矢野顕子ヒストリー  ~系譜 誕生から ジャパニーズガール〜  坂本龍一の告白 /林真理子の嫉妬 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

自分は以前「矢野顕子」について書いています。デビューアルバムである、『ジャパニーズガール』の、テレビ番組をテキスト化したものです。今回の一文は、「矢野顕子ヒストリー」となります。同アルバム制作に至る軌跡を、彼女の系譜からたどってみました。

ジャパニーズガールは、自分がフォーク・ロック系を卒業してジャズ系を聴き始める、きっかけとなった作品でした。一方、最近はよく坂本龍一を聴きます。『Neuronian Network』や『Amore』『Energy Flow』など、清逸な調べがいい。


ご承知の通り、坂本は矢野の前夫でした。坂本はその自著『音楽は自由にする』で別れた妻を語っています。元夫婦の関係性を知る貴重な告白として、以下の本文に引用させてもらいました。

また「林真理子の嫉妬」と題したパートも記しました。四十年も前のことですが、初のエッセイを書いた林は、矢野への強烈なバッシングをおこなっています。以下にご紹介するこの一文は、ヒストリーの範疇からは外れた、ファンからすれば歓迎されざるものです。それでもこのユニークな題材を捨てるのはもったいない。若き日の矢野顕子の評価として取りあげました。

自分は、ジャパニーズガールを聴いたときの強烈な印象が 忘れられない。『気球にのって』『電話線』の摩訶不思議さや、青森民謡テイストになぜか惹かれたし、『丘を越えて』のカバーは衝撃だった。カバーといえば『おもちゃのチャチャチャ』や、彼女を唯一生で観たさとがえるコンサートでの、『ポケットいっぱいの秘密』や『相合傘』も最高だった。

つまり自分は、彼女の即興感あるリメイク曲も好きなのですが、即興といえばジャズ。そのテイストが色濃いジャパニーズガールに、魅了されたようです。以下には、当初はジャズピアニストを目指していたなど、矢野顕子が世に出るまでの幾多の情報を盛り込んでいます。お暇つぶしにお読みいただければさいわいです。


参考及び引用させていただいた資料
『矢野顕子ファミリーヒストリー』NHK 2016年
『やのぴあ』矢野顕子40周年記念ブック 2016年

『ユリイカ 矢野顕子の40年』2017年

『音楽は自由にする』坂本龍一著 2009年

『ルンルンを買っておうちに帰ろう』林真理子著 1985年

『姐さんママとラリな鬼才たち』遠藤瓔子著
『週刊文春』1990年12月
『週刊現代』1993年6月
『週刊朝日』1997年8月8日号
『婦人公論』2000年9月7日号
『婦人公論』2001年7月7日号
『週刊文春』2002年4月4日号
『週刊朝日』2004年11月12日号
『金曜日』2009年7月10日号
『婦人公論』2010年2月22日号
『週刊文春』2010年9月23日号
『婦人公論』2014年3月22日号

矢野誠8時間ロングインタビュー『音楽の中へ』
など

 

 

 

 

 

母の系譜

矢野顕子の母である淳は、旧姓丸山であった。江戸時代の丸山家は会津藩の武士で、幕末まで重臣として主君に仕えつづけた。明治になると青森で、小学校の校長を代々つとめている。しかし母は早くに実父を亡くし、つつましく暮らした。嫁ぎ先である青森の家、つまり顕子の実家は広かったが、母の部屋は四畳半しかなかった。座して半畳、寝て一畳。無駄なものは一切持たない、武士の矜持を誇る女性だった。

矢野顕子がニューヨークに居を移してからのこと。山口県で公演に臨んだとき、いつになく調子に乗れなかった。ステージが散々な結果に終わったことを青森の母に話すと、「それは当然よ」と言われた。会津藩士として戊辰戦争に敗れ、斗南(青森)に追われた末裔なら、山口すなわち長州は、憎みても余りある敵の本拠地だというのである。

母は病で伏したときも、天命だと医者である夫の治療を拒んだ。ニューヨークにいる娘にも「がんであと1か月くらいらしいの」と他人事のように話している。顕子が音楽界でわが道を貫いてきたのも、母の一徹さを受け継いでいるようだ。母は女性が好きなことを続け、やり抜くことを高く評価していた。

 

NHK『矢野顕子ファミリーヒストリー』から

 

 

 

父の系譜

矢野顕子は本名を鈴木顕子という。父方の曾祖母鈴木ユノは、岩手で田畑を耕すかたわら、いわゆる拝み屋でもあった。神様や亡くなった人の霊をよびだし、その言葉を人々につたえた。祈祷の際は無学なのに文字を書いた。高齢になっても、別人のようにからだを動かした。医者のいない時代、村の衆はユノを頼り繁盛した。顕子はエホバの証人の熱心な信者といわれる。ひ孫の宗教への傾倒は、曾祖母の血によるものかもしれない。

