荒井由実ヒストリー拡大版(1/5) 誕生から立教女学院まで 早熟な天才不良少女 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 三年前、「松任谷由実前史 荒井由実ヒストリー」という一文をアップしました。ユーミンこと松任谷由実が誕生してから、デビューアルバム『ひこうき雲』制作にいたる経緯です。そのあとにも、「荒井由実ヒストリーⅡ」として、ブレイクから結婚までの軌跡をアップしています。

    これらの記事は、多くの資料を参考にして書きました。一介のサラリーマンとして生きてきた者が、スーパースターの伝記めいたものを簡単に書けるわけはありません。資料の引用文をつなぎ合わせただけの代物です。とりわけ、雑誌『文藝春秋』の記事と『村井邦彦の時代』という本から、数多くの引用をおこないました。またさまざまな書誌からも、貴重な情報やエピソードを抜き書きしています。

 そしてその後も新資料を見つける都度、追記や補正をおこなってきました。すこしでもましなものにしたかったからです。ですが言うは易しで、これがなかなか難しい。一文にひとつの言葉を差し込むことすら容易ではありません。修正箇所が広がり、全体のバランスにも影響してしまう。ならばいっそ全部を直してしまおう。そう思うに至り、以下の書き換えをおこなったというわけです。

 また前回のテーマは、「荒井由実賛歌」でした。松任谷姓となる前の、荒井由実の歌の方がよかったというスタンスです。今回も基本は同じです。ですが、その「純度」は増しています。荒井由実のアルバム4枚を前期と後期に分けるならば、1st 『ひこうき雲』、2nd『MISSLIM』こそが最高だったという、「荒井由実前期賛歌」です。

 この目的のため、『1974年のサマークリスマス』なる本を主な資料としました。同著には、深夜放送のパーソナリティが、荒井由実のデビュー時に応援していた経緯がことこまかに綴られています。また番組に呼応し、熱心に応援したファンたちの姿も克明に描かれています。そして3rd『COBALT HOUR』以降、ポップに変貌した荒井由実からファンが離れていく様も詳述されています。以下の拙文は、この本のテイストを主軸としたということです。

 自分(ブログ筆者)は、荒井由実時代の歌が好きです。『雨の街を』、『生まれた街で』、『さざ波』、『さみしさのゆくえ』、『中央フリーウェイ』、『晩夏』など、これらはイントロが流れてくるだけで胸にぐっとくるものがあります。聴いていた時期が多感な青春期だったので、胸の奥深くに沁みわたっているのでしょう。

 これらの曲は荒井由実の「全期」にまたがったものであり、前期絶対論者ならこのような選曲はしないはずです。後期の方が多いからです。その意味で自分は、今回のスタンスとは相容れない立場です。ですが、荒井由実の原点はやはり『ひこうき雲』であると思う。そう強く思うからこそ、これを書きました。幅広いユーミンファンにお読みいただければ幸いです。

 

 

荒井由実が通った立教女学院のピアノ部屋
通称「ユーミン部屋」と呼ばれている
 

 

 

 

誕生

 

 荒井由実、のちの松任谷由実は1954年1月19日、東京都八王子にある荒井呉服店の次女として誕生した。兄と姉がいて、弟が二年後に生れている。第二次大戦下、兄の上に生まれた子がいたが、終戦直後の悪環境下、栄養失調で夭逝している。兄は家業を継ぎ、弟は日本医科大学を出て精神科医となった。

  父の末男は明治の生まれで、尋常小学校を出て八王子の呉服店に丁稚奉公に入った。番頭格になっていた41年、入り婿として近所の荒井呉服店の跡取り娘・芳枝と結婚。応召されたが無事復員、芳枝とともに苦労して戦後の荒井呉服店を立て直し、大いに繁盛させた。温厚な明るい性格で、由実が最初のアルバム『ひこうき雲』を発表したときは、地元の八日町商店街に「アーケードで流してほしい」と頼んで回っている。

 終戦直後は、大きな呉服店でも衣類は売れなかった。店を支えたのは、アメリカ軍だった。立川基地にやってきた進駐軍の将校夫人、あるいはオンリーと呼ばれた娼婦たちは、どこかで仕入れた洋服の生地と、『ヴォーグ』などのファッション雑誌を店に持ち込み、ブラウスなどをオーダーした。器用な日本人は彼女たちの注文によく応えた。

