筒美京平ヒストリー ~ 誕生からたどる大作曲家の軌跡 〜 知られざるその人となり | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

10月7日、作曲家界の巨匠、筒美京平氏が亡くなりました。氏の初のヒット曲『ブルーライトヨコハマ』は、ブログ筆者が中学1年のときの歌で、このころから音楽に関心を抱きはじめたように思います。以降のヒット曲も、題名だけでメロディが頭に浮かんできます。大ヒット曲『また逢う日まで』は、カラオケの十八番となりました。

それでも自分にとっての氏の代表曲といえば、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』となります。世評も同様なのか、10月末のNHKの追悼番組でも、この歌は大きく取りあげられていました。以下の一文はその文字起こしを中心に構成しました。これまでも自分は『木綿~』や太田裕美に関し書いてきましたが、思い入れがそれだけ強いということです。

また拙稿は、「筒美京平ヒストリー」と題しています。氏は華やかな芸能界に身をおきながら、ほとんど表舞台に出ることはなく、自らを語ることも少なかったようです。ここでは僭越ながら、その生い立ちから始まる作曲家人生を駆け足でたどり、また各界からの追悼文を引用、その実像に迫ってみました。

今回の資料で初めて知ったのですが、筒美氏はとても内気な性格で、人と接することが苦手であったらしい。どんな仕事でも、人間関係が成否のカギを握ります。こと音楽業界も例外ではないでしょう。むしろ、より人とのつながりが大きなウェイトを占める世界と思われます。それでも氏がおさめた比類なき実績は、その実力がいかに抜きん出ていたかの証左といえます。

 

自分は十代後半のころ、吉田拓郎やはっぴいえんどといった、いわゆるフォークやロックが好きで、歌謡曲のレコードを買い求めることはほとんどありませんでした。それでもこのような一文を書く気になったのは、ひとえに筒美京平という人に興味を抱いたからです。

 

また氏の曲が頭に刷り込まれているということは、無意識のうち、テレビなどから流れていたその音楽性に魅入られていたのでしょう。逝去の報を受け、自分と同様、昔を懐かしんだ人も多いはずです。そのような方々にお読みいただければさいわいです。



 

引用させていただいた資料です。深く感謝します。

NHKスペシャル「筒美京平からの贈りもの 天才作曲家の素顔」
『筒美京平ヒットストーリー1967-1998』

『筒美京平の世界』

『KAZEMACHI CAFE』
『週刊文春』11月5日号
『朝日新聞』2020年11月18日朝刊




( NHKの追悼番組から )

 

 

筒美京平は本名を渡辺栄吉という。1940年(昭和15年)5月28日、東京の神楽坂で、鋳物業をいとなむ家に生まれた。近くのキリスト教系の、霊南坂教会幼稚園に通いはじめると、音楽に興味を持ちはじめる。筒美の曲に賛美歌の影響が大きいとされるのは、この時期の刷り込みによるものだろう。その傾向は、大ヒット曲『また逢う日まで』に顕著にあらわれているという。

母親がFENから流れる洋楽を好んで聴き、レコードも買いそろえていた。家の近くにはアメリカ大使館があり、その関係者から日本非売のレコードを手に入れるなど、筒美は自然と洋楽と親しむようになっていった。幼稚園のときには、ねだって中古ながらピアノを買ってもらっている。

青山学院の初等部に入学すると、ピアノの個人レッスンを受け始める。低学年で歌をつくり、才能の片鱗を見せはじめた。聖歌隊にも入り、中学高校に進むころには伴奏を任されている。ピアノでも卓越した技能を発揮し、クラシックピアニストを目指しレッスンを続けた。

だが両親の離婚や母親の死去といった事情がかさなり、レッスンは中断される。叔父方に引き取られてからは、高校の音楽教師がその素質を惜しんで、個人教授を買って出てくれた。だが望んでいた音大への進学は断念せざるを得なくなった。