ユノの子に伊佐治がいた。明治34年に生まれた伊佐治は母から大きな影響を受けた。医学の道を志し、若くして青森の地で院長職に就いている。戦後の伊佐治は医業のかたわら、絵に夢中になった。自分の思いのままに描く、よくわからない絵が多かった。とある大病院に頼まれた100号の大きな絵はさかさまに飾られていた。顕子は伊佐治にかわいがられた。そして「じいちゃんは私に一番大きな影響を与えた人」と語っている。

伊佐治の次男である威男が、顕子の父である。威男も父と同じ医大に入った。まだ学生の威男に見合いの話が舞いこんできた。相手はミスユニバース青森代表にえらばれた丸山淳であった。会津藩士の血を誇る女性ながら、淳はあかるい性格の人であった。威男は淳との結婚後、大学病院での出世を捨て、青森に帰り父の医院を継いだ。大学の医局は上下の規律がきびしく、教授の一存ですべてが決まる。威男は人に束縛されることをきらった。自由奔放な顕子の音楽のルーツは、祖父そして父の血といえるかもしれない。

 

 


 

 

顕子誕生

 

1954年、まだ大学生の威男と淳の新婚生活は東京高円寺で始まり、翌年に顕子が生まれた。「顕」は父が顕微鏡を覗いていて、この字だとひらめいた。幼い顕子は、毎晩あたたかい布団で母が聴かせてくれる子守唄が好きだった。シューベルトやグリーンスリーブスなど歌曲が多かった。母は、戦争で叶わなかったピアノを弾く夢を顕子に託し、3歳から習わせている。一家が青森に帰ったのは、この年だった。


ピアノは明の星学園の修道院の、カナダ人シスターが先生だった。しかし自我の強い顕子は教えに逆らう。厳しいシスターは、鍵盤の間にカミソリの刃が立てた。顕子は、クラシックの譜面は見るのも苦痛だった。火をつけようとさえ思った。自分の思うままに顕子は弾き、好きなフレーズを拾いあつめて再構築した。発表会でも、途中から勝手に弾き語りに変えてしまう。会場はざわつき、顕子はこっぴどく叱られた。

幼稚園のころは、毎日、日記を書くように即興で鍵盤を叩いていた。その時間が何よりも楽しかった。遠足から帰ってきて、母に「どうだった」と訊かれたとき、弾いたほうが早いと、ピアノの前に座った。歌詞もなく、ただピアノを弾いた。言葉とピアノの音は同等の行為だった。

古川小学校に入った顕子は勉強がよくできた。はっきりとした性格で、いじめっ子とは殴り合いのケンカもした。負けん気と正義感の強い子供だった。

 

 

ピアノのレッスンは小学5年で終えた。母と同様、父も洋楽を好んでいて、ジャズ喫茶へよく連れられていた顕子は、6年生でジャズをマスターしたという。野脇中学校に進んでからは、ビートルズや日本のグループサウンズに興味をもったが、やはりジャズピアニストになりたいと決めた。ピアノを弾いて、自分の何かを表現したい一心だった。

後年顕子は述懐している。母は「この子はピアノしか能がない」と見抜いていたという。「ご飯なんか炊いているヒマがあったら」とピアノの練習を促した。普通の家庭のように、母は娘に家事を教えなかった。おかげでのちに大いに困ることになったのだが。

中学を卒業すると、顕子は単身上京する。部活でジャズができる唯一の高校、青山学院高校に通うためだ。両親はがんばれと送りだした。



上京

東京には、伊佐治がいた。いわゆるボヘミアン気質の祖父はあちこちを転々としていて、当時は顕子が生まれた家に住んでいた。ここから顕子は学校へ通い始めた。だが青学の軽音楽部はさしたるレベルではなかった。金持ちの子弟の道楽的なクラブだった。落胆したが、卓越した才能をもつ顕子は1年生ながら部長に選ばれる。

部のOBには、のちに共演するドラマー林立夫がいる。同級生には作曲家となる渡辺俊幸がいて、顕子はジャズバンドを結成している。3年生には、のちにベーシストとして北欧で活躍する森泰人がいた。森は顕子をミュージシャン仲間に紹介する。自然と人脈が広がっていった。

髙2になると、あちこちからお呼びがかかるようになった。夕方から四谷の喫茶店で弾きはじめ、日付が変わるころ六本木のバーへ移動し、朝の4時まで弾いた。年齢も偽っていた。ジーパン姿で化粧も知らなかったが、収入は月に七十万円にもなった。

