リハーサルを終えた由実は、ごったがえすロビーで知り合いに挨拶をくりかえした。おそらくは母親の芳枝が引き回したのだろう。その姿を見た川添は、「ファンタジーを仕事にしたら、ロビーなんか歩きまわったらだめだ」と苦言を呈した。
コンサートが中盤になると、勝が薄暗いなかごそごそと動き席から離れた。勝は真剣な目で村井に言った。「俺も歌った方がいいんじゃないか。何なら歌おうか」とステージに向かおうとした。盛り上がりに欠けると感じたのだ。
親分肌である勝の、観客にサービスをして盛り上げようという、その気持ちはありがたい。だがそんなことをされれば万事休すだ。すべてがぶち壊しになってしまう。ここはどんなことがあっても阻止しなければならない。村井は「そのお気持ちはとても嬉しいですけれど……」と言いつつ、「初めてのリサイタルなので本人に任せておきましょう」と丁寧に断った。すると勝は「そうだよな」と、何もなかったように席に戻っていった。
京都公演のあと、一行はその足で神戸の甲南大学へ向かい、キャンパス・コンサートをおこなった。由実はここでも緊張していた。ナレーションもぎこちなく、普段の会話で出てくる得意の小話やダジャレ系のネタがすべり気味だった。
すると由実は突然、「風邪気味なので失礼して・・・」と、ピアノ椅子に座ったままティッシュをとりだし鼻をかんだ。その音が会場に響き渡った。これで空気が一気に変わった。やんやの拍手と「がんばって!」の声援がとんだ。予期せぬハプニングで由実もすっかりリラックスし、いいコンサートとなった。
深夜放送
荒井由実が初めてプロのステージを経験したころ、『ベルベット・イースター』が、あるラジオの深夜番組から毎週流れている。深夜放送は、65年に文化放送が若者向け番組として『真夜中のリクエストコーナー』をスタート。これを皮切りに67年にTBSの『パックインミュージック』、ニッポン放送で『オールナイトニッポン』が始まり、69年には文化放送の『セイ!ヤング』が放送を開始し、いずれも全国の若者の心をつかんでいる。音楽は担当のディスクジョッキーの好みで選曲されたが、プッシュされた新曲からはヒットも生まれていた。レコード業界にとっては、若者音楽のプロモーションの重要ポイントだった。
荒井由実に真っ先に興味を示したのは、TBSのアナウンサー林美雄である。当時30歳になったばかりの人気ディスクジョッキーで、70年からパックインミュージックの金曜日(木曜深夜)の二部(午前3時~5時)を担当していた。林は、ヒットチャートや話題になっているレコードには興味を示さず、自分で観た邦画のスクリーンミュージックから隠れた名曲を探り出し番組で流した。そんな林の選曲を学生時代から気に留め、番組をよく聴いていたのがアルファの宣伝担当の布井育夫だった。林ならきっと気に入ってくれると、『ひこうき雲』のサンプル盤を手渡していた。
林は94年のインタビューで、当時のことをこう語っている。「アルファの布井さんが僕のところへよく来ていたのですが、『ひこうき雲』のそれぞれの曲を解説してくれ、とにかく熱心でしたね。すぐにアルバムを聴き、僕は直感でいいと思いました。そこでレコードを1回かけるだけでは多くのリスナーには届かないと思い、『ベルベット・イースター』を半年間、流すことにしたのです。それがとても反応が良かった」
林のパックインミュージックは、「林パック」と呼ばれていた。林は由実を「八王子の歌姫」と命名し、ほかの番組では『ひこうき雲』がかからない中、前週は3曲、今週は4曲と、『ひこうき雲』を紹介し続けた。
由実も語る。「私はどこにも属していなかった。メジャーだったわけでもないし、サブカルという言葉も、おたくという言葉もまだなかった。周囲がジャンルを決められない中、私を受け容れてくれた場所が林パックだった。林さんにとっては、ほかでどう評価されているかは関係ない。自分自身の評価だけを大切にしていた。そういうことができる人であり、時間帯でもあったんでしょうね。今にして思えば、林さんの世界と私の音楽は、センチメンタルでロマンチックという点で一致していたと思います」。