 芳枝は高等女学校を出ていた。だが入った裁縫科には通わず、親には内緒で、実は英語科で学んでいた。これが進駐軍相手の接客に生かされ、危機に陥った家業を救うことになった。芳枝は夫とともに男勝りの力量で家業を取り仕切り、家具や宝石の輸入などサイドビジネスも手掛けた。趣味はレビューや歌舞伎など芝居見物で、日舞の名取でもあった。家事や子供たちの世話はすべて家政婦に任せていて、そもそもが、由実の妊娠5ヶ月まで気づかずスキーを滑っていた。一方では親らしく、PTA活動には熱心だった。

 芳枝は映画を観るだけでワーワー泣き出すほど感受性が強く、子供にとっては戸惑うタイプだった。由実は大人になってからようやく、母を受け入れられるようになった。

 荒井呉服店の最盛期の使用人は八十人もいて、寮もあった。末男は地域振興活動にも励み、八王子の名士となり、市の長者番付の常連ともなっている。一方では女遊びも激しく、使用人の女性にも手を出すなど、家庭騒動も一再ではなかった。末男はなぜか他の兄姉弟より由実を可愛がった。母親に顧みられない次女に、養子の自分を重ねたのかもしれない。

 養育を任されていた家政婦の名は宮林秀子という。由実にとって、もうひとりの母といっていい存在であった。秀子は山形県の出身で、おだやかで優しい人格者だった。由実と近所や川原に散歩に行くときには、童謡を歌ってくれた。秀子が故郷の左沢に里帰りするときには、実の子供同然の由実と弟をいっしょに連れて行った。結婚するとき、由実はひでちゃんと別れるのが悲しかった。

 「母親は大正時代のぶっ飛んだモガ(モダンガール)。赤い自転車がトレードマークで、近所でも評判だったと聞きました。小柄なひでちゃんはコロボックル(アイヌの伝承に登場する小人)みたいな人(笑)。森羅万象に何かが宿っている、というアニミズムのような感覚は、ひでちゃんから無言のうちに教わったような気がする」(松任谷由実)

 モダンガールである生みの親と、「いつも妖精を見ているような」育ての親。また、家族のように暮らす大勢の従業員たち、出入りするさまざまな階層の客など、これらの人々から受けた影響は、いわば多重螺旋のように由実の人格を形成していった。

 荒井呉服店の若い従業員たちは、ラジオから流れるポップスを聞きながら針を動かしミシンを踏んだ。幼い由実は坂本九や森山加代子等の洋楽カバーや、『太陽がいっぱ い』『避暑地の出来事』『昼下がりの情事』など、映画音楽のメロディを自然に覚えていく。

  由実は幼いころ  「ゆみすけ」と呼ばれていた。ゆみすけはおむつがとれないときからマンボを踊った。従業員たちは喝采を送り、社員旅行に連れられると、バスの中ではマイクを離さなかった。生地を切る台の上にポンとあがったゆみすけが『東京ブギウギ』を歌えば、アメリカ軍兵士がお金をくれた。ゆみすけは店のアイドルだった。

 幼稚園は兄や姉と同じカトリック系に通った。自立心旺盛な園児だった。八王子市立第一小学校に入学すると、習い事が上達するとの言い伝え通り、6歳の6月6日にピアノを始め、中学1年まで続けた。『昼下がりの情事』などのメロディをピアノで拾うようになり、演奏会のステージに立つと、練習のときとはまったく違う独創的なピアノを弾いた。小学校高学年から中学までは、清元の三味線も習っている。

 勉強は努力せずとも小学校を通して一番だった。神童と呼ばれ、親は将来医者にしようと考えた。一方で、由実はいじめっこだった。店では従業員に意地悪をした。授業中、雨が降ってきた。店の若い女の子が傘を学校へ届けたが、下校時には晴れていた。由実は帰るやいなや接客中のその子に、「こんなもの持ってきて邪魔になったじゃない」と傘を突き返した。

 学校では特定の子をいじめた。少女漫画の悪役のようだった。いじめられた子の親が学校へ訴えると、PTA会長の芳枝がもみ消した。難病の筋ジストロフィーを患っていた小学校の同級生が、高校1年の時に亡くなる。また近所の団地で高校生の飛び降り心中があり、ふたつの死にショックを受けて、のちにつくったのが『ひこうき雲』である。


中学校

 66年4月、中学校は姉と同じ中高一貫の立教女学院を受験して入学。米国聖公会のプロテスタント宣教師が創立した同校は、東京の三鷹台にある中高一貫のミッションスクールである。中庭には大きなヒマラヤ杉があり、クリスマスになると、イルミネーションが飾られた。