昼夜逆転の生活では学校へは行けない。高2の1学期で辞めることとなった。父は「あとで苦労するぞ」とは言ったが、強くは反対しなかった。音楽を志した時点で、顕子にはこの道しかないと思っていた。

とはいえ、仕事場は深夜の繁華街である。父は友人に助けを求めた。のちに作家として活躍する安部譲二である。ヤクザ稼業のかたわら、キック・ボクシングの解説をしていた安部は、巡業地の青森で父と知りあっていた。

顕子は赤坂二丁目交番のすぐ裏の、安部が所有するマンションの部屋に引越す。ピアノは高円寺から運び込んだ。安部は大変なインテリであり、顕子は読書の指南や社会的儀礼の教育を受けた。かと思えば、上の階の安部の部屋では何億ものカネが動く賭場が開かれていた。顕子が朝起きると騒がしい。警察の手入れが入っていた。

安部の妻は遠藤瓔子といい、青山でジャズクラブ『ロブロイ』を営んでいた。夫と同じく教養人であり、顕子は彼女からも女性の嗜みなどを教え込まれた。ロブロイでも弾くようになり、最初は女のジャズと馬鹿にしていた男たちが、「アッコちゃん」とチヤホヤしだした。評判は音楽関係者に広まり、山下洋輔、坂田明といった一流ジャズ・プレーヤーと、連夜のセッションを繰り広げるまでとなった。

保護者である遠藤にはレコード会社が日参し、広告会社からはCM話まで舞いこんできた。しかし肝心の顕子がジャズに飽きてしまい、ポップスへと興味が移ってしまった。言葉をともなう表現にめざめ、歌うことが心地よくなったのだ。顕子いわく、「ちょっと歌ってみたらすごく褒められて。ピアノだけのときよりギャラもよくなったので、歌うようになったんです」。自分でも曲を書くようになった。

やがてギターを弾く恋人ができる。常に一緒にいたいと、顕子は男三人とのバンド『ザリバ』を組むこととなった。高円寺の家に戻り、優雅なクラブの世界から一転、重い器材をかつぐ体育会系バンドマンとして、赤坂のディスコや米軍キャンプを回った。だがクラブのようには儲からない。ある日、レコード会社の社員が声をかけてきた。ザリバとして歌手デビューしないかという。

 

 

 

 

デビュー・結婚

顕子は気乗りしなかったが、勧められるままに74年、シングルレコードを出すことになった。『或る日』という作品で、歌謡曲界の巨匠筒美京平が作曲している。のちの彼女からは想像できない、フォーク調の正統な歌である。筒美はこの歌を、自作の中でも好きな曲にあげるほど気に入っていた。

アレンジしたのは、顕子の最初の夫となる、編曲家矢野誠だった。筒美は矢野の才能を高く評価していて、そのアレンジは日本一だとさえ語っている。しかしレコード発売5日後、ザリバは解散してしまう。顕子のワガママだった。本人が『矢野顕子40周年記念ブック』で語っている。「私がやりたくないって言ったんじゃないかな。たぶん。バンドの中ではお姫様でしたから、お姫様が機嫌損ねちゃった、ということでしょう」。恋人との関係も解消された。

筒美はそれでも顕子を可愛がった。筒美の口添えもあり、顕子はセッション・ミュージシャン(キーボード、コーラス)としてお呼びがかかるようになる。まだ譜面をろくに読めなかったが、アグネス・チャン、荒井由実、吉田美奈子などさまざまなアーティストの作品に参加した。布施明『シクラメンのかほりから』のアルバムバージョンピアノは、顕子が弾いている。

顕子を評価するミュージシャンには細野晴臣もいた。細野も顕子にアルバム制作をもちかけてきた。しかしこのときも、顕子にプロ意識はなかった。「毎日お寿司出してくれるならいいわよ」と、遊び半分でスタジオに通いだしている。案の定面倒くさくなり、レコーディングは中止となってしまった。わがままが許されたのも、父が出資した自主制作盤だったからだが、顕子はストレートなもの言いや行動から、「生意気だ」「ツッパってる」との反感を買っていた。

75年、19歳のとき、矢野誠と結婚する。いわゆるできちゃった婚で、顕子は20歳で長男を生んだ。



ジャパニーズガール

出産の翌76年、夫である矢野誠プロデュースによる、デビューアルバム『ジャパニーズガール』を発表。アメリカ録音のA面では、リトル・フィートをバックにしたがえた。日本から来た小娘と甘く見ていた彼らだったが、『クマ』や『電話線』は演奏が難しく、リーダーであるローウェル・ジョージは、高レベルの顕子をサポートしきれなかったことを詫び、ギャラを受け取らなかったという。B面は自作曲のほかに、故郷青森の民謡や歌謡曲を矢野顕子流にアレンジした傑作となった。このアルバムには、細野に誘われたときの曲、『大いなる椎の木』も収録されている。

