はっぴいえんどについては、これまでも度々書いてきました。楽曲はむろんのこと、メンバーであった松本隆や細野晴臣の生い立ちなどをです。今日はそのひとり、鈴木茂をとりあげます。
はっぴいえんどの曲において、細野が作曲した『風をあつめて』は有名です。しかし鈴木の『花いちもんめ』は、ほとんど知られていません。バンド解散後、松本ら三人はビッグネームとなりましたが、鈴木の認知度は皆無といっていい。
それでも自分は、彼の音楽が大好きです。はっぴいえんど3rdアルバム『HAPPY END』における鈴木の曲は、同盤での細野や大瀧作品を凌駕し、アルバムイメージとさえなっています。ソロ・ファースト・アルバムである『バンドワゴン』は、ロックの名盤としての名高く、バンド、ティン・パン・アレイでの作品『ソバカスのある少女』は、ソフトロック不朽の名曲といえます。
拙稿は、活字メディアにおける鈴木茂作品の、優れた評論を引用させていただきました。萩原健太氏の名著『はっぴいえんど伝説』と『70年代 シティポップクロニクル』、そしてコラムニスト泉麻人氏の、『僕とニュー・ミュージックの時代』からの拝借となります。
このふたりは、ともに十代の後半に『バンドワゴン』を聴き込んでいて、当時の感動を熱く語っています。おそらく同アルバムをここまで詳述した評論は、他にないはずです。彼らと同世代の自分にとって、まさに同時代体験であり、文筆業ゆえの秀逸な表現力も素晴らしく思う。これらが世の鈴木茂ファンの目にとまることを願っています。
萩原健太著
『はっぴいえんど伝説』
(前略) 鈴木茂も『風街ろまん』以降、精力的に個人的活動を開始した。活動のフィールドは主に細野晴臣と同じ、スタジオーミュージシャンとしてのものだった。72年に入ってから、彼は、笠井紀美子、小坂忠とフォージョーハーフ、金延幸子、あがた森魚らのアルバムにバック・ミュージシャンとして参加。徐々にセッション・ギタリストとしての腕を上げていった。
鈴木「ほんと自然にそうなっちゃったんですね。流れで。ほら、ぼくたちは音を出す″プレイヤー″ってとこあるからね、だからわりと歌手が誰であろうと平気でいられるってとこあるでしょ。自分はギターを弾く人間だから、みたいな。だから、平気でそういうところで仕事しはじめてたね。大瀧さんは『風街』のあとソロ・アルバム作るって方向に走ったでしょ。ああいうのもわかるよね。逆に。″プレイヤー″意識があったかなかったかってことなんだろうけど。
鈴木は、大瀧詠一のソロ・アルバム作りにも参加した。が、このアルバムの完成後、はっぴいえんどの解散が決定。「最後のおみやげ」として、アメリカ・レコディングが始まった。
鈴木「ぼくとしては、あの″おみやげ″がいろんな意味で大きかった。転機っていうか、いろんなキッカケになってるんですよ。ちょうど年齢的にも、肉体的にも、精神的にも、かなりパワーがあった時代だったしね。見るもの聞くもの。なんでも刺激になった。楽しかったですよ、ほんとに。正直言うとね、いちばん最初はっぴいえんどに入ったころの印象はね、あんまりカッコいいバンドってイメージじゃなかったんだよね。言葉も……あのころ、ぼくは″日本語で歌う″ってのに抵抗あったしね、どっちかって言うと。なんかダサイなァ、みたいな感じでさ(笑)。だから、一枚目のアルバムは、今でもあんまり好きじゃない。なんだか暗くて。だんだんあかぬけてきて、抵抗もなくなってきたけどね。音も明るくなってきたし。うん、やっぱり『風街』からだよね。あの辺から日本語で歌うことにもなじんできた。″おまえも曲作れ″とかね、″作った以上は歌え″とか、みんなに言われて。そんなこともあって、あのころから面白くなりはじめたんです、ぼくの場合。