 由実の中学時代は、髪はショートカットでニキビもいっぱいあった。小学校でオール5だった成績は、上位ながらもさほどではなくなった。それでも由実は、マーガレット祭など校内活動をがんばった。生活委員として学校側と交渉もおこなっている。制服はない学校だが、こまかい規則があり、紺色のハイソックスを白に変えさせ、それは今も継承されている。

 多くの附属校と同様、中学入学組は内部生となじめない。グループにしろ一人にしろ、何者かが君臨するのが女子校というものであり、才能のある異端は生きにくいのが常である。しかし由実は、はるかにわくわくする世界を知ってしまう。

 立教はプロテスタントではあるが、儀式的にはカトリックに近い。女学院には、聖マーガレット礼拝堂と聖マリア礼拝堂と呼ばれるふたつのチャペルがある。毎日礼拝の時間があり、ないのは土曜日だけで、日曜も義務づけられている。司祭の説教は由実を退屈させたが、聖マーガレット礼拝堂で聴いたバッハの『トッカータとフーガニ短調 BWV565』には異常な衝撃を受けた。

 「パイプオルガンは教会全体が楽器。床の下にはパイプが通っているんです。バッハを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これは本当の話なんだけど、声までオルガンみたいになっちゃった。瞬間的に内耳の構造が変わったのかもしれない」(松任谷由実)

 学校では聖歌隊に属していて、由実の音楽体験は急速に広がっていく。まもなく放送が始まった、フジテレビの『ビートポップス』にも夢中になった。ビートルズ来日の興奮も覚めやらぬ67年にスタートした、日本初の洋楽紹介番組である。ビートルズやローリング・ストーンズはもちろん、カンツォーネやミリアム・マケバの『パタパタ』のような民族音楽も画面から流れた。

  ビートポップスが紹介した数多くの曲のひとつに、プロコル・ハルムの『青い影』がある。バッハの『G線上のアリア』のような下降するベースラインとハモンドオルガンの音色が美しい名曲だ。クラシックとロックが融合した『青い影』を聴いたことは、13歳の早熟な少女にとって人生の転機となった。自分には6年間習ったクラシック・ピアノの技術があり、幼少期からあらゆる種類の音楽を聴いた膨大な記憶があり、日常的に教会音楽に触れる環境がある。

 「プロコルハルムが好きだったのよ。中学のころから聴きだしたんだけど、すり切れるぐらいいろんなレコードを聴いた。詞がすごくよかったの。詞を書いていた人がニーチェの影響をすごく受けていた人みたいなんだけど、それにキリスト教的な、宗教的なにおいがすごく強かったと思う。音楽そのものも、教会音楽みたいなところがあるでしょう。かといってキリスト教だけじゃなくて、ギリシヤ神話とか、聖なるものにあこがれているようなところがあるよね。セレスチュアルという言葉があるんだけど、そういうものにあこがれているような詞がすごく多かったのね。私もそんなに深くわかるわけじゃないから、訳してもらったり、自分で勝手に解釈したりしてただけだけどね。タゴールなんかにすごく通じるところがあるのよ。ちょうど思春期って抽象的なものや聖なるものにあこがれるときでしょう。それと一致していたんだろうね」(自著『ルージュの伝言』)

 「これなら、私にもできるかもしれない」。そう考えた由実は、耳に残っている印象的なフレーズを片っ端からコピーすることから始めた。ピアノという鋭利なメスを使って曲の構造を解剖し、ヒット曲の秘密を解こうとしたのである。まもなくグレゴリオ聖歌とボサノヴァの『ワンノート・サンバ』の間に共通点があることに気がつく。主旋律が同じ高さの音を続けているにもかかわらず、伴奏がコードを変えれば、 単調に聞こえないのである。「これだ!」。西洋音楽の根源の一端に触れた思いがした。 

 こうして由実は作曲を始めた。後述する加橋かつみに提供した『愛は突然に』の原曲は、14歳の時に書いた。のちの『翳りゆく部屋』の前身となる『マホガニーの部屋』という曲も、学校のピアノ室で遊びながらつくった。昭和初期に建てられた講堂の舞台わきには、アップライトピアノが置かれた、三畳ほどの部屋が細い廊下を挟んで並んでいた。生徒は自由に使え、由実は休み時間にロックをコピーし、作曲した。狭いながらも、あの空間があったからこそミュージシャンになれた。