高校時代、一学年上に転校してきたのが、のちに作詞家となる橋本淳だった。筒美とのゴールデン・コンビとなるふたりの出会いとなった。中高時代の筒美は、音楽に打ち込む一方、クラブ活動は園芸部に属していて、終生の趣味をガーデニングとしている。青山学院大学に進んだ筒美は軽音学部に入り、クラブの先輩橋本との交流を深めていった。ジャズ喫茶にも通いだし、夏と冬の休みには箱根のホテルや新潟のスキー場で演奏した。

大学対抗のジャズバンド大会に出たときのこと。審査員の服部良一から、「ピアノの人はモノになります」と褒められている。この言葉は、作曲家の道を選ぶ際の大きな自信となった。しかしこのときは、音楽を生活の糧にするまでの勇気はなかった。せめて就職先は音楽に関わりたいと、一般企業を受ける一方、日本楽器(ヤマハ)などにも応募している。

 

結局、大学の先輩から勧誘された日本グラモフォン(ポリドール)に入社。筒美は歌謡曲を好まず、面接でも、「洋楽以外の仕事はしません」と宣言し、洋楽ディレクターとなった。のちの進路を考えれば皮肉なものだが、ジャズに傾倒していた若者らしい気負いがあったようだ。


グラモフォンでの4年間、海外の曲の買い付けやプロモーションの仕事をしながら、筒美はヒット曲の神髄を学んでいく。この時期に初の市販曲も作ったが、在職中であったため、他の作家名でリリースされている。自作のレコードに初めて針を落とした筒美は、興奮でまともに聴けなかったという。このような経緯ののち、先にプロの道を歩んでいた橋本に励まされ、グラモフォンを退社、作・編曲家としての独立することとなった。

筒美京平がプロの道に歩み出したのは、日本がビートルズ・フィーバーにわいた66年である。若き作曲家が目指したもの、それは旧態依然とした歌謡曲を変革すること。すなわちアメリカのポップスを歌謡曲に変換することだった。筒美の作品は洋楽のコピーだと言われたが、それは筒美京平流に料理したものだった。洋学しか知らず、洋学そのもので育ち、そのまま作曲の世界に入った最初の人が、筒美京平である。



デビューから二年後のこと。いしだあゆみに書いた『ブルー・ライト・ヨコハマ』が100万枚を超える大ヒットとなり、翌年のレコード大賞作曲賞の受賞。一躍筒美京平の名が世に知れわたることとなった。

71年には、『また逢う日まで』で初のレコード大賞を受賞し、またこの年は『さらば恋人』などのヒット作も量産、筒美京平の黄金時代が到来することとなった。これらは洋楽と歌謡曲的な要素を自分の中で消化し、まったく新しいグルーヴ感をもつ筒美サウンド をつくりだしている。その後も、南沙織を有馬三恵子と、麻丘めぐみを千家和也と、郷ひろみを岩谷時子とのコンビで送り出し、アイドル時代を到来させた。

70年代中期になると、松本隆と組んで太田裕美を、阿久悠とは岩崎宏美を輩出、歌謡界に新風を吹き込んだ。太田の『木綿のハンカチーフ』では、ニューミュージック的なカラーを取り入れた。時代の流れをいち早く作品に反映させ、余裕すら感じる仕事ぶりで、作曲生活10年目の油の乗り切った時期だったといえる。

78年には庄野真代の『飛んでイスタンブール』、中原理恵『東京ららばい』などのヒットも生まれた。そして79年には、ジュディ・オングの『魅せられて』で自己最高のセールスを記録した。

しかしこのとき筒美は、『魅せられて』がアレンジャー筒美京平としての集大成であり、これ以上の新しいサウンドは作れないと感じた。事実、以降は自らのアレンジは少なくなっていった。時代とともにアレンジが複雑化してきたことや、アナログからデジタルへの機材の移り変わりが原因ともされる。そのような状況でも、作曲家としては、以降も数々の名曲を書き続けていった。