それで、アメリカ行って……。まず最初ね、解散ってわかってたでしょ。だから、みんななんだかブスーとしちゃってるんだ。お互いこのあと別れるんだな。とか思うと、やっぱり沈むよね。スタジオでレコーディングしてても、みんな下向いちゃってしゃべんないわけ。そしたらあっちのミキサーもさ、だんだん暗くなってきちゃって、″おまえら何やってんだ!?“とか怒りだした(笑)。″おまえら笑わなかったら、オレはおりる!とにかく笑え!″って。ぼくたちはもう理由もなく。しょうがないから二コニコしもやってね(笑)。それからようやく音のほうもうまい具合にいきはじめたの。で、そのときに、いろんな人を紹介してもらったんですよね。ヴァン・ダイク・パークスとか、リトルーフィートのメンバーたちとか。録音も手伝ってもらえたし。ちょうどリトル・フィートが、あの『デキシー・チキン』つてアルバムを作ってる時期だったわけ。連中はクロバー・スタジオ。ぼくたちはサンセット。で、こっちのレコーディング終わってから、ちょっとスタジオ見せてもらったんだけど、もうすっごい音出して、ものすごいの。あの刺激がとにかく大きかったな」
はっぴいえんどは、音楽的には大瀧と細野の二枚看板といった印象が強いバンドだった。が、ことラスト・アルバム『HAPPY END』に関しては、主役をつとめているのは細野晴臣と鈴木茂の二人だ。大瀧は、ソロ・アルバム『大瀧詠一』にすべてのエネルギーを放出してしまったのか、本来のひらめきをまったく発揮できないままに終わっている。そんな大瀧作品のパワー・ダウンぶりを見事にカバーしているのが、鈴木茂のペンによる三曲だった。ゆるやかにうねるリズムの隙間をぬうように、メロディアスなボーカルがなめらかにすべっていく。ボーカルだけを取りだしてみると、非常に線の細い、悪く言えばかぼそく頼りなげなものだった。けれども、それが奇妙に曲調とマッチして、一種独得な音世界を構築していた。冷ややかな美しさが、このアルバム全体に漂っている。そのイメージを決定づけているのが、それら三曲の鈴木作品なのだ。ギタリストとしても、著しい成長を見せた。アルバム中、いくつかの曲で、彼はピックを使わず独自のフィンガー・ピッキングを聴かせはじめている。ソロのフレーズは、前二作とさほど変わらない印象をうけるが(流れ去るコードをやわらかになでるような、けっしてクライマックスを迎えることのないソロ……と言ったら、言い過ぎだろうか)、このフィンガー・ピッキング・テクニックの開発によって、バッキングのリズム感覚が確実にグレードアップした。のちにセッション・ギタリストの第一人者となった彼が、このテクニックを駆使して多くの名演奏を残したことを思えば、これは見逃せない事実だ。鈴木茂は、『HAPPY END』に至って、ようやくバンドの一員として何かをつかむことができた。細野、松本、大瀧の三人が、前作『風街ろまん』ですでに「燃えつき」ていたこととは、実に対照的なのだ。鈴木茂が輝きだしたことは、大歓迎ものだった。ぼくたちは、大きな期待を胸に、解散後の彼の次なる行動を待ち望んでいた。
(中略)
鈴木茂は、74年秋に単身渡米。10月28日からおよそ1ヵ月かけて。『HAPPY END』のレコーデ″ング時に知り合ったスタッフ、ミュージシャンらとともに、初のソロ・アルバム『バソド・ワゴン』を制作。翌75年3月にクラウン・レコードよりリリースした。