大田区洗足池での暮らしは、夫の両親・弟・祖母との同居生活であった。嫁姑の問題もあったが、仕事で留守のときは、姑は初孫の面倒をよくみてくれた。しかし肝心の夫婦仲が悪化、破綻してしまう。これには、坂本龍一との出会いも絡んでいた。

坂本は2009年、半生記ともいえる『音楽は自由にする』を著わしていて、別れた妻矢野顕子について語っている。まずは彼女の音楽性に関する記述を引用する。

 

ぼくは細野さんの音楽を聴いて「この人は当然、ぼくが昔から聴いて影響を受けてきた、ドビュシーやラヴェルやストラヴィンスキーのような音楽を全部わかった上で、こういう音楽をやっているんだろう」と思っていたんです。影響と思われる要素が、随所に見られましたから。でも、実際に会って訊いてみたら、そんなものはほとんど知らないという。たとえばラヴェルだったら、ボレロなら聴いたことがあるけど、という程度。ぼくがやったようなやり方で、系統立てて勉強することで音楽の知識や感覚を身につけていくというのは、まあ簡単というか、わかりやすい。階段を登っていけばいいわけですから。でも細野さんは、そういう勉強をしてきたわけでもないのに、ちゃんとその核心をわがものにしている。いったいどうなっているのか、わかりませんでした。耳がいいとしか言いようかないわけですけれど。もう一人、同じような驚きを感じたのが矢野顕子さんです。彼女の音楽を聴いたときも、高度な理論を知った上でああいう音楽をやっているんだろうと思ったのに、訊いてみると、やっぱり理論なんて全然知らない。つまり、ぼくが系統立ててつかんできた言語と、彼らが独学で得た言語というのは、ほとんど同じ言葉だったんです。勉強の仕方は違っていても。だから、ぼくらは出会ったときには、もう最初から、同じ言葉でしゃべることができた。これはすごいぞと思いました。

 

78年、坂本は細野に誘われ、高橋幸宏とともにYMOを結成している。顕子もサポートメンバーとして参加し、ふたりの仲は決定的になったようだ。坂本は早くから顕子の才能に瞠目し、女性としても意識していたと思われる。問題は顕子には家庭があり、さらには坂本にも妻子がいることだった。

79年に矢野誠と離婚したあと、顕子は坂本との事実婚状態に入る。翌80年に長女をもうけ、籍を入れたのは82年に入ってからだった。このあたりの経緯について、坂本は自著でこう記している。

 

矢野顕子さんと結婚したのは、82年の2月です。(YMOの)散開の少し前、YMOとしての活動を休止していたころですね。何年か前から一緒に暮らしていて、80年には娘の美雨も生まれていました。ぼくは学生時代に一度結婚していたし、矢野さんも二度目の結婚だった。矢野誠さんという、すごく才能のあるミュージシャンと結婚していたんです。矢野誠さんのことは、ぼくもとても尊敬していました。とにかくすごくユニークな、かなり変わった人でした。ひとから変わっているといわれるぼくが言うぐらいですから、その程度はわかっていただけるのではないでしょうか。ぼくはどうも、そういう人と暮らしている矢野顕子さんを、自分の力でなんとかしたい、と思ったのでしょうか。救う、というようなことではなかったとしても、矢野顕子という天才が、ぼくなんか手が届かないような特別な才能が、このままではだめになってしまうのではないか、それをぼくがなんとかできるのではないか、と考えたというのか。本当におこがましいんですか、そういう男気みたいなものかあったと思います。これはとにかく、男としても、人間としても、音楽家としても、守らなきゃいけない、本気でそんなふうに思っていました。巨大な才能、自分を超えた力を持ったものに、自分を投げ込むようなところがあったと思います。自分が彼女に対して何かできることがあるし、それによって自分も引っ張り上げられる。それは、けっして簡単な選択ではありませんでした。でもぼくには、何か大変なものを跳び越えることで違うレベルに行くことができる、と信じているところがあるんだと思います。大事な時には、だいたい自分にとって難しい方を選んできたような気がします。

 

凡人にはとても理解できない言葉である。矢野顕子、矢野誠、坂本龍一という三者の関係性は、どのようなものだったのか。漠たる上の表現から読みとることは不可能だ。また当時の三人を知る資料は、他に入手はできなかった。しかしそれがあったところで、これらの天才たちの、心の奥深くを知ることはできないように思える。

ただ坂本の言う、矢野誠が「変わった人」だとの傍証はある。大貫妙子のことなのだが、彼女はシュガーベイブで世に出る前、フォークバンドの一員としてデビューすることになっていた。そのプロデューサーが矢野誠だったのだが、彼はあろうことか、大貫にフォークは似合わないと脱退を勧め、デビュー直前のバンドは解散となってしまった。