由実は京都に続いて、東京でのデビューコンサートを、4月21日、『ヤクルトホール』でおこなった。ここも席数が550席ある。縁故動員した京都のときとは違ってチケットの売れ行きに苦戦し、半分も売れない。スタッフ関係者は総出で友人知人親戚に売り配りまわった。それでもさばけず、村井たちは急遽ラジオ局を中心としたプロモーションを組んだ。
切り札はやはり林パックだ。深夜の3時過ぎ、本人がゲスト出演すると、林が熱のこもった声で「荒井由実の東京のデビューコンサートへみんなで行こう!」と、高校生や大学生のリスナーへ訴えた。その一言が効いたのか、当日は春の嵐のような悪天候だったが、客席には男子学生の姿が目立った。
嶋田は語る。「林美雄さんはデビュー間もないユーミンの数少ない貴重なブレーンのおひとりでした。特にヤクルトホールのデビューコンサートは、アルファの新入社員だった私が制作を担当したために、チケット代が1500円と高額になってしまい(ちなみに前年9月の『はっぴいえんど解散コンサート』の前売り券が1000円)、チケットは半分も売れませんでした。もちろん、林パックにも出演させていただいて宣伝させていただいたのですが、まだ危機的状況だったので、再度林パックに出演させて頂きました。おかげさまで、林さんの『みんな、男の心意気でユーミンのコンサートに行ってあげようよ!というひとことで、コンサートは満員になりました。私から見ますと、このヤクルトホールのコンサートで多くの林パックリスナーに温かく見守られてライブパフォーマーとしてのスタートを切れたことは、その後のユーミンのアーティスト活動に大きく影響していったと思います。私は、林さんには足を向けて寝られません。ユーミンも林さんにはすごく感謝しているはずです」
林パックの熱心なリスナーの一人であった沼辺信一は、突然現れた天才少女の衝撃を、のちに自身のブログに次のように書いている。
《林さんは『ひこうき雲』が世に出てすぐ、1973年秋からユーミンの紹介を始めるのだが、誰もが寝静まった深夜から早朝にかけてラジオから流れてきた『ひこうき雲』や『ベルベット・イースター』には格別の味わいがあった。こんなにも繊細で内省的な音楽を紡ぎ出す少女がこのニッポン国に出現したのだ、という予期せぬ驚きと嬉しさに心が震えた。番組の最後に『雨の街を』がかかり、そのあとトランジスタ・ラジオを切って外気を吸いに表へ出ると、白々と明けてきた街路はひっそり静まりかえっていて、まるで歌の世界のまんまだと、ひとりごちたのを今でも憶えている。》 (沼辺信一のブログ「私たちは20世紀に生まれた」)
沼辺は東大文学部で西洋美術史を専攻する学生である。西洋古典美術とクラシック音楽の両方に精通する沼辺は、林が独自の感性で紹介する、邦画や音楽に深く共鳴するようになり、林パックの熱心なリスナーとなった。
林パックのリスナーたちは、荒井由実のデビューアルバム『ひこうき雲』に収録されたすべての曲を熱烈に愛した。しかし、彼らが最も深く愛した一曲を挙げるとすれば、センチメンタルでロマンチックな『雨の街を』となるだろう。
夜明けの雨はミルク色
静かな街に
ささやきながら 降りて来る
妖精たちよ
誰かやさしくわたしの
肩を抱いてくれたら
どこまでも遠いところへ
歩いてゆけそう
庭に咲いてるコスモスに
口づけをして
垣根の木戸の鍵をあけ
表に出たら
あなたの家まですぐに
おはようを言いにゆこう
どこまでも遠いところへ
歩いてゆけそうよ
林パックのような、パーソナリティの個性的な感性による番組作りが許されたのも、午前3時から始まるパックインミュージック二部にスポンサーがついていなかったことが大きかった。それは他局も同じであった。
だがやがて裏番組がタクシーや長距離トラック運転手向けの音楽を流し出すと、スポンサーがつき始めた。するとTBSラジオも同種の『歌うヘッドライト』へ編成替えを決める。聴取者は男性である以上、パーソナリティは女性でなくてはならず、流す曲は歌謡曲でなくてはならない。かくしてパックインミュージック二部は消滅することとなった。
林パックの最後の放送の日のこと、由実は開始直前にスタジオにあらわれ、テープを置いて帰っている。『旅立つ秋』というこの曲はその夜オンエアされ、セカンドアルバム『MISSLIM』に収録されている。