収録曲すべて鈴木茂のオリジナル。うち二曲が彼のフィンガー・ピッキング・ギターをフィーチャーしたインストゥルメンタル・ナンバー。ほかが松本隆作詞によるボーカル曲だった。今の耳でこのアルバムを聴くと、確かに随所に難がある。特に、粘りとキレの鋭さをあわせもつ唯一無比のリトル・フィート・リズム・セクションとの共演曲「スノー・エキスプレス」「夕焼け波止場」にそれは明らかだ。リトル・フィートの強力なバウンド感と、鈴木茂のバウンド感の間に大きなズレが生じている。リトル・フィートがこのころちょうどグループとしての絶頂期にいたことを思えば、しかたのないことなのかもしれない。詞とメロディのマッチングに関しても、まだ過渡期だ。松本隆が、はっぴいえんどのころとは微妙に力点をずらした詞をつけているせいだろう。歌詞からはみだしてしまった音符の処理がどうもいらだたしく思えるのだ。が、そんなこまごまとした欠点など突き破ってしまうだけの熱気がこのアルバムにはあふれている。本場に乗りこみ、まっこうから真剣勝負を挑んだ若き鈴木茂の気迫は、今も減衰することなく生々しく伝わってくる。胸のすくような勢いがある。率直な誠実さと、どこかむこうみずなパワー。憂鬱と不安を粉砕して突き抜ける強靭なバネがある。ボーカルも、多少力みすぎの個所はあるが、けっして嫌味じゃない。『HAPPY END』をさらにグレードアップさせた感じの曲作りもいい。それぞれの曲が、張りつめた微妙なバランスを保ちながら、一枚のアルバムを構成している。このレコードを聴き進めながら、はっぴいえんどのニュー・アルバムと錯覚しそうになった人も多いはずだ。事実、はっぴいえんど後期の大瀧詠一を思わせる唱法がところどころに顔を見せる。また、コーラスの乗せ方などには、細野晴臣のリズム感覚が感じられる。
はっぴいえんど、そしてキャラメル・ママでの活動を通じて得た様々なエッセンスを自分なりに消化して、鈴木茂は『バンド・ワゴン』で一気に爆発した。ひとまわりスケールの大きくなった姿を見せつけてくれた。『HAPPY END』を聴いたとき、ぼくたちが抱いた熱い期待は、ここでついに現実のものとなったのだ。
泉麻人著
『僕とニュー・ミュージックの時代』
右下に『バンドワゴン』が写り込んでいる
鈴木茂『バンドワゴン』
75年、鈴木茂の『バンドワゴン』が発売された。はっぴいえんどの時代から、ポップス好きの僕は大滝詠一と鈴木茂の曲を贔屓にしていた。とくに鈴木の『氷雨月のスケッチ』って曲は大好きで、また彼の少年性の感じられる声質も好みだった。大学のサークルの合宿所がある葉山へ行くとき、このアルバムの曲を録れたテープを流しながら、第三京浜や湘南道路を車でかっとばした記憶がある。ウェストコーストのミュージシャンの演奏、ミキシングやスタジオ環境によって織りなされた音がイイ。冒頭の「砂の女」のイントロなどは、何度聴いてもアドレナリンが昂まって、「とぶ」心地になる。この曲は、とりわけ夏の幕開け(5月頃の夏めいた日でもいい)の頃に聴くとキモチがいい。おもわず海が見える場所に向かってドライブしたくなってくる。サウンド的にも夏をシチュエーションにした曲と、しばらくイメージしていたのだが、詞をよく読むと季節は冬のようだ。「風まじりの 雪がすべる 浜辺に~」。尤も、作詞の松本隆は「白い砂」を「雪」に喩えたのかもしれないから、一概に雪=冬とは解釈できないけれど。また「雪」のフレーズが出てくることによって、真夏に聴いてもさわやかな風が吹いてくるような、一種、納涼的な効果がある。そして、なんといっても耳に残るのは終盤の一節だ。「じょうだんは やめてくれ」は、松本隆お得意のクールな男の捨てゼリフ。『八月の匂い』は、ローカル電車を舞台にした、『夏なんです』なんかの流れをくむ、はっぴいえんど臭の強い作品だ。「ラムネ飲みほす」「蒼いラムネの空壜」などのフレーズが出てくるけれど、この時期(75年)のラムネは、もはやレトロ的な季語といっていいだろう。そして『砂の女』とともに、僕がヘビーローテーションで針を落としていたのが『微熱少年』。