これは、矢野がアレンジャーだったザリバのデビュー直後解散劇と似ている。あくまで推測でしかないが、鈴木顕子もフォークは似合わないと、彼が裏で糸を引いていたのではないか。ならば、自らが関わるバンドをふたつもあっけなく消滅させてしまう矢野誠という人は、やはり「変わった人」ということになる。(さらにうがった見方をすれば、顕子のザリバの恋人を別れさせるためだったのかもしれない…)

さて言うまでもないことだが、顕子は矢野誠との離婚後も、矢野姓を使い続けている。引き取った長男の存在もあったが、矢野誠への音楽家としてのリスペクトがあった。また、芸名として認知されているという現実的な選択でもあった。顕子は家を出るとき、矢野誠のピアノを欲しがった。顕子の好きなタッチに改造してもらっていた。「持ってってもいいかなあ」と頼んだ。だめだった。惜しいピアノだった。姓のようにはいかなかった。



矢野顕子という人

以上、矢野顕子(以下矢野)の系譜、そして誕生からジャパニーズガールへの軌跡をたどってきた。さらには坂本龍一の言葉を借り、彼女の音楽性や、あるいは結婚にまつわる複雑な人間模様をかいま見た。

そこで気になるのが、矢野顕子という女性の人となりである。ここまでも散見されてきたように、彼女の生き方はとても自由奔放に思える。しかしそれは度を超してもいた。未成年とはいえ、途中で仕事を放り出すなどの所業もあった。ジャパニーズガールの音楽性は、あるいはその人間性と関係しているのだろうか。

拙稿冒頭に記したように、ブログ筆者はこのアルバムをとても気に入っていた。だから周囲にも勧めていた。だが反応は散々だった。あんなのどこがいい、おまえはどこかおかしいんじゃないのかとさえ言われた。

 

数年後就職してからも、同期十人ほどの最初の呑み会で、『春咲小紅』がいいと洩らしたことがある。当時ヒットしていたし、世間がようやく矢野顕子を認知したと気を許した。しかし彼ら彼女らは、みな一様に顔をしかめただけだった。まだ打ち解ける前だったので、あのときの白けた空気は忘れられない。以来、ファンだと口走ることはなくなった。数年前のさとがえるコンサート同行してくれたのも、なんとか頼みこんだ家人だった(ドラムの林立夫が素敵だと案外満足げだったけれど)。

NHKの『名盤ドキュメント ジャパニーズガール』で清水ミチコが語っていたのだが、彼女もこのアルバムで矢野顕子ファンとなっていた。そしてまわりの人たちに、素晴らしさを触れまわった。しかしやはり、誰もが拒否反応を示したという。

ジャパニーズガールはどれほどのセールスだったのだろう。強烈な個性ゆえ、一部の人々にしか受け入れられなかったのではないか。それは音楽性のみならず、世間の人々は、音楽の向こうに透けて見える、矢野顕子という人の「危うさ」を敏感に察知していたように思える。今回あつめた資料には、それを匂わすものがあった。

若き日の矢野顕子を知る人に、糸井重里がいる。糸井は『春咲小紅』を作詞するなど、当初から関係性が深かった。矢野は「糸井さんは私の音楽の一部」であり、恩人だとさえ語っている。しかし当の糸井からすると、矢野の第一印象はよくなかった。『矢野顕子ソロデビュー40周年記念ブック』で、糸井は次のように語っている。

 

デビュー40周年ということですが、僕の矢野顕子体験もそこまで遡ります。『JAPANESEGIRL』のコンサートに行ってるんです。すごい新人がデビューするというので。たしか雑誌の『GORO』、がバックアップしていたと思うんだけど、その関係で行ったんです。
 
そのときは、こちらが反感を感じるほど自由な人だなと思いました(笑)。とにかく過剰にノビノビしてるんです。もちろんそれは彼女の元々の資質なんですけど、でも、デビューしたてなんだから(笑)。ノビノビしてる。あるいは物怖じしない。悪びれない。悪くないんだからいいんですけど(笑)。その姿を見ていたらね、なんかこう、こちらが自由じゃない人みたいに思えちゃったんですよね。

だって新人にしちゃデカすぎるだろ、態度がって(笑)。まあ、反感とまでは呼べないけれど、何かのわだかまりのようなものが僕の中にできたのを覚えています。あんなことは初めてでしたね。ステージで生意気なことを言うわけでもなく、ただ、そこにいて曲をやっているだけなんですから。思えばその日から、ずっと変わってないんですよ(笑)。