深夜放送にまつわる由実のエピソードとして、ニッポン放送『オールナイトニッポン』も欠かせない。この番組には、リスナーが望む歌をつくるコーナーがあった。
73年11月のこと、長崎の五島列島にある離島、奈留島の分校の生徒から、「自分たちの校歌をつくってほしい」とのハガキが舞い込む。入学式や卒業式は、船に乗って本校へ行くが、校歌にある山や川の名になじみがないからだった。その日のゲスト加藤和彦がつくりオンエア。テープが分校宛てに発送された。
だが配送事故なのか、テープは途中で行方不明になってしまう。おまけに番組は、オリジナルテープを録っていなかった。売れっ子の加藤に再度頼めないスタッフは、新人の由実にオファーする。こうして74年、『瞳を閉じて』が誕生した。同年のアルバム『MISSLIM』と、同時発売されたシングル『12月の雨』のB面に収録されている。
番組で同曲が流れたことはもちろんで、翌年由実が『あの日にかえりたい』などでブレイクすると分校の生徒はおおいに喜び、本校の生徒は大層悔しがることとなった。
76年、分校は長崎県立奈留高等学校として独立することになり、この歌は校歌ではないが愛唱歌として親しまれるようになった。88年には同校卒業生の寄付で松任谷由実直筆の歌詞を刻んだ歌碑が建立され、除幕式には由実本人も訪れた。由実はもともとは作曲家志望であり、私小説的な歌だけではない、豊かな資質をあらわす作品となった。
下積み
京都や東京のデビューコンサートにきた観客の評価はさまざまだった。由実の世界を重く受けとめた者、ピンとこなかったという者、趣味ではないと言葉を濁す者、詞とメロディは新しくていいけど「歌がちょっとね」、という者もいた。概して反応は、納得のいくものではなかった。由実の曲がもつ本質的な新しさを理解したのは少数の音楽ファンだけに過ぎず、大多数の人々にとって、由実はよくあるシンガー・ソングライターのひとりに過ぎなかった。
だが、嶋田が由実を八王子の実家へ迎えに行くと、母親から一通の手紙を見せられている。 「大学受験の男性からファンレターが来て『ユー・ミンの音楽を心の支えにして頑張っています』といった内容でした。お母さんは、本当に嬉しそうに『うちの娘も少しはお役になっているのかしら』と言って、あなたたちも頑張ってと励ましてくれました。こういうことの積み重ねが、ご家族の理解を得るきっかけになっていったと思います」
アルファと東芝EMIの両社には、荒井由実専用のインフォメーション・デスクが設けられ、地方のキャンペーンとサイン会、雑誌の取材、複数のグループやシンガーが出演するイベント、単独での学園祭への出演、テレビ・ラジオ出演、CMソングなどプロモーション活動を積極的におこなった。
嶋田は、テレビ局の歌謡番組でこんな体験をしている。フルバンドをバックに荒井由実が『きっと言える』を歌ったときのことだ。番組が用意した演奏者たちが曲について来られず、ちぐはぐなままで収録が終わってしまう。だがそれについて誰からも間違ったことへの謝罪もなく、嶋田は演奏について、新人歌手は不満を言ってはいけない不文律があることを知った。
当時は、地方でキャンペーンを行う新人は商店街にある小さなレコード店の前で歌うなどはざらであり、由実もスーパーマーケットで歌ったことがある。仙台のエンドー・チェーンでは、「これで歌ってください」と客の呼び込みに使う拡声器(ハンディメガフォン)を店から渡されてしまい、これには嶋田もどうすることも出来なかった。
NHKの番組に出演するにはオーディションに受からないといけない。放送できる歌唱力が要求されるのだが、由実は二回落ちている。そのため、ソロ歌手はアコーディオン伴奏で受けるところを、パパ・レモンがバックについて『きっと言える』を歌い、ようやく通ることができた。後年の紅白歌合戦出演交渉など、NHKからの熱烈なラブコールが信じられない経緯である。