松本隆が同題の小説を書き、映画を撮ったのは、これよりおよそ10年後のことで、それまでは微熱少年というと、この鈴木茂の曲の内閉的な世界が浮かんできた。「天井の木目 ゆらゆらと揺れて溶けだした」。ハシカの熱にうなされながら、寝床でぼんやり天井の模様を眺めていた幼児体験が甦ってくる。ビー玉、路面電車……これもいわゆる風街ものの続編といえるだろう。微熱少年というテーマに、鈴木茂の声質、キャラクターがよく似合っている。その後、『ラグーン』『コーション』……と80年代にかけての何枚ものアルバムを愛聴したが、松本隆自身の少年性が鈴木茂には最も巧く投影されているように思う。『100ワットの恋人』は物語性の強い、愉しい一曲だ。デートの待合せに5分おくれて行ったのに25分待たされた……不器用な男の様子がコミカルに描かれている。結局、30分遅刻したタカビーな女は、やがてマシンガンのような早口で俗な話題を語り出す。「ショーケンがどんな素敵かを話しては 頬そめてウットリ」。このショーケン(萩原健一)はテンプターズではなく、『傷だらけの天使』のオサムに違いない。鈴木が発音する「ショーケン」の響きが、ちょっと犬の遠吠えっぽくて味わい深い。語呂の良さもあったのだろうが、『傷だらけの天使』のショーケンの話題というのが、このいなたい(垢抜けない)カップルのデートシーンにもよく馴染んでいる。トロピカルグラスのジャケ写が印象的な、70年代中期らしいウェストコースト・サウンドが満喫できるアルバムながら、詞世界はヨコモジの乏しい和風、というのが『バンドワゴン』の魅力だ。この辺のバランスが、湘南あたりの疑似ウェストコーストに程良く似合っていた。
『バンドワゴン』GBS見物記
アルバム『バンドワゴン』をテーマにしたゲットバックセッション(GBS)に行ってきた。HMV主催のGBSはアルバムの曲順どおりに演奏する、という主旨だから、聴きこんできたファンにはたまらない。会場は渋谷のWWW。入り囗のカウンターでジントニックを買って、場内へ。PA後方の僕の席から見渡した客層は、圧倒的に男客が多い。こういうJロック系の会場にしては帽子の着用率は低く、黒山の中にぽっぽつと光る頭が見受けられる。大方は僕より下のせいぜいブンヤ系の世代、と思われたが、斜前あたりに地味なスーツ姿の年配男がぽっんと見える。バンドメンバーとともに、すんなり登場した鈴木茂の出立ちは、黒のウェスタンシャツにカーキのパンツで、サングラスをかけているのは『バンドワゴン』のジャケ写に合わせたのだろう。ジャケ写で鈴木がかけていたモデルは、〈トロピカルグラス〉と呼ばれたLAのハヤリモノで、やがて湘南あたりのサーブショップでも見掛けるようになるポパイ少年憧れのアイテムだった。僕も翌夏あたりに入手して、茂のポーズをマネて葉山の海岸でサムタイムを喫った。そんなスタイルで、『砂の女』の爽快なイントロが始まった。「♪風まじりの 雪がすべる 浜辺に」。いまでもこの曲は、季節が夏めいてくると必ずクルマで聴く、夏の風物詩的なナンバーだ。尤も「雪がすべる浜辺」とあるから、本来のシチュエーションは冬なのかもしれないが。しかし、曲順に忠実……となると、ド頭でやってしまった『砂の女』はもうコレでおしまい、ってことでちょっと寂しい。アンコールでもう一度くらいやってくれることを期待しよう。「砂の女」を終えたところでサングラスを外し、ギターを使いこんだやつにチェンジした。渋い朱赤が基調になったそのモデルこそ、鈴木が『バンドワゴン』の頃から愛用している〈1962年製 フェンダーストラトキャスター〉というやつだろう。「LAの中古屋で14万で入手した。