Wikipediaによると、作曲した数は2700曲を超え、初期のCMソングなども含めると、3000曲にもなるとされる。最多忙期には月に45曲を書いたことあった。前述の通り、筒美はメロデをつくるだけでなく、アレンジも手掛けている。レコーディング時にはスタジオに入り、曲ごとに企画段階から、メロディの創作、アレンジの巧緻な工夫、そしてスタジオ・ワークをこなしてきたことになる。量産に耐え、しかも水準以上のクオリティを保持するのがプロフェッショナルの条件だとすれば、筒美京平は日本のポピュラー・ミュージックが生み出した、トップ・クラスのプロフェッショナルであった。

しかし華麗で厖大な業績にくらべて、筒美京平その人が語られることは少なかった。マスコミの表面に立つことを嫌っていた。シャイな性格にも起因するが、それ以上にプロの職人として、裏方に徹するという美意識が強く働いていたようだ。職人は芸を見てもらえばいい。控え目な笑顔の蔭に、そんな頑固さをしのぼせている人であった。

テレビに出ざるを得なくなった時が、何回かあった。「ヒットのコツは何でしょうか」などと訊かれる。これがイヤだった。表に出るはやめようと思った。生来の性格に加え、入る前はこの世界の裏側なんて知らない。実際の仕事となると、人の思惑もわかってくる。どうしてこの歌手が一番になるのか不可解だった。音楽ビジネスが本来持っている部分だから、やむを得ないとわかってはいても。

そもそも、一般的な「付き合い」自体が苦手だった。人間関係のかけ引き好きな人も、芸能界にはたくさんいる。筒美はそういう人たちは嫌いだと公言していた。自然と皆が寄ってこなくなった。「生意気だ」とも言われた。橋本からも「まずいよ」と幾度となく注意された。自分のマネジメントする事務所の打ち上げも出なかった。芸能界的な雑事に巻き込まれたくないと自ら表明していた。

その人柄について、筒美逝去の報を受け、作家の伊集院静が週刊誌の連載エッセイに書いている。伊集院が近藤真彦に作詞した、『ギンギラギンにさりげなく』の作曲者が筒美京平だった。そのときの印象を伊集院は次のようにあらわした。

 

何度かスタジオで逢った。すでに大御所であったのに少しも威張らない、おとなしい人で、話している最中ずっと指先が宙を舞っていた。あぁ、シャイな人なんだ… 京平さんと居るだけで時間がふくらんだ。自慢をしない。自惚れない。何より私たちにいつも優しく接してくれた。それほど筒美京平という人は、この業界で珍しいほどシャイで、お洒落な人であった。

 

就職のエピソードで触れたが、筒美は歌謡曲が嫌いだった。その人が歌謡曲界の第一人者となったことになる。一方、ロックも理解できなかった。一切聴かなかったし、ギターの歪んだ音が大嫌いで、学生時代のジャズも、管楽器(ブラス)とのセッションはイヤでしょうがなかった。ビートルズは『イエスタデイ』などいい曲はあったが、素直には聴けなかった。

ロックンロール以降に出てきたポップ・ミュージックよりも、それ以前の伝統にのっとったポピュラー・ソングが好きだった。ポップ・カントリーも好きで、筒美の自作曲では、『木綿のハンカチーフ』や『さらば恋人』がその系統曲となる。


さてここからは、追悼番組で語られていた、『木綿のハンカチーフ』の文字起こしとなる。また、番組外の資料から得たエピソードも織りまぜ構成している。



1973年、筒美はともに日本の音楽シーンを大きく変えることになる、ひとりの青年との出会いを果たす。『木綿のハンカチーフ』の作詞者となる、松本隆である。日本語のロックを確立したとされる、はっぴいえんどの元メンバーであった。解散後、作詞家の道を歩きはじめたばかりの松本に、筒美から声をかけたのだ。

その日、ジーパンにTシャツを羽織った長髪の青年松本隆は、国立競技場近くの筒美の仕事場を訪れた。見たこともないような広い部屋に、高級オーディオがずらりと並んでいた。松本は自己紹介の代わりに、自分がプロデュースした、南佳孝のアルバムを筒美に聴かせた。すると「趣味で音楽をやれる人はいいね」と言われてしまう。たしかに松本は、はっぴいえんどを売れ行き無視でやっていたし、南のアルバムも自らの趣向でつくっていた。