由実は、多摩美術大学美術学部絵画学科に通う現役の学生でもあり、歌手活動との両立は大変だった。学校へ提出する絵は友達に手伝ってもらい、本人が描いていないのはバレバレだった。才能あふれる学生がたくさんいて、レコードを出したといっても、学内では小さくなっていた。平野は同い年の、多摩美に通う女子大生から聞いている。「下級生に派手な女の子がいるっていう噂は立ってたわね。彼女、歌を歌ってるらしいよ、とかそんな感じだった」。
多摩美では毎週、小さな講評会があった。由実は多忙のあまり、どうしようもない作品を出したことがある。助手の先生からは、「もっとマジメにやりなさい」と怒られた。だがのちに文化勲章を受けた加山又造教授は、「荒井さん、LPを出したって聞いたけれど、それも表現だから、今度は音楽を持ってらっしゃい」と理解してくれた。
76年の卒業の際にも、大学の名を広めた「功績」により、出席日数不足を黙認されている。卒業制作は裸婦を描きたかったが、1年生のころにスケッチした、東横線から見た代官山の風景を描いた。ビルと空という、灰色の空間が印象的な、ファースト・アルバムが想起される作品となった。岩絵具を原料から調合して制作した日本画であり、100号(タタミ一畳大)の大作である。
由実がデビューした時期は、54年生まれの荒井由実より年上の団塊世代(47年~49年生まれ)はすでに社会人となっている。彼らの心をときめかせたフォーク・ソングは詞の内容も泥臭いものから、一段と私的なものへと内省的な広がりを見せはじめていた。団塊世代とは趣味趣向に変化の見られる昭和20年代後半から30年代生まれの若者たちは、その物悲しさや破天荒さに飽き飽きとしていて、新たな音楽シーンを求めていた。
由実を取材する団塊世代の記者のなかには、学生時代から聴いていた自分の好きなフォークシンガーと比べる者もいて、それに対し由実は、「私の音楽とあなたの好きな四畳半フォークは違う」と発言したことがある。この発言は記者ばかりではなく、自分たちの好きなシンガーやグループまで椰揄されたと思うフォークファンが少なくなかった。
「元GS親衛隊のブルジョア娘が豪語、夢のある若者の歌は夢のあるカッコでなくちゃ」などと敵対視され、嫌みたっぷりに雑誌に書かれたこともあった。スタッフは心配したが、村井は「ユーミンは本当のことを言っているんだから、こんなことは気にすることはないよ」と励ました。村井もまた四畳半には縁遠い。こういったなか、ニューミュージックというジャンルが確立されていく。その先駆者でもある荒井由実はこの頃、どのように曲をつくっていたのか。
MISSLIM
74年10月に発売された、セカンドアルバム『MISSLIM』には、『海を見ていた午後』が収録されている。由実がその詞を書く姿を見ていたのが、横浜のカフェ・レストラン『ドルフィン』の店主、山川眞吾(当時27歳)であった。現在のドルフィンは、店内も広くなり経営者も変わっているが、かつてこの店は、海側に面したガラス張りの窓際に四人掛けのテーブルが四つ並び、他に二席あるだけの小さなレストランだった。
元のオーナーは「少年ケニア」などを代表作とする絵物語作家・漫画家の山川惣治で、その次男の山川眞吾が店を仕切り、71年から営業を始めていた。彼は日本大学の芸術学部文芸学科を卒業してからアメリカを旅行し、そのときに知ったパンケーキやミルクシェイク、ハンバーグなどを店で出していた。店内には父親の描いた大きな象の絵が飾ってあった。そんな店に通い始めた荒井由実のことを、山川がこう語っている。
「店名は窓からドルフィンが見えたらいいなって洒落でつけましたが、開店してしばらくは、駅からも遠く高台にあることから、近くの米軍本牧基地のアメリカ人がときどき来るぐらいで客もまばらだったね。でも、横浜で海を見渡せる場所として知られるようになって、ちょうどそのころにある女の子が一人で来るようになった。スケッチブックの小さなのを持ち、店に入ると決まって窓側の左から2番目のテーブル、それも必ず左の奥に座った。根岸のコンビナートや、遠くの船なんかも見える席でした。いつも一人で来て、夕暮れどきまで海を見続けることもあって、私も店の従業員たちも、そのころは彼女がどんな人なのかはわかりません。ノートにペンを走らせ涙ぐんでいるときがあって、従業員が水を持っていこうとしたので、『わざわざ水なんか持っていかないで、呼ばれたときにだけにしよう』と止めたことがありました。若いスタッフも、何をしているか気になっていたんですね」