あの頃に百本くらい買っておけばよかった」と、ライヴの途中に冗談まじりに語っていた。『八月の匂い』そして「微熱少年」。このA面の頭3曲までは、当時ヘビロテ気味に針を落としていたパートである。『微熱少年』の間奏あたりから、いよいよ茂らしいスライドギターのソロが愉しめる。う~ん、この感じ、何かの曲に似ているな・:と思って浮かんできたのは鈴木あみの[ホワイト・キー]って曲のイントロだった。後年、カラオケで聴いてグッときたナンバー、同じ鈴木姓とはいえ、おそらく鈴木茂とは関係ない。インストの『スノー・エクスプレス』の前だったか……バンドメンバーの紹介があった。見た目、三、四十代の若い連中で、僕は名と顔の一致する人はいなかったが、会場からそれなりの歓声が上がるところを見ると、名うてのプレイヤーたちなのだろう。ドラムの男なんか『バンドワゴン』の頃には生まれていないような佇まいだが、実に見事にコピーしている。そういう若いミュージシャンたちを仕切る茂は、バックバッドを従えた看板のシンガーというより、彼らと同じ作業現場にいる棟梁といった風情。アンコール明けのときだったか、アンプの音の調子がおかしくなって、何度もペダルを踏みながら確かめている所作などは、まさに職人。バイク修理工場のガンコオヤジ、みたいな像が重なった。「ここからレコードはB面に……」なんていうオールドファン向けの輊いジョークがあって、『人力飛行機の夜』、そして『100ワットの恋人』。『100ワット』は松本隆の鈴木茂作品における一つのタイプでもあるぶ青春ドラマモノ。「♪きみの早ロ マシンガンのようさ ショーケンがどんな素敵かを話しては」と、デートシーンに登場するショーケンのフレーズが強い印象を残す。このアルバムの時期のショーケンといえば、なんといっても『傷だらけの天使』だろう。74年秋から75年春にかけての放送だったが、あのハードボイルドなドラマのイメージは、鈴木の曲の世界とも相性がいい。劇中に流れる大野克夫や井上堯之のR&Bセンスのインストも鈴木やティン・パンーアレーのサウンドからさほど遠いものではない。しかし「傷天」を知らない世代の若い観客は、「ショーケン」のフレーズにどんな反応をするのだろう。『バンドワゴン』以来、アルバムはほぼ忠実に聴いてきたが、こうやってナマのライヴを眺めるのは実は初めて。3曲ほどの間隔で、す~っと短い話か挟みこまれる、シャイな感じが心地よい。間で長々と裏話を語られるより、すぐに曲に行ってくれた方が往年のアルバム感を掴みやすい。『ウッド・ペッカー』『夕焼け波止場』、アルバム最後の曲『銀河ラプソディー』を終えて、とりあえずメンバーはステージを去った。PA背後の僕の位置からは、ミキサーの女性が確認する進行表が老眼ながら大方読みとれる。それによると、よほどのことがないかぎり、アンコールが2度眺められるはずだ。観客の拍手にのって再登場した鈴木、曲前にぼそっと語ったクラウンレコード時代の逸話がおかしかった。レコーディングをしていて、隣のスタジオから上ずった独特の声が聴こえてきた。誰かと思ったら小林旭だった……という話。そうだ、クラウンといえば、僕らの世代は西郷輝彦や美樹克彦のいた歌謡曲畑のメーカーを想像したから、『バンドワゴン』のアルバムに〈PANAM〉のレーベル名とともにCROWNの王冠ロゴを見た瞬間、意外な気がした憶えがある。アンコールー曲目レイニー・ステーション』。この軽快なラブソング、改めて聴いてみて、80年代のユーミンや聖子ポップスに通ずる礎的なものを感じた。そして、はっぴいえんど後期の『さよなら通り3番地』があって、2度目のアンコールは『夜更けにベルを押す時は』から。これは今回唯一知らない曲だったが、終盤のギターソロの所で大好きだった神田広美の『哀しみ予報』を思い出した。