筒美はNHKの番組で語ったことがある。

 

流行歌の作曲家は、自分で好きなものを作るんじゃなくて、売れるものを作らなくちゃいけない。(作曲家は)黒子みたいにいるべきだと。自分の持っている音楽を表明していく感じでは全然ない。ヒットすることがベスト。それに殉ずる。

 

作曲家としてまだ駆けだしのころ、筒美は西田佐知子に『くれないホテル』を書いている。歓心を買うためだったのだろうか、この日松本は、はっぴいえんどのリーダーだった細野晴臣が、同曲を絶賛していることを筒美に話した。しかし「あぁ、あの売れなかった曲ね」と、そっけない言葉が返ってきただけだった。(実際、細野は『くれないホテル』を好きな筒美作品の第一位に挙げ、坂本龍一や山下達郎も同様にこの曲を高く評価している)

 

がっかりして家に帰った松本に、その晩電話がかかってきた。筒美からだった。「しばらくいっしょに仕事してみない?」。筒美はチューリップの『夏色のおもいで』をすでに聴いていて、作詞をした松本を気に入っていた。だからこそ声をかけたのだ。この出会いは、筒美がニューミュージック的なものを取り入れる重要な契機となった。

筒美作品の編曲家である船山基紀 「世の中にシンガーソングライタ-とかフォークソングが多くなってきて、京平先生はその時代を捉えるために、その時代のアレンジャー(編曲家)だったり、ミュージシャンを起用していく。モチベーションをくすぐるような香りを感じたかった」

松本は思った。「筒美京平という歌謡界の巨人と、どういう共同作業をしたら、これからの音楽を変えていけるんだろう」。ふたりが手がけることになったのは、ひとりの女性アイドル太田裕美。三曲を仕上げた。だが、ヒットに恵まれない。

ある日松本は、ふとひらめいたアイデアを筒美にもちかける。これまで作曲のあとにおこなうことが慣例であった作詞を、作曲の前におこないたいと訴えた。

松本 「ちょっとメロディに(詞を)付けてるだけだと、なんか世界が変わらない。詞を先に書くやり方で、それははっぴいえんどのやり方。『ちょっと冒険させてくれ』って」

三日後、松本が書き上げた詞が、のちにふたりを代表するヒット曲となる、『木綿のハンカチーフ』だった。詞は、都会生活での人生を始める僕と故郷に残った私のすれ違いが、それぞれの一人称で語られている。筒美に宛てて書いた詞の文学的な構造は、それまでの歌謡曲には見られないもので、しかも四番まである、型破りな長さだった。松本の詞を受けとった日、百戦錬磨の作曲家は、頭を抱えた。

松本 「(筒美との)戦いの始まりです。戦争です。世代間戦争でもあるし、メインストリームと、自分のいたサブカルチャーとの衝突だった。京平さんはふてくされながら、詞が長すぎるから曲がつけられないと、(ディレクターの)白川さんをつかまえようと思ったんだけど、なかなかつかまえられなくて、午前3時くらいに、あきらめて曲を作り出したらしいの。で、『すっごい いいのが出来ちゃった!』」

筒美は創作の苦労を一切語らなかったかわりに、この曲の大ヒットを予言した。その予言は現実のものとなり、『木綿のハンカチーフ』は86万枚を売り上げる大ヒットとなった。



現代のヒット・メーカーは、その魅力を意外なものに例えた。それは極上のみそラーメンだと。
音楽プロデューサー 本間昭光 「もともとの拉麺は中国の味付けで、ちょっと香りが日本人には強い!でもそこで誰が考えたのか、日本的なみそと拉麺をあわせたみそラーメンができあがった。まさに洋楽のおいしいところと日本の歴史的な部分をかけあわせてつくった」

本間は、それは冒頭の一行目に象徴的に表現されていると言う。

 

5つの音(5色)

 