 由実は自著『ルージュの伝言』でこうも語っている。「コードでも、普通日本人の環境だと、もちろん若いときにいろんなポップスのレコードから聞いてみんな知るんだろうけど、Cのコードならドミソとか、クリアになってるものだけが頭に入るでしょう。でも私は幼稚園のときからテンションの音というのかな、いわゆる開放の音じゃない音を加えると微妙な表情が出るということが生理的にわかっていたみたい。私の持論としては、13歳ぐらいまでに、味覚もそうだけど、聴覚でも13歳までにテンションを覚えてない人は音楽家としてはもうダメだと思うの」


ロック少女

 荒井家には、家族ぐるみのつきあいをしていた一家がいた。母親は日本人、父親はアメリカ軍兵士。由実のひとつ年下の娘はマーガレットといい、通称マギーと呼ばれていた。日曜日になると荒井家の人々は、マギーの家族と一緒に立川基地や横田基地に行く。PX(基地内の売店)で買い物をするためには基地に知り合いが住んでいることと、ドルが必要だった。 洗濯工場の近くにあるランドリー・ゲートを通って入場し、ペプシやアイスクリームを大量に買った。

 PXでの由実の目的はレコード売り場である。小学6年で初めてレコードを買った由実は、海外の音楽をPXで買い漁るようになっていた。「基地の中でLPを買うと、ノータックスだから800円くらい、銀座や渋谷で輸入盤を買えば2500円だから3分の1の値段。お小遣いの範囲で買える」(松任谷由実)

 当時は、都心の大きなレコード店でさえロックの輸入盤をあまり扱っていなかった。基地ではアメリカ本土とほぼオンタイムでレコードを買え、由実にとっては夢のような場所だった。中学2年の終わりごろには、100枚を超えるLPを持っていたという。友達はファッションや男の子に夢中だったが、由実はレコードの虜となった。八王子の荒井由実は、日本一のロック少女だったかもしれない。
 
 さまざまな音楽を吸収していく由実だったが、絵を描くことも好きだった。熱中する、ローリング・ストーンズやピンク・フロイド、プロコル・ハルムのメンバーたちは、なぜかアートスクールやアートカレッジに通っていた。音楽と絵画は共通する世界なのか。美術の学校へ行きながら、音楽をやるのが王道だと考えた。

 得意な絵も学ぼう。由実は中学3年から、いわゆる塾である、御茶の水美術学院にも通い始めた。 この学校は、三鷹台の立教女学院を中心に、八王子の自宅とは反対の方向にある。これらを行き交う日々が始まった。必然的に帰宅時間は遅くなった。

 家に居たくない理由もできた。芳枝が夫と宮林秀子の不倫を疑い、荒井呉服店は大騒ぎになっていた。生みの母と育ての母の板挟みになった由実は、「家を出て、ひでちゃんと一緒に暮らそう」とさえ思った。

 外なら家を忘れられる。放課後、駅のロッカーに隠していた私服に着替えた由実は、新宿や池袋のジャズ喫茶、あるいは六本木・飯倉界隈で遊ぶようになる。のちに由実のレコードをプロデュースするかまやつひろしや細野晴臣の他、多くのミュージシャンたちとも、ライブ・スポットで顔見知りになった。夜、家の皆が寝静まると、由実はベッドにシーツをまるめて入れ、カツラを枕にセット。自室のベランダの前にある螺旋階段からそっと家を抜け出し終電に乗る。ディスコで朝まで踊り続けて始発で戻る。そして何食わぬ顔で登校していた。

 由実の初恋は中学2年生のとき。76年発刊の週刊誌『 Mimi 』での対談によると、御茶の水美術学院でデザインの勉強をしている人だった。一方、83年の自著『ルージュの伝言』によると、中3のとき、同系列である立教高校生との交際があった。彼がいわゆる初体験の人だった。しかし結局フラられたという。このふたりが同一人かどうかは定かではない。

 また同著では「いろんな子とつきあっていた」と、奔放な関係があったことも示唆している。一方、女子校特有の、下級生から手紙をもらったり、上級生から交際を申し込まれたりもした。誕生日には、下駄箱がプレゼントでいっぱいになった。


不良少女

 由実はグループサウンズ(GS)の追っかけをするようにもなる。情報の少ない時代であり、基地で仕入れたレコードを聴かせると、GSのメンバーたちは大いに喜んだ。最初ファンになったのは、スパイダースやテンプターズ、カーナビーツだった。だが自己顕示欲の強い由実は、これらありきたりの「入門編」では満足できなくなる。ザ・ゴールデンカップスやザ・モップスら、本格的なバンドに近づいたりもした。