作曲はキャンディーズなどで知ちれた穂口雄右だったはずだが、バックはティン・パン・アレーの面々で、とりわけ茂のカリフォルニア気分のギターソロが効いていた。オーラスは「花いちもんめ」。イントロの入りの所で目頭がジンとくる。大瀧詠一氏にまつわる追悼をこめた思い出話でもするのか……と思ったら、「一番最初に作った曲を」と一言いって、さらっと演奏に入るあたりがクールな茂らしくていい。「♪ぼくらが電車通りを 駆け抜けると~」。電車通りという表現はもはや廃れてしまったけれど、これはかつて都電が走る道の俗称として使われていた。松本隆のはっぴいえんど時代の詞には、よく幻想としての都電(路面電車)風景が描かれるが、この渋谷の駅前にも彼らがデビューする頃(69年秋)まで都電が入りこんでいた。会場の出際、高校時代の友人とばったり遭遇。それはどの親友でもなかったので、ちょっと立ち話をして別れた。表に出て、ひとりスペイン坂を下り始めたとき、「ホテルオリエント」の玄関口は坂の途中にひっそりと隠れるようにあった……なんてことを思い出した。前にいくカップルが、す~っとそこに吸いこまれて消える……40年前の光景がにわかに甦った。
萩原健太著
『70年代 シティポップクロニクル』
70年代半ば、鈴木茂もシュガーベイブ同様、当時のトレンドに背を向けるかのように、バンドというフォーマットへの強いこだわりを感じさせる活動を展開していた。彼がかつて在籍していた、はっぴいえんどというバンドの終わり方も大きく影響していたのだろう。鈴木茂が自らのオリジナル曲をはじめて音盤に刻んだのは71年、はっぴいえんどのセカンド・アルバム『風街ろまん』のときで、『花いちもんめ』という曲だった。音楽的には細野晴臣と大瀧詠一の二枚看板といった印象が強かったあのバンドにあって、鈴木茂が書いたこの曲は実にいいクッションになっていた。えんえんと底辺でベースがEの音をキープするなか、コードだけがD→A→Eと移り変わっていく。広がりと遠近感をたたえた音像がなんとも魅力的だった。歌詞の語句を短くたたみ込むのでぱなく、ひとつひとつ長く引き延ばしながらメロディに乗せていく唱法も、まだまだアマチュアっぽさを漂わせてはいたものの、妙に印象に残った。4人のメンバー中、年齢的にも弟的な存在だった鈴木茂が新たな地平に向けて一歩を踏み出した感触があった。が、細野、大瀧、そして松本隆にとっては『風街』がある種のピークであって、彼らはここで燃え尽きていた。はっぴいえんどでやれることはやり尽くした、と。が、鈴木茂にとっては、これから、だった。意欲に満ちていた。が、今後の方向性に関して、メンバー間にちょっとした確執もあったようで、結局はっぴいえんどは事実上このアルバムを最後に活動を休止した。松本隆がその確執のさまを、2本の煙突の様子に託して歌詞にしたのが『花いちもんめ』だったことも、今思うと皮肉だ。ともあれ、はっぴいえんどの実質的な歩みは止まり、73年、ある種のごほうびとして口サンゼルス・レコーディングによるサード・アルバム『HAPPY END』が制作された。ここで音楽的な二枚看板を形成していたのぱ細野=大瀧ではなく、細野=鈴木だった。大瀧は72年のソロ・アルバム『大瀧詠こにすべてのエネルギーを放出してしまったのか、本来のひらめきをほとんど発揮できないまま終わっていた。そんな大瀧作品の弱さを見事にカヴァーしていたのが、『氷雨月のスケッチ』『明日あたりはきっと春』『さよなら通り3番地』という鈴木茂のペンによる3曲だった。すべて作詞は松本隆。この3曲の行間に漂う冷ややかな美しさが『HAPPY END』というアルバム全体を貫くイメージを支えていた。