でもそれは「音楽が素晴らしいからなんだよ」っていうことになるんです。その素晴らしさにオリジナリティがありすぎるから、何かと比べることもできない。「ナニナニみたいにいいんだ」って言えないですから。だから、彼女の音楽にポンとつかよまれた人は「いい」って素直に言えるけど、「ずいぶんと過剰に自由な人が、不思議な音楽をすっごく楽しそうにノビノビとやってる」という状況にいきなり置かれると、「これはなんだろう?」つて。帰り道はそうなるんですよね(笑)。

 

糸井は矢野顕子の音楽を認める一方で、初めて接した印象を正直に吐露している。礼賛を基本とするアニバーサリー本ゆえ、かなりのオブラートに包まれているだろうから、実際の印象はもっとシビアだったはずだ。

というのも、実は矢野顕子自身も、還暦を迎えようとする2014年、『婦人公論』の記事のなかで、こう語っている。自らの二十代をふりかえった、自省の言葉である。

 

矢野顕子 自分の中から湧き出るマグマのようなものがあり余っていて、「これを出したらあの人の肩にぶつかるかな?」とかまったく考えず、とにかく出す。それが強烈なものだから、結局、出されたほうは引くしかない。すると、どこへ行っでも「矢野顕子さん、どうぞお通りください」となってしまって。当時の私を知る人は、みんな怖かったと言うでしょうね。

 

記事は、矢野を取りまく状況を説明したあと、ふたたび本人の言葉につないでいる。

 

他のミュージシャンとのセッションはまるで格闘技で、矢野の才能は常に相手を打ち負かすことができた。そのうち、周りのスタッフたちも、彼女を女王のように扱いはじめる。

矢野顕子 当時もけっして、それが気持ちいいとは思っていなかった。むしろ「私、もしかして、みんなに迷惑かけてる?」という気の弱さを多大に持ち合わせながら、とにかく放出するものが多くて。それに、結婚、出産、子育てと音楽以外にもやることが山のよう。周りの反応を気にする余裕がまったくありませんでした。

 

ジャパニーズガールのジャケットに描かれた顔(両方とも)は、矢野顕子をイメージしたものだろう。デフォルメであることは百も承知の上で、そしてこのアルバムが好きだからこそあえて言うのだけれど、ちょっとコワい。このイラストは、本人もが認める「唯我独尊性」が具現化したものだったとも思える。同アルバムが万人に受け入れられなかったのも、やはりむべなるかな・・・



坂本龍一との別れ

結婚から8年経った90年、矢野・坂本一家4人は、アメリカニューヨークに移住する。坂本がアカデミー賞を受賞するなど、海外での仕事が増えたためだった。しかしこの移住前から坂本には愛人がいたらしい。それを察知した矢野が、ふたりを遠ざけるため、アメリカ行きを決めたともされる。だが夫の不倫は止まず、結局、矢野の二度目の結婚も破綻することとなった。

アメリカに移り住んだ年、矢野は週刊誌のインタビューを受けている。ニューヨーク郊外の高級住宅街での生活に、ようやく慣れてきたころだった。毎朝、矢野はクルマで子供たちを学校へ送ったあと、マンハッタンのスタジオへ行く坂本を駅まで送る。昼は買い物、夜はライブハウスへジャズを聴きに行き、子供たちを寝かせてから、ピアノを弾く日々だったという。

そして夫、坂本龍一についてもこう語っていた。

 

主人は日本人としては、世界のポップソングのフィールドでやっていく最初の人ですから、前例がないので、本当に大変だと思います。契約したレコード会社は、アメリカの攻撃的なイメージそのままの、どんどん売っていくというタイプ。私が契約したのはニューヨークならではの会社で、アーティストの良心を尊重してくれて、過大評価も過小評価もしない。そのかわりおカネをたくさん稼ぐことはできない。

マネージャーやレコード会社を選ぶときに考えたのは、私は坂本顕子として、家族との時間を犠牲にしたくない、音楽を作るのが人生のすべてではないということです。それができるのも、こんなきれいなオベベを着ていられるのも、主人が荒波をかぷってくれるからだって感謝しています。だから、もし彼が重度の身体障客者にでもなったら、私はもっと違った仕事するでしょう。売れる曲をやるか、クラブでピアノを弾くか。できること、それしかありませんから。

 

かように坂本を立て思いやる言葉からは、たとえ一時的だったにせよ、夫をわがものに取り返した安堵感が漂っている。二十代のころの彼女とは、まるで人が変わったようにも感じる。

その証というには大仰かもしれないが、同記事の写真をご覧いただきたい。とても柔和な矢野顕子である。坂本の庇護のもと、新天地でのおだやかな日々から生まれた表情なのか。幼きころからの、エキセントリックな生き方からの解放がもたらした、ジャパニーズガールのジャケットとは似ても似つかぬ、別人と見まごうばかりの、おだやかなほほえみである。