 六本木には『ザ・スピード』というライブ・スポットがあり、銀座には『ACB』というジャズ喫茶があった。由実のGS熱は、これらを根城にしていたフィンガーズというバンドに行き着く。裕福な家庭の子弟が集まった慶応のボンボンバンドであり、「上品」な雰囲気が気に入った。メンバーは、早弾きで有名なギタリストの成毛滋や高橋幸宏の兄・高橋信之、そしてベースを弾いていたのは、中国人のC・U・チェンであった。

 由実はチェンと特に親しくなる。チェンは北京の裕福な家に生まれ、東京に移住していた。五カ国語を話すことができ、音楽のセンスにも優れていた。のちにロサンジェルスでレストラン『チャイナクラブ』を大成功させ、空間プロデュースや企業のブランド開発でも有名になっている。

 チェンは、7歳下の由実を妹のように可愛がり、「ユーミン」と呼びはじめた。「由実」と中国語の「有名」の音をかけ、「この子は必ず有名になる」との意味をこめた。香港の女優、尤敏(ゆうみん)も意識した。当時は『ムーミン』が流行っていて、チェンたちの間だけにとどまらず、立教女学院にも愛称として広まっていった。

 チェンが由実と初めて会ったころを振り返る。「ステージが終わって楽屋に戻ると、ボーイッシュな女の子がいるんです。あれはまだ、彼女が15歳のころ、初めて会った彼女はおかっぱ頭で顔中にニキビのある、あどけない少女でした。そのころ、僕たちのバンドでは『青い影』のプロコル・ハルムが話題になっていて、たまたまその女の子と話したら、プロコル・ハルムの旋律のきれいなところの情景を一生懸命に説明してくれて、それが鋭いセンスだった。そんなことがきっかけとなり、バンドのメンバーもほかのファンとは違う目で見るようになった。僕たちにとっては唯一の知的な中学生ファンという存在で、レッド・ツェッペリンのレコードを渡されたこともあります。当時から彼女は自分の曲を作っていたし、その完成度や新しさには光るものを感じていました。ある日、楽屋で『由実ちゃんは将来、何になりたいの?』と聞いたことがあったんです、すると、彼女は『私、有名になりたい』と決意した表情で言うんです。僕は思わず『そうか、有名って、僕の母国語の中国語ではユウミンって読むんだよ。ちょうど、童話のムーミンが好きな由実ちゃんの名前とも音が似ているね』と返しました。あのときこそ、彼女の愛称『ユーミン』が生まれた瞬間でした」(C・U・チェン)

 「他の女の子がぬいぐるみやお菓子をプレゼントしてくれる中、彼女だけは違った、『このアルバム、面白いから聴いてみて』と、堂々とした様子で話しかけてくるんです、普通、中学生が大人に対してそんなアプローチをしてくるなんて考えられないでしょう。面食らったと同時に、この子は只者ではないな、と直感しました。いざレコードを聴いてみると、これがまたスゴいんですよ。まだ日本では知られていなかった『レッド・ツェッペリン』のアルバムだったり。彼女が貸してくれたレコードからは計り知れない影響を受けました。ユーミンには、何か新しいのか、どんな音楽がカッコいいのかを聞き分ける優れた耳と感度があったんです」

 由実はチェンに恋をした。だがチェンにはフィアンセがいた。だから妹のような存在となった。三人でよく遊び、由実はカップルから大きな影響を受けている。しかしチェンは大麻で捕まってしまう。まさに妹と称し拘置所へ面会に行った。疑われ警察の尾行がついたこともある。学校からは厳しい指導を受けた。

 由実が87年に小林麻美に提供した『飯倉グラフティー』には、「16の私は生意気にマスカラと煙草と赤のキャンティ』とある。また自著『ルージュの伝言』では中高時代を「不良だった」とし、「課外授業をいろいろやった」とある。そして「タバコをやめた」のが18歳のときだった、と書いてある。

 自由奔放だった由実は、四十路に入った95年、当時を振り返っている。「曲を書くときは、いつもいろんな年齢の自分が存在するのね。だから、どの年齢にもなれる。なかでも14歳のころの自分が一番好き。いろんなことが刺激的で、すごくエキサイティングだった」