歌声はまだか細く、頼りなさげでぱあったけれど、リード・ヴォーカリストとしての自覚が徐々に芽生えつつあるようにも聞こえた。ギタリストとしても著しい成長を見せた。アルバム中、いくつかの曲で彼ぱ通常のフィンガー・ピックを使わず独自のフィンガー・ピッキングを披露し始めている。いよいよ鈴木茂ならではのギター・スタイルが完成しつつあった。フィンガー・ピッキング・テクニックの開発によって、バッキングのリズム感覚が確実にグレードアップしていた。はっぴいえんどの終焉とクロスフェイドするようにして鈴木茂が輝きだしたことは、大きな希望と期待をもたらしてくれた。ぼくたちは解散後の彼の次なる行動を見守った。が当初は細野晴臣とともにキャラメル・ママの一員として、セッション・ミュージシャン的な活動をメインに据えた。鈴木茂本人はキャラメル・ママで独自のバンド活動をしたいと希望していたようだが、別方向に強く向かっていた細野晴臣の考えと折り合いがつかなかったことや、安定したりリード・ヴォーカリストの不在などもあって、事は思うように進まぬまま、キャラメル・ママはやがてティン・パン・アレーヘと遷移してゆく。そんなとき、音楽雑誌などを通してぼくたちは鈴木茂が単身渡米する計画を立てていると知った。74年秋のことだ。10月28日からおよそ1ヵ月をかけて、『HAPPY END』のレコーディング時に知り合ったスタッフ、ミュージシャンとともに、初のソロ・アルバムの制作にとりかかった。鈴木茂が当初希望していた顔ぶれとは多少違ったようだが、最終的に、タワー・オヴ・パワーの創設メンバーのひとりとして名を馳せたデヴィッド・ガリバルディ(ドラム)をはじめ、スライ&ザ・ファミワー・ストーンの初代メンバーでウェザー・リポートやデヴィッド・ボウイ・バンドでの仕事でも知られるグレッグ・エリコ(ドラム)、サンタナとの活動が有名なダグ・ローチ(ベース)、80年代にかけてフュージョン・シーンで大活躍することになるドン・グルーシン(キーボード)、そしてリトル・フィートのメンバーであるビル・ペイン (キーボード)、ケニー・グラッドユー(ベース)、リッチー・ヘイワード(ドラム)など、そうそうたるメンバーによってバックアップされたアルバムが完成。『バンド・ワゴン』と名付けられて翌75年3月にリリースされた。収録曲すべて鈴木茂のオリジナル。うち2曲が彼のフィンガー・ピッキング・ギターをフィーチャーしたインストゥルメンタル・ナンバー。ほかが松本隆作詞によるヴォーカル曲だった。荒井由実の『ミスリム』に収録されていた『あなただけのもの』で聞かせていたギター・リフをもとに発展させたようなインスト曲『スノー・エキスプレス』あたりを聞けば、ティン・パンの活動の中で鈴木茂が何を不満に思い、どうしたかったのか、おぼろげにではあるが見えてくる気もする。もっとタイトに、もっと強く、もっと太く……。そして、鈴木茂はそれを見事に実現してみせたのだ。胸のすくような1枚だった。冒頭を飾る「砂の女」からテンション全開。デヴィッド・ガリバルディならではのぐいぐい畳み掛けてくるグループが衝撃的だった。どの曲にも、憂鬱と不安を粉砕して突き抜ける強靭なバネがある。多少力み過ぎとも思えるヴォーカルも、率直な誠実さと向こう見ずなパワーを感じさせてくれるようで痛快だった。そして、『HAPPY END』をさらにグレードアップさせた感触の曲作り。収録曲それぞれが、張りつめた微妙なバランスを保ちながらアルバム全編を構成していた。はっぴいえんど後期の大瀧詠一を思わせる唱法がところどころに顔を見せる。コーラスの乗せ方などには、細野晴臣的なリズム感覚も聞き取れる。