 

 

 

 

 

 

矢野顕子ヒストリー

 

 

 

ブログ後記

矢野顕子ヒストリー外伝

以下は、余計なことです。とある引用文なのですが、あなたが矢野顕子ファンなら読まないでください。大きなショックを受けるだろう「猛毒」の文章です。一応そのあとに「解毒剤」も用意しましたから、ショックは緩和されるはずですが、それでもイヤな後味は残るはずです。あらかじめお断りしておきます。

ご紹介するのは、タイトルおよび拙文の冒頭で触れた「林真理子の嫉妬」です。本文に記すつもりだったのですが、あまりにも強烈ゆえ、「外伝」とさせてもらいます。

作家・林真理子は82年、『ルンルンを買っておうちに帰ろう』なるエッセイ本を出しました。彼女は当時コピーライターだったのですが、その後の作家人生のスタートとなる、ベストセラー作品となった本です。そのなかからの『矢野顕子は踏み絵なのだ』の引用です。

 

さだまさしが「ひめゆりの塔」の中で歌っている主題歌がものすごくいい。感激して涙が出ちゃったワといったら、ワーッと軽蔑されて、まわりの人間たちからしばらく囗をきいてもらえなくなった。私がつきあっている人たちーマスコミ、広告関係の連中たちの中には、三つのタブーがあって、さだまさし、松山千春、五木ひろし。この三人の名前を肯定的に口にしようものなら、「信じられない」とか「こんな人と、私お友だちだったの!」とかいうごうごうたる非難につつまれるのだ。たのきんトリオだとか、シブがき隊だとパロディとして笑ってすまされる。ジュリーだとわりと賛同の言葉で迎えられる。松田聖子はどうかというと、男がほめる時にのみ許されるようである。私も「センスが悪いヒ卜」といわれたくないばかりに、このへんの微妙なニュアンスが少しずつわかるようになってきている。

彼ら、または彼女たちは、自分たちの感性や先取り精神というのに多大な自信をもっているから、ときどきものすごい、先物買いとか、ゲテモノ買いをするのよね。先物買いの方は外国のアーティストや、日本のロック歌手に多くって、カタカナに極端に弱い私は、一度いわれただけではどうしても記憶できないから省略する。しかしもう一方の、ゲテモノ買いの方は、さすがに記憶に残る人々が多い。ちょっと異質の方を支援して、自分たちの好みというのがいかに個性的かを誇示する遊びなのだが、つい最近までは平山美紀サンだった。

そして現在、圧倒的な人気を得ているのはなんといっても矢野顕子であろう。私のまわりには彼女と仕事をいっしょにしたり、個人的に親しい人が多いのだが、みなは彼女のことを、「アッコちゃん」とよんでるね。「もー、アッコちゃんは可愛いし、歌はうまいし最高よおー」と異口同音にほめそやすんだけど、私それを聞くと嫌な気分になるの。だいたい芸能人とかシンガーの好みをあれこれいいそやすのって、ひとにはほぼ平等にあたえられた平均の情報量の中で楽しむもんでしょ、その平均をはるかに超えたレベルで、ひとの意表をつくような好みをつくったって仕方ないじゃないかと私は思うのだ。

だいたい、一度でも会った有名人を、チャンづけでよぶのは、この業界の習慣みたいなもんだけど、矢野顕子ぐらい「アッコちゃん」なんていう可愛いよび名に似合わない女はいないもんね。あの「ひみつのアッコちゃん」が泣くよ。「下品な歯ぐきブス」という「ビックリハウス」の高校生の言葉の方が、私にはすんなりとうけいれられる。とにかく私は彼女が大嫌いなのだ。そしてはっきりと囗に出して、大嫌いといえない空気を私のまわりにつくったことが、私がますます彼女を大嫌いにしている大きな原因になってくる。

つまり彼女を支持する人々から発射される「彼女を認めないものは、感性がにぶくて、世間一般の常識にとらわれすぎている」といった光線が私にはとてもつらいの。ひょっとしたら本当にそうなのかもしれないという不安に揺らぐ時があるが、人間、これだけはどうしても譲れない部分ってあるでしょ。私にとっては矢野顕子がまさにこの存在なのである。あの声、あの顔、どこをつっついたら好きになれるっていうの!私は普通のひとが普通にもつ印象を素直にいうだけなのに、なんであんなに非難がましい目つきで見られなきゃいけないんだろ。なんか彼女に対して、私もみんなもすごくイコジになっている。

誰かが、「坂本龍一みたいないい男を亭主にしているから、ヤイテ……」とかいったけど、こういういわれ方もすごくしゃくにさわるのだ。いくぶんはあたってるから……。あるパーティーで坂本さんを紹介された私は、その噂以上の美男子ぶりに、目がくらむような思いをしたものだ。まだ新潮文庫のCMなんかに出るずっと前で、ややマイナーっぽい雰囲気が、「趣味の呉服」ならぬ、「趣味の美男子」とゆう感じですごくよかった。