テープ

 作曲を始めていた由実は、ピアノの弾き語りで録音した自作の4曲をチェンに聴いてもらった。この中には、のちの『ひこうき雲』や『ベルベット・イースター』が含まれている。一聴したチェンは衝撃を受ける。ピアノの旋律が美しく、風景を丁寧に描写した歌詞も素晴らしく、15歳で書いたとは思えない出来だ。

 このカセット・テープを渡したことに、さしたる意味はなかったかもしれない。憧れの人に、自分がつくった音楽がどう受け止められるか知りたい、そんな純粋な気持ちだったろう。だがこのテープは、由実の人生を大きく変えてゆくことになる。

 チェンは由実を、友人である川添象郎に紹介する。川添は板倉の伝説的なイタリア料理店『キャンティ』のオーナー川添浩史の長男である。作家の三島由紀夫や映画監督の黒澤明、加賀まり子や大原麗子、石坂浩二や田辺昭知等の芸能人が集まるキャンティには、ザ・タイガースを辞めたばかりの、トッポこと加橋かつみも出入りしていた。加橋はミュージカル・ヘアーの主演クロード役をつとめていて、由実はその楽屋へ遊びに行ったこともある。

 ディスコでの夜遊びと同じように、由実は夜、家中が寝静まってから中央線に乗り、四谷から一時間歩いてキャンティへ顔を出すようになった。ティーンエイジャーながら出入りを許され、六本木の女王ともいわれた川添の妻梶子は由実を可愛がるようになる。これら輻輳した縁から、由美のテープは加橋に渡ることになった。天才少女・荒井由実は、自分の力で運命の扉を切り開いた。

 松任谷由実 「当時、どうすれば音楽の仕事を始められるか、それすらわからなかった。あの時代、音楽業界の入り口もごくごく、限られていた。出会うべきタイミングで、出会うべき人間とめぐりあっていた。幸運だったと思うし、それもひとつの才能だったのかもしれない」。

 70年の正月過ぎのこと、加橋は川添から渡されたテープを聴いた。その中には、『マホガニーの部屋』と題された曲があった。加橋はこの曲に惹かれた。そして自分で歌いたい思った。フィリップス・レコード(RCAビクター内レーベル)で、ソロアルバムの準備をしていたのだ。アルバムのディレクターは本城和治であった。本城が振り返る。

 「加橋くんが『すごい作曲家を見つけたんだ。彼女の曲を入れたい』と興奮気味に言ってきたんです。曲を聴いてみて、驚きました。まだ高校生なのに、曲の世界観がはっきり構築されているんです。ユーミンの曲は、それまでの歌謡曲やグループサウンズ、フォークソングにはない、新しさに満ち満ちていました。まずメロディが都会的で、ジメジメしていない。お洒落で垢ぬけているんです。コード進行ひとつとっても非常に斬新で、他の誰にも似ていない。きっと、彼女の通っていた立教女学院がキリスト教系で、教会音楽が身近だったこともあるのでしょう。僕も彼女の才能に惚れ込み、すぐに電話をかけてスタジオに来てもらいました」

 連絡を受けた由実は驚き、舞い上がった。あのザ・タイガースにいた加橋が自分の曲を歌ってくれるという。このGSも好きなったものの、有名すぎて、ファンになるには由実のプライドが許さなかった。だから追っかけはしていなかった。だがそんなことは問題ではない。この幸運がきっかけで有名になれるかもしれない。

 由実が電話を受けたのは、朝、学校へ出かける前であった。その日の学校帰りに、RCAビクターのスタジオに行くことになった。だが興奮かつ焦っていた由実は、CBSソニーに行ってしまう。スタジオにはにしきのあきらがいて、「ここはぼくのレコーディングです」と苦笑された。だまされたと落胆し家に帰ると本城から連絡が入っていた。翌日出直した。

 本城は、初めて由実に会った印象をこう語る。 「スタジオに現れた彼女は、スリムで利発そうな女の子でした。緊張しているようでしたが、おどおどする素振りは一切見せなかった。ハキハキ、テキパキとしていました。当時から物怖じしない『強い女性』でしたね」


作曲家

 こうして由実の『マホガニーの部屋』は原曲となり、加橋が書いた別の歌詞がつけられ、『愛は突然に』という作品となった。加橋のアルバム『1971・花』に収録され、さらにシングルカットされた。荒井由実の作曲家としての第一作である。

 なお、オリジナルの『マホガニーの部屋』の歌詞には、コード進行はそのままに新たなメロディーが与えられた。そして改題の上で新曲として発表されたのが『翳りゆく部屋』である。