はっぴいえんど、そしてキャラメル・ママでの活動を通じて得た様々なエッセンスを自分なりに消化して、鈴木茂は『バンド・ワゴン』で一気に爆発した。ひとまわりスケールの大きくなった姿を見せつけてくれた。『HAPPY END』を聞いたとき、ぼくたちが抱いた熱い期待は、ここでついに現実の物となったのだ。表面的に振り返れば、鈴木茂がアメリカで豪華なセッション・ミュージシャンを迎えてソロ・アルバムを作った、と。そういう形にも映り、彼がキャラメル・ママ~ティン・パン・アレーでの活動の中、漠然と感じていた不満と矛盾するように思えるわけだが。ここで彼が必死に模索しているのは最強のバンド・サウンドだったと思う。その思いがアルバム・タイトルにも反映されているのだろう。当時の思いに関して、鈴木茂は「ティン・パンのみんなを裏切るような気持ちだった」とのちに述懐したりもしている。その証拠に、アルバムの録音を終えて帰国した鈴木茂は、アタバム・リリースを待つことなく、75年2月、アメリカでのセッションの熱のようなものを日本で再現するため、新バンドを結成した。大阪で石田長生ともにTHISというバンドで活動していた佐藤博(キーボード)、田中章弘(ベース)、林敏明(ドラム)を迎えた4人組とである。彼らはハックルバックと名乗り、活溌なライブ活動を開始した。ティン・パンのコンサート・ツアーなどにも同行し、彼ら単独のコーナーで演奏を披露したりもしていた。ハックルバックは本当にかっこよかった。ぼくたちファンにとって、期待のバンドだった。当時、まだチョッパーなんて言葉さえ知らなかったぼくたちに、親指でぶちぶち弾くベースのかっこよさを教えてくれたのもこのバンドだった。スライドーギターのスリルを教えてくれたのも、ゴスペルやR&Bに根差したアレンジのかっこよさを教えてくれたのもこのバンドだった。一時はティン・パン・ツアーにおいても看板バンド的な存在になっていた。林立夫(ドラム)、小原礼(ベース)、ジョン山崎(キーボード)、今井裕(キーボード)、浜口茂外也(パーカッション)、大村憲司(ギター)、村上ポンタ秀一(ドラム)らが流動的に交錯する大所帯バンドであるバンブーともども、クロスオーヴァー~フュージョン、あるいはファンクといった熱い音楽性をホップなやり囗で体現する活きのいいバンドが日本にもついに登場した、という興奮があった。が、残念ながらバンドに賭ける鈴木茂の情熱も、強烈なリーダーシップの欠落、および、ここでもまた強力なリード・ヴォーカルの不在という理由から長続きせずに終わってしまった。結成から1年足らずの75年11月、東京・新宿の厚生年金会館で行われたラスト・コンサートは、核となる4人のメンバーにウィーピン・ハーブ妹尾(ハーモニカ)、斎藤ノブ(パーカッション)、国府輝幸(キーボード)を加えた7人編成で。このときのスケール感に満ちた演奏を思うと、実に残念な解散だった。しかも、ハックルバックは正式なスタジオ録音アルバムを1枚も残さずに活動に幕を閉じてしまった。以降、鈴木茂は一歩引いた立ち位置から、クールにセッション・ギタリストとして、プロデューサーとして、あるいはアレンジャーとして、改めて活発な活動に入った。ソロ・アルバムを作る際も、演者としての自らをプロデューサー的な視点から俯瞰してとらえるような作品群が多くなった。バックルバック解散とともに、バンドというものに賭ける鈴木茂の情熱も幕を閉じたということなのかもしれない。見果てぬ夢。バンドはむずかしい。が、そんな夢の実現を追い求めて懸命に模索する中で生み出された『バンド・ワゴン』という入魂のアルバムは、だからこそ今なおいきいきと躍動しているのだろう。
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