「僕は父が漫画家で、その仕事ぶりをそばで見ていたので、彼女にも何か芸術家めいたものを感じていました。来ない日は気になるもので、だからといって何か話をするという雰囲気はありませんでしたが、ある日、詞を書き終えたのでしょう。『今度、私のレコードが出ます。名前は荒井由実です』って、教えてくれました。その後レコードが送られてきて、あの子はここから海を見てこんなことを考えていたのかと、僕も大学は文芸学科でしたので、その描写には驚きました」
実はドルフィンは、C・U・チェンが逮捕され入れられた外国人収容所の近くにあった。しばしば面会に訪れていた由実の、青春の思い出の店だった。『海を見ていた午後』の恋人は造形されたものとされる。だがチェンがモデルのひとりではあったろう。
ドルフィンに通ったころは、地方でのコンサートやゲスト出演の経験も重ね、ファンの声援も受けている。だがデビューアルバム『ひこうき雲』の売り上げは低迷していた。アルファは、荒井由実というルーレットの目に会社ごとに賭けていたから、その重圧は相当なものだったと思われる。のちの細野晴臣率いるYMOへの投資も、アルファは社運を託している。すべて村井の方針である。この時期の由実はまだ二十歳にもなっていない。周囲の期待の大きさに不安に駆られていたろう。ドルフィンでのひとときは、一種の現実逃避だったのかもしれない。
『MISSLIM』のレコーディングは74年7月から始まったが、音楽プロデューサーは細野晴臣から松任谷正隆に代わっている。村井は松任谷のアレンジャーとしての才能を評価しており、プロデュースも可能と判断した。コーラスには73年から活動をはじめた山下達郎(当時21歳)、大貫妙子(当時20歳)、村松邦男(当時22歳)らのシュガー・ベイブと、吉田美奈子(当時21歳)が参加した。
このころからキャラメル・ママは、それまでの演奏集団から音楽プロデューサーチームとして、グループ名をティン・パン・アレーと変更している。このネーミングは19世紀後半、ニューヨークのマンハッタン28丁目に楽譜出版社が林立し、年中ピアノが演奏されていたためティン・パン・アレー(ピアノがうるさい通り)と呼ばれたことに由来する。
『MISSLIM』のレコーディングは前作の難産とは違って、短期間で終えている。ディレクターの有賀恒夫は妥協をくずすことはなかったが、「ユーミンは特に喉が弱かったので、あと一回、あと一回と気を揉みながらやっていました」と言う。
由実がピアノの前に座るジャケットの写真は、『MISSLIM』発売の5か月前に急逝した、梶子の自宅で撮ったものである。日本の女性シンガー・ソングライターが、ゴージャスなセッティングでジャケットに登場したのは、はじめてのことだった。女性シンガー・ソングライターそのものが、数えるほどしかデビューしていなかった時代だ。由実の一挙手一挙動が、そのまま歴史に刻みこまれることを意味していた。
由実のデビュー作『ひこうき雲』は関係者の注目を集めていたが、一般的なヒットにはほど遠い状態だった。それでも、『MISSLIMミスリム』のジャケットに、伝説的な女性の持ち物のピアノを使うというこだわりからは、スタッフも一丸となってとにかく細部まで少しでもいいものを作ろうと情熱を傾けていたことが感じられる。それは評価とは後からついてくるものだという思いに賭けられる環境があった。タイトルの「MISSLIM」は、スリムな由実の容姿からつけられている。
74年11月、『MISSLIM』が発売された。このアルバムのプロモーションを担当していた東芝EMIの下河辺は、大都市のラジオ局を訪ね歩く。STV(札幌テレビ放送)、名古屋の東海ラジオ、大阪MBS(毎日放送)、福岡KBC(九州朝日放送)と、それぞれオピニオンリーダー的な役割を果たしているディレクターやディスクジョッキーたちに会い、発売されたばかりのアルバムを手渡した。