 だが『愛は突然に』が制作される前、大事件が勃発している。加橋が大麻取締法違反で逮捕(執行猶予付きの有罪)されてしまったのだ。70年2月のことであり、このため加橋のアルバムとシングルは翌年4月の発売となっている。

 発売前、プロモーション的な記事が週刊誌に載った。再起する加橋とともに、由実は作曲者として写真付きで登場している。大きな黒いサングラスをかけた、とても高校生とは思えぬ派手なファッションであり、事の経緯とともに、由実は学校から大目玉を食らうことになった。

 荒井由実のプロ作家としてのデビューは、波乱の幕開けとなった。だが話はむろんこれで終わらない。制作中の『愛は突然に』を、偶然聴いていた人物がいた。

  作曲家の村井邦彦である。慶應義塾大学の名門サークル、ライトミュージックソサエティ出身の村井は、ザ・タイガースの『廃墟の鳩』、ザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』、トワ・エ・モアの『或る日突然」』や『虹と雪のバラード』、赤い鳥の『翼をください』など、多くのヒット曲を手がけていた。村井はフインガーズにも、曲を提供している。

 加橋のアルバムにも曲を書いていた村井は、スタジオに幾度か来ていた。別の曲である由実と直接的なつながりはない。だが、まるで運命的な出会いのように音源に接している。アンニュイで繊細で、すぐ折れてしまいそうな青春のはかなさを感じたその瞬間を、村井ははっきりと覚えている。

 「僕が自分の曲を録音する順番が来たのでスタジオに入ると、たまたま前の曲のプレイバックが流れていて、日本でもこんなにセンスのいい曲を書ける人がいるのかと感じるものがありました。すぐ加橋君に『これ、誰?』って訊くと、『ユーミンっていう女の子だよ』と教えてくれて、すぐに紹介して欲しいと頼みました』」。こうして村井は71年の初め、立教女学院高校生である、荒井由実の存在を知ることとなった。
 
 由実に会った村井は、「あなたには才能がある。ウチの作家になりませんか」と申し出る。ウチとは、村井と作詞家の山上路夫が設立した音楽出版社アルファミュージックのことだ。当時アメリカやイギリスの音楽出版社では、専属の作家と契約し、自由に曲を書かせて、それをレコード会社にセールスするというスタッフライター・システムが構築されていた。

 「ユーミンとは高校生のときに作家契約(正式契約は大学入学後)をしました。いま、日本の音楽はアメリカやヨーロッパの物まねを凄くうまくやっていて、欧米の曲と変わらないものが随分多くなりましたけど、60年代の終わりから70年の初めは、日本の音楽の主流は流行歌と呼ばれる、いわゆる歌謡曲だったんです。何しろ、多くのヒット曲がコード三つでできていた時代だった。ところが、彼女の曲は非常に洗練された音楽。コード進行が複雑なだけではなく、曲中でキーが変わることもしばしばだった。音楽的に高度でとにかく新しかった。曲を聴いてすぐに才能のある人だと思い、作家として大成して欲しいので、曲を書きためさせることにしたんです」(村井邦彦)


歌手

 こうして由実は、習いごとにでも通うかのように、放課後、電車とバスを乗り継ぎ、三田のアルファに顔を出すようになる。村井は、作詞・作曲のつくり手として大きく育って欲しいという思いを強く持った。そのための作家契約であった。ところがアルファの社内では、由実の作品を聴くにつれ、本人が歌うレコードを希望するの声が上がり始めた。

 「当時は、僕もユーミン自身も、歌い手としてデビューするという考えはさらさらなかった。しかし曲そのものが新しいので、歌の表現方法も新しくなくては駄目なんですね。そこで僕もスタッフも、はたと困ってしまったわけです。あらためてデモテープを聴いてみたら、彼女自身の歌い方がとても魅力的だと感じはじめて、それは、歌がその人のものなんですね」

 「ユーミンには人生の機微というか、人生とは何かを考えているようなところがあった。それが曲に反映されていた。彼女の持ち曲が二十曲ぐらいになったころ、僕はユーミンの『声』に興味を持った。どちらかといえば低い声。迎合がないぶん品が生まれ、信頼感が感じられた」

 村井は考えを改めた。作家ではなく、歌わせてみよう。認識を新たにすれば、荒井由実は原石であった。村井がそれまで一緒に仕事をしてきた第一線で活躍する作詞家、また同業者の作曲家を見渡しても、この原石は誰とも比べようがなかった。そして、湧き出るように次々に曲を書いてくるその姿には、言いようのない強いエネルギーを感じていた。