初めて会った時、彼は私の求めに応じて肩を抱いていっしょに写真を撮ってくれた。二回目に違うパーティで会った時は、「よく来たね」といって手を握ってくれた。肩から手へとコトは順調に進歩している。三回目はどうなるか考えたら胸は躍った。もう一度彼のテーブルに近づいて、「坂本さん、お休みはどんなことしてるんでしかぁ」とミーハーっぽく聞いちゃおうかな、などワクワクしているところへ、矢野顕子が通りかかったのである。写真で見るよりずっとブスだった。本当に妖怪じみた感じがあった。けれども彼女が通ると、「アッコ」とか、「アッコちゃん」といったアイドル歌手顔負げの声がとびかう。ほとんどが音楽事務所やレコード関係者たちだった。いい大人たちである。その声にかすかではあるが、媚びやへつらいを感じたのは、私が多分この会場で唯一の、彼女のアンチ・ファンであるからだろう。「矢野顕子は最高」という言葉は、「トリュフにアルジェリア産の蟻のジャムつげて食うと最高」といった、ひねったグルメのいやらしさがある。私は”通”にならなくても、グルメにならなくてもいいのである。そういうことをいいはじめると、いつか自分で自分をしばっていくような気がする。普通の人の直感というものぐらい強いものはないのを、みんなは知らないんだろうか。

 

いやはや何とも強烈です。なぜここまで書かなければならなかったのか。もともときらいなタイプだった上に、みながチヤホヤする、そして坂本龍一が夫であることなど、さまざまな嫉妬が理由であることはあきらかなのですが、ちょっと過激すぎますね。ちなみに林は、糸井重里に師事していました。糸井の主宰するコピーライター教室で学んでいたのです。あるいは先生に感化されたのでしょうか。

しかし、あるいは林は、当時の矢野顕子という人の世評を、率直、かつ過激に代弁しただけかもしれません。世の中の本音を吐き出したがゆえに、デビュー・エッセイが支持されたと考えれば、この引用文は正鵠を得ているともいえます。ブログ筆者がジャパニーズガールを人に勧めても、反応が芳しくなかったのは当然のことだったのでしょうか。もしくは林の言うように、矢野顕子を好きになるという「先取り精神」に酔っていたのでしょうか。

それでも、ジャパニーズガールの、『気球にのって』や『電話線』のイントロが流れだすと、いまだに胸躍る自分がいます。やはりこのアルバムが大好きなのです。人がどう思おうと、むろんどうでもいい話であって、これからも矢野顕子を聴き続けていくということです。もっとも家人に迷惑はかけられません。ひとりで乗るクルマ、あるいはウォーキングの際のイヤフォンでしか、ジャパニーズガールを聴くことはできないのですが・・・


さてこの話には、後日談があります。『ルンルンを買っておうちに帰ろう』から15年経った97年、林真理子は週刊朝日の連載対談に、矢野顕子をゲストに招いているのです。

 

  ごぶさたしています。矢野さん、二十周年を迎えたんですって?
矢野 はい、去年。二十一歳のときにレコードデビューしたから……。
  私がコピーライターをやってたころ、矢野さんはもう大々々スターだったから、十代のころにデビューしたと思ってた。あのころ矢野顕子がわかるかどうかが、高感度のリトマス試験紙みたいな感じでしたよね。ダサかった私は、そのすごさに、勝手に嫉妬して失礼なこと言ったんじゃないかって、いま反省してるんです。
矢野 そう? 全然覚えてないけど。私のデビュー当時は、メディアがいまよりも大人向けだったと思うから、デビューアルバムをいちばん買ってくれたのは大学生だったんですよね。それプラス、いわゆる文化人と呼ばれる人たち、五木(寛之)さんとか武満(徹)さんとかが支持してくれて。
  私の周りの業界の人、「アッコちゃんと食事して」とか言って、「アッコちゃん」の名前を出せるか出せないかが、業界で一流かどうかの分かれ目だった。
矢野 アハハハハ……。ウソだあ。
 ほんと。私、その言い方がいやな感じ、と思って聞いてたんですけどね。

 

林真理子は、デビュー・エッセイがまさか売れるとは思わず、胸の内を書きなぐってしまっていた。その後の大作家の地位を築くことも、夢想だにしなかったのでしょう。しかし時は流れ、対談の相手として矢野顕子を迎えることになってしまった。きっと大あわてしたことでしょう。そして自著のタイトル、『言わなきゃいいのに……』を、思い浮かべたことでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。