興味を示したSTVのディレクターと札幌のすすきので飲んでいると、『MISSLIM』発売と同日にシングルカットされた『12月の雨』が偶然にも有線放送から流れてきた。スナックの小さなスピーカーからピアノのイントロが流れると、下河辺の気持ちは昂ぶった。自分たちがいいと信じていてもなかなか数字がついて来ない苛立たしさと、ようやくここまでたどり着いたという思いが交錯し、水割りのグラスを持つ手が震えたという。
その年の暮れ、各音楽評論家が『ニューミュージック・マガジン』で74年のベスト・アルバムを発表するために寸評を書いている。そのなかで小倉エージだけが、「たった1枚となると、文句なくユーミンを選ぶ」と、『MISSLIM』を評価している。他の評論家たちはエリック・クラプトンの『461オーシヤン・ブールヴァード』やスティーヴィー・ワンダーの『ファースト・フィナーレ』、ジョン・レノンの『心の壁、愛の橋』などをあげていた。
小倉は、評価した理由をこう語る。「とくに熱心にロックを追いかけている洋楽中心の人やジャズの評論家には、『キミ、おかしいんじゃないの』とか、いろいろ言われました。でも『MISSLIM』は、前作の『ひこうき雲』と比べると、ユーミンが引きずってきた音楽をティン・パン・アレーが手伝ったのではなく、彼女がバンドのなかでヴォーカリストになったという印象があった。ティン・パンとユーミンが新しいものをコラボレートし、両方の過去と、これからの時代の要素すべてが一致していた。そういった複雑なものがからみ合いながらも、いらない部分をそぎ落とし、入念で密度が高くシンプルなかたちで完成していったと思う」。小倉は、荒井由実の出演するライブハウスでのコンサートに、足繁く通っていた。仙台の学園祭など、地方にも足を延ばしていた。
音楽評論家萩原健太も『MISSLIM』を絶賛するひとりだ。「 本作こそ70年代初頭の日本のポップス・シーンが残した大傑作だと思う。細野晴臣率いるキャラメル・ママも、荒井由実という新鮮な素材を得て実にいきいきとしたプレイを展開している。山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子らによる豊かなコーラス・ワークも、当時の日本では他に例がなかった。『生まれた街で』、『瞳を閉じて』、『12月の雨』、「あなただけのもの』、『たぶんあなたはむかえに来ない』の、豊かな空間の広がりに対してコーラスが果たした役割は大きい。そして何より、新鮮な転調などを軽々と盛り込んで展開する荒井由実のハイセンスかつ透明感に満ちたソングライティング。それらが一体となって完璧な音宇宙を構築している。ここに参加しているのはその後それぞれ別々に一国一城の主となっていくビッグ・アーティストばかり。そんな若い才能が一丸となつて新しい日本のポップ音楽をクリエイトしようとしていた黎明期の素晴らしい記録だ。その瑞々しさが今なお時代を超えて新鮮に輝く」
『MISSLIM』は74年10月の発売だが、収録曲の『やさしさに包まれたなら』は、半年前の4月に3枚目のシングルとして発売されている。この曲は不二家が発売するソフトエクレアのテレビCMソングとなった。アルバム発売と同時には、シングル『12月の雨』が発売された。これら発売のタイミングやCMソング化は、村井たちの綿密に練られたプロモーション作戦のなかで行われている。
コンサー卜を担当していた阿部も、学園祭や地方のコンサートなど小さな会場でのステージの仕事も取り付け、多いときで月に7、8本のブッキングをしていた。「彼女は過労で倒れそうになったこともありましたが、どんなところでも泣きごと一つ、言いませんでした」と阿部は言う。誰もが「荒井由実というルーレットの目に会社ごとかけていた」のである。
『12月の雨』は話題になり、『MISSLIM』は発売1ヶ月後チャートで36位と健闘したが、その後は伸び悩んだ。音楽業界に衝撃を与えたデビューアルバム『ひこうき雲』も、荒井由実の最高傑作との呼び声も高いセカンドアルバム『MISSLIM』も、売れ行きはいたって低調となった。荒井由実の曲が持つ本質的な新しさを理解したのは少数の音楽ファンだけに過ぎず、大多数の人々にとっては、よくあるシンガー・ソングライターのひとりに過ぎなかった。