この5つの音だけを使うことを『ペンタトニック』という。この5つだけでメロディを構成するのは、日本の歌謡界にみられる、古典的な音使いだった。どうしても演歌チックな響きをもっていたりするので、ちょっとクサい音階となる。しかし筒美は、この日本的な音階に、ある洋学的なエッセンスを加えることで、誰も聴いたことがない新しさを生みだした。それは、譜面に記されたこのコード、メジャーセブンス『Amaj7』。メロディの主旋律を引き立たせるための、複数の音の組み合わせである。メジャーセブンスの音を加える。当時、あの日本的なメロディには、三つの音から成る『A』のコードを当てるのが一般的だった。しかし筒美は、それにもう一音加えた、『Amaj7』という、歌謡曲ではあまり使われていなかったコードを取り入れた。この小さな音の差が、日本的なメロディと洋学のエッセンスの遭遇が、多くの人を捉えた。このわずかな動きというものが思いつくようで思いつかない。

 

 

 

聴く者を飽きさせない、筒美の工夫。一瞬の差し込みこそがセンスの象徴であり、楽曲が光り輝く。

日本の歌謡界は、筒美とともに進化したといって過言ではない。筒美作品の編曲家 萩田光雄は言う。「音楽シーンの2歩も3歩も先をいっていた方だった。『歌は世に連れ、世は歌に連れ』という言葉があるが、まさに『世は筒美京平の歌につれ』だったんじゃないですか」

 

さきに述べたように、筒美は『魅せられて』で自己最高のセールスを記録するなど、第一線で活躍し続けたが、しかし90年代に入ると、音楽業界はめまぐるしく変化していった。小室哲哉に代表される、まったく新しい音楽が、一気に世間を席巻することとなった。あまりの時代の早さに戸惑う、筒美の言葉がある。

 

びっくりした。自分たちでもね。我々みたいに職業作家の名前がベスト10からぱっと消えた。本当にあっという間に消えた。日本の文化というか、そういうのが変わり目にきていたんだろうね。時代がいつでも先に行って、時代が作家を選んでいくことだなと、つくづく思いました。

 

2005年、松本隆の対談集である『KAZEMACHI CAFE』が出版され、ゲストに筒美京平が招かれている。対談の収録は2000年におこなわれたもので、上記の音楽業界の状況についても言及がある。司会から、「最近の邦楽をどう思われますか」と問われた筒美の、率直な感想がとても興味深い。

 

筒美 特に新しく出てきたいわゆるロック系の人たちとか聴いてると、最近のメロディはどうなってるんだろう?と思うことがあるよ。たとえば、向こうでどんなに新しい人が出てきても、コード進行とかわかるわけ。こうなってこうなって、って。でも、今の日本はそんなのと関係なく発展してるサウンドがあるんだよね。その人たちはその人たちで何かを参考にしたり、影響されたりして、作ってると思うんだけど。最近はそう思うことが多い。
松本 うちの娘が最近よく聴いてるのは何だっけ? ラブ・サイケデリコとか?
筒美 ラブ・サイケデリコは洋楽のスタイルでしよ。それはわかるわけ。でも、洋楽と歌謡曲をまぜながら独特に発展してきたところにいる人がわからない。
松本 でも、フォークのときもそうだったんじやない?異常な発展したわけだし。
筒美 いや、コード進行とか、そういうのはセオリーがあるじゃない。フォークならコード進行がわかるメロディがあったし。でも、最近のロック系といわれるものは、アメリカにもないイギリスにもないものなんだよね。
松本 日本独特のものなの?・
筒美 そうなんだよ。向こうの人で言うと、ビョークとかマリリン・マンソンとか、両方嫌いだからああいうのを聴いてもいいとは思わないけど、でも、音楽的にはこういうことをやってる、というのはわかる。ところが、最近の日本のロック系のモノには本当にわからないのが出てきてる。
松本 セオリー外なんだ。
筒美 そう。でも、自分が年を取ったなあって思うのは、そういうのが「いい」と思えないんだよね。若いときは「いいと思える許容量」があったんだけど。
松本 でも、どんなものでも基本はあるんじゃない?
筒美 誰でもきっとどこかで基本は取ってると思うのね。日本でも向こうの人でも。でも、そういういわゆるロック系の人たちは独特の取り方をしたんじゃないかと思う。洋楽と歌謡曲があわさっていくときに、その(洋楽の)基本じゃないところをすくいとってきたんじゃないかって思う。
松本 どの時代にも「奇をてらう」ということがあると思うんだけど、それとも違う?
筒美 たとえば、パンクだってブルースのコード進行だったりするわけじゃない。ただ、歌い方が違うだけで。そうじゃなくて、音自体に対する何かなんだ。このごろの若い人は洋楽を聴かないで、いわゆるJホップしか聴かないでしょう。そういうものから発生してると思う。洋楽や他のも聴いてた人なら「これは間違ったコードだ」って気づくことも、それ(Jホップ)しか聴かなかったら気づかないじゃない。そういう間違いの部分をすくいとっちゃったんじゃないかって。
松本 なるほど。
筒美 音楽って分解すると実に理路整然としてるんだけど、そうじゃなくてその先の感覚の部分だけをすっと持っていったような感じかな。
松本 突然変異というか、ウィルスというか。
筒美 そう、ウィルスみたいなもの。でも、そのウィルス自体に何かを感じるようになってるんだと思う。
松本 たぶん、サンプリングの時代以降、楽器が弾けない人たちも「作曲」しだしたからじゃないかな。
筒美 そうかもしれないね。