 由実に、村井は提案した。 「自分で歌ってみないか?」。アメリカではキャロル・キングの「つづれおり」が大ベストセラーとなり、シンガー ・ソングライターの時代が始まっていた。村井は由実を日本のキャロル・キングにしようとした。 

    由実はとまどった。自分で歌うなど考えたこともない。表に出るタイプではないとも思っていた。曲には自信があったが、歌うことには自信がなかった。声にもコンプレックスを抱いていた。しかしシンガーソングライターの世の中になっている。作曲家だけで世に出るのは大変だと説得された。村井の申し出を断れば、自分の曲を発表するチャンスは二度とこないかもしれない。由実は自分で歌うことを決意する。

 親は反対した。作曲だけならまだしも、生き馬の目を抜くような芸能界にあって、歌手だなんてとでもないと。そこでアルファ内で特に熱心な若手社員が由実の八王子の自宅を何度も訪れ、両親に情熱で訴え、ようやく契約書に判子を押してもらった。ただし両親は、大学へ進むことを条件とした。

 由実も思った。まだ自分は高校生だ。音楽もこの先どうなるかわからない。他の可能性も試したい。中学時代から勉強してきた絵の才能も生かし、卒業後は、東京芸大の日本画専攻に進もうと考えた。日本画なら染色や友禅にも役に立つ。もし娘が着物デザイナーになれば家業にとって願ってもないことだ。両親は諸手をあげて喜んだ。もっとも油絵やデザインの学科は競争率が高い。日本画は一番低いという計算もあった。

 現実的な進路選択をおこなった由実は、高校2年から受験勉強を本格化させる。ディスコなどの遊びを一切絶った。決意は固く、誘いはあっても、遊び仲間はもちろんのこと、チェンとも会わなくなった。

 絵の勉強は、御茶の水美術学院に本格的に通いだした。家庭教師にもついた。橋本というその先生は東京芸大大学院で日本画を学ぶ女性で、絵のテクニックを由実は習うと同時に、マインド面でも大きな影響を受けた。妥協を許さない厳しい人で、彼女に鍛えられたおかげで、由実は創作活動における強靭さを身につけることができ、道は異なるが、過酷な音楽の世界でも生き抜くことができた。『卒業写真』のモデルは、実は男性ではなく、橋本先生をイメージしたものとされる。

 もっとも噂されるモデル候補は他にもいた。エッセイスト酒井順子は著書『ユーミンの罪』で、こう記している。

 「ユーミンと同じ高校に通っていた私ですが、高校時代、一つの伝説がまかり通っていました。E先生という、ものすごく怖い体育の女性教諭がいたのですが、ユーミンの『卒業写真』における『卒業写真のあの人』とはE先生のことなのだと、まことしやかに言い伝えられていたのです。歌の中で、『あの人』はもちろん男子の同級生を思わせます。が、ユーミン自身は女子校出身。そしてE先生は、高校3年生か最後の体育祭で踊る伝統のダンスを、鬼のように厳しく教える方で、怒られた事が無い人はいないほどだった。『人ごみに流されて変わってゆく私を  あなたはときどき遠くでしかって』という歌詞を聴けば、怒り顔が似合うE先生像もあてはまるわけですが、真偽のほどは定かではありません」

 72年、由実は東京芸術大学を受験する。このときの実技試験の監督教官が橋本先生の仲間だった。試験は二日かけて課題を描くのだが、一日目の夜、「あの子、今日こういう風に描いていたわ」などの”報告”が橋本先生につたわり、「赤色を使った方がいい」などの”アドバイス”を由実は受けている。このおかげか実技は通ったものの、しかし芸大への夢は、三次試験で潰えることとなった。落胆し、おいおい泣き、浪人すると言い張った。だが親に説得され、先に受かっていた多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻に入学することとなった。

 多摩美は、芸大の滑り止めとして、絶対に受からないといけない学校だった。私立は芸大と絵の傾向が異なり、私立用のテクニックが必要となる。そのため由実は、私大受験用の家庭教師として、もうひとりの先生にもついていた。武蔵野美術大学の研究室にいた、この若い女性の先生のおかげで、多摩美に合格することができた。

 進学先は決まった。しかし絵の道に本格的に進むまでには、気持ちは固まらなかった。アルファとの契約もあったが、橋本先生のようにはなれないと悟ってしまった。一方、音楽を極める未来を想像することはできた。

 

 

 

 

荒井由実ヒストリー拡大版(2/5)ひこうき雲