 

この対談で筒美と松本は、仕事のことはむろん、いっしょに行った南米旅行など、公私にわたる深い交流をなつかしげに語り合っている。人嫌いの筒美が、松本には心を許していることがよくわかる。ふたりはすでに第一線を退いていて、松本は90年代に、作詞活動の一時休止を宣言していた。筒美との黄金コンビを十年以上続け、さすがに疲れもあった。松本は筒美の逝去後、「京平さんも僕がいなくなってつまらなくなったんでしょう。同じ頃から休みがちになったことは、今も悪いことをしたと思っている」と語っている。

松本と筒美は、6年前、太田のライブで出会い食事をした。筒美は病のため歩くのも大儀そうで、「元気になったらまた会おう」と話していた。だが叶うことはなかった。去年、太田裕美から「もう一度、松本さんと筒美さんに曲を作ってほしい」という話があった。松本もやりたいと思った。だが筒美は電話にも出られないほど体調は悪化していた。

松本が筒美とふたりで送りだした曲は、およそ400にものぼる。10月12日、筒美の死を受け、松本は追悼の言葉を自身のツイッターにつづった。

 

松本 「ぼくの言葉の羽というか翼に乗せて、もう(京平さん)を送らなきゃいけないと思って。頭で書いたら駄目だなと思って。心で書こうと。とにかく本当の気持ちを書いたほうがいいだろうなと思って」

 

ツイートは3回あり、数年前に撮影した2ショット写真と共に、天国へ旅立った筒美を悼んだ。

 

 

神戸のラジオ局でマイクに向かってると、『京平先生が亡くなった、、、』と太田裕美からメールが入った。瞬間、涙の洪水になりそうな心を抑えて、平常心を保ちながらラジオを終わらせた。取り乱さなくて偉いでしょ、褒めてよと天国の京平さんに呟く。

 

作詞家になった瞬間、目の前に筒美京平は立っていて、先輩と後輩であり、兄と弟であり、ピッチャーとキャッチャーであり、そして別れなければならない日が来ると、右半身と左半身に裂かれるようだ。

 

ぼくが京平さんからもらったものはありったけの愛。彼ほどぼくの言葉を愛してくれた人はいない。ありがとう、京平さん。いつかぼくも音符の船に乗り、天の園に舞い上がる日が来る。少しの間、待ってて。そうしたら笑顔で、喜んだり怒られたり哀しんだり楽しく語り合おうね。

 

松本 「京平さんに関しては心残りって全然ないよ。すべて教わったし、会話もしたし、生きたしね。心残りはない。もう一度会いたかったっていうだけ。もう一度会って話がしたいとか、あと手がにぎりたかったなとか、そのぐらい。僕は会いたかったよ。手を包んであげたい」

 






筒美京平ヒストリー

 

 

 

ブログ後記

 

朝日新聞11月18日朝刊の特集記事『筒美京平、その時代』から、三識者の追悼の言葉を引用させていただきました。

 

 

関川夏央

1949年生まれ。小説家、ノンフィクション作家

 


筒美さんといえば1970年代を思い出します。酒場の有線放送、パチンコ屋の音楽テープ、街の至るところで歌謡曲が流れていた時代です。大量の流行歌が生み出され、消費されましたが、彼の曲はなんとなくわかりました。
 

彼は自分を、芸術家ではなくヒット曲をつくって売る職人だと考えていたでしょう。発想・作詞・作曲・歌唱までを一人で完結するシンガー・ソングライターとは完全に異種。作詞家、レコード会社のディレクター、プロデューサーらと組んだ「日本歌謡曲制作会社」というチームの一員と自認していたと思います。そんな彼らは、民放テレビで歌番組の最盛期であった当時、その1クールである3ヵ月に1曲は大ヒットをつくるという途方もない目標を掲げ、実現していったのです。
 

曲がヒットすれば、いくらでも依頼が来る。えり好みせず、来た仕事はみな引き受ける。忙しさこそがエネルギーの源だと考えた彼は、典型的な「昭和の作曲家」でした。アニメ「サザエさん」の主題歌も作りましたし、向田邦子さんのテレビドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」の挿入歌も作りました。「時間ですよ」で音域の狭い浅田美代子さんに合わせた「赤い風船」を作ってヒットさせ、郷ひろみさんには、彼の独特の声を生かせる曲「男の子女の子」を提供する。難題、困難を克服することを楽しんでいたように思えます。


多彩・多様・多量。「三つの多」の人でしたので、筒美京平は実在しない、と言われた時期すらあった。あれは作曲家グループが共有する「芸名」だと疑われたこともありました。それを1人でこなし得たのは、彼が積極的に学んだ外国音楽を日本の歌謡曲に 「翻案」する自在な才能の持ち主だったからでしょう。


しかし80年代に入ると潮目が変わります。人々が家庭や街で歌謡曲を「浴びる」社会から、作り手という個が、聞き手という個に音楽を届ける時代になりました。現代では電車の中で1人ワイヤレスフォンにひたるばかりです。


70年代の日本社会は「団塊の世代」を中心に青年であふれていました。若さこそ特権と思っていた時代、あるいは、そう思わなければ生きにくかった時代には、筒美さんの曲の明るさ、軽さ、そしてその背景に感じられる「さわやかな悲しみ」こそ、青年たちが必要としたものだったのではないでしょうか。


私の記憶にある70年代は、にぎやかでがさつな時代というものです。彼の曲たちを聞き直しながら回想すると、がさつでも上り坂の時代は悪くなかったと思い直します。まもなく半世紀前になろうとする70年代を歴史化しようと試みる時に欠かせないキーが流行歌の巨人、筒美京平です。



ヒャダイン
1980年生まれ。音楽クリエーター(ミュージシャン、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家)

 


思いやりの人。筒美さんを一言で表現するならそうなります。僕は2012年に、筒美さん作曲で小沢健二さんが1995年に発表した「強い気持ち・強い愛」を編曲しました。アイドルグループ「でんぱ組.inc」が歌うためにです。


改めて曲に向き合うと、歌い手、聴き手、そして僕のようなアレンジヤーを含めた関わる人すべてに対する気配りが行き届いている。負担をかけないんです。歌いやすく、聴きやすく、編曲しやすい。これは同じ作り手としてめちゃくちゃすごいと思いました。当時、小沢さんの作品が発表されてからすでに20年近く経っていました。でもまったく古さを感じないし、メロディーとコードの関係も素敵でおしゃれ。この曲に限らず、筒美さんの曲は聴きやすくて印象に残るんです。


でも近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」のようなヒット曲も、実は構成は少し複雑で、作詞家の選ぶ言葉や歌い手の声質なども計算に入れて、キャッチーに聞こえるように仕上かっている。複雑さって難解さに直結しがちなのですが、それがまったくないのが筒美作品でした。


筒美さんは後世に残る曲ではなく、「職業作曲家」として自分が生きている時代を華やがせるヒットにこだわっていたことで知られています。3千曲近くを発表しているのに「これは筒美節だね」と皆でうなずき合えるような「作風」がない。その時代に流行している洋楽を聞き込み、自分の曲に取り込んでいく。


その「吸収する範囲」は幅広く、伝統ある日本の歌謡曲に、最先端の海外音楽の特徴をうまく盛り込んでいった。他の作曲家への影響も大きく、歌謡曲をJホップに変えたのは筒美さんと言っていい。そして結果的に曲は後世に残りましたし、これからも受け継がれていくでしょう。


今の時代に「曲を出せばヒットする」筒美さんのような作曲家が生まれるかというと、難しいでしょうね。筒美さんが活躍していた時代、各作品は発売直後の音楽ランキングで上位に入り、それが「ザ・ベストテン」などのテレビ番組で紹介され、より多くの人に支持されていった。
 

ですが、今はランキングの指標も多様化し、ネット上での口コミが力を持ち、ヒットは仕掛けるよりも「自然発生的」に生まれています。国民的ヒットを「狙う」のは以前にも増して難しい。そうは言いつつ、もし筒美さんが現代に転生したら、と考えてしまいますね。きっと自分の曲は徹底的に「エゴサーチ」するでしょうし、市場調査もやり尽くすでしょう。そして「新たな正攻法」を生み出してしまうのかも。そんな風に思わせてくれる唯一の作曲家だと思います。



能地祐子

1964年生まれ。音楽評論家
 

 

日本の大衆音楽におけるモーツァルトのような存在です。誰もかなわない大量のヒット曲を生み出しました。あのように子どもから大人までが口ずさめる大ヒットを連発する作曲家は、もう現れないと思います。
 

大きな特徴は、決して作品を通じて筒美京平という人間の自我を表現しなかったことです。その時々で真剣に大衆の求めるものを追求し、時代の空気は何かをくみとって、音楽に対する愛と才能で大衆を喜ばせました。音楽の世界の貴族のような存在でした。


ご本人はシャイな「東京っ子」でしたが、売れる作品を作ることに誰よりも徹底的にこだわっていた。一方、評論家などからどう評価されるかは気にしませんでした。大衆の評価はチャートや売り上げが雄弁に語っているという自負が、強かったのでしょう。

 

ヒット曲を連発されていたときのことは、忙しすぎてよく覚えていないとおっしゃっていましたが、時代に支持される圧倒的な量の作品を生み出した者にしか見えない世界がきっとあったんだろうと思います。
 

米国などの流行を機敏に取り入れ、ヒットに仕立てていた全盛期に「○○に似ている」「パクリだ」などと批判する人がいたのも事実です。しかし1990年代、渋谷系サウンドが、世界のホップミュージックを「編集」することによって流行すると、「あれ、ずっと前から、メチャクチャ上手に世界の音楽を編集してた人がいたんだ」と高く評価されました。小沢健二さんとの共作が生まれたのも、そんな流れがあったからでしょうね。


それまでにあった日本の大衆音楽のジャンルという壁も崩しました。演歌でもポップスでも、テレビやラジオで流れる日本の大衆音楽をダサくないものにした功績は計り知れません。それだけ質の高い音楽だからこそ、いまの20、30歳代の若い人たちが、クラブやディスコで、あるいはオンラインなどで、筒美さんの作品を高く評価し、楽しんでいるのだと思います。


生前、お目にかかって「無人島に1枚だけレコードを持って行くとしたら?」という古典的なテーマで話をうかがいました。答えは青春時代によく聴いナット・キング・コールのアルバム。学生時代、ご自身でも、演奏していたとのことでした。
 

かなわぬ夢になってしまいましたが、晩年の筒美さんが、他人に作品を提供するだけではなく自分のためにアルバムをつくり、演奏したらどうだっただろう、聴いてみたかったと夢想します。ひょっとしたら、ナット・キング・コールのような、さりげなくて味わいのあるピアノの弾き語りをされたかもしれません。

 

 

 

 若き日の筒美京平