松本清張 『砂の器』 ~出雲弁と東北弁 その類似性の謎を読み解く~ 斎藤成也『日本人の源流』 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

推理小説の巨匠といえば、やはり松本清張です。社会派推理小説なるジャンルを確立し、数多くの作品を著しました。なかでも大作『砂の器』は、とりわけ人気があります。再三にわたり、映画やテレビドラマ化がなされてきました。いささか冗長な原作より、映像の方が感動的ですらあります。

 

今日はこの小説の、とある部分を取りあげます。物語の重要な端緒ではあるものの、下に論ずることは、本筋から離れた、とてもマニアックな話です。でもブログ筆者にとっては、とても興味ある話です。清張ファンのごく一部でもいい。関心をもっていただけたらとの思いで、話を進めさせてもらいます。

 

 

 

 

『砂の器』は、東京でおこった殺人事件から始まります。捜査を始めた警察は、犯人の言葉がズーズー弁だったとの情報を得ます。このため刑事は東北地方まで捜査を広げる。しかし手がかりが得られません。するとその方言が、出雲地方の言葉だとわかります。これを端緒に事件は解決へ向かうことになるのです。

 

出雲も東北と同じズーズー弁だった。捜査に混乱を招いたこの類似性が、『砂の器』のキーポイントとなっています。遠く離れた両地の言葉がなぜ似ているのか。清張はおおいに関心をもったはずです。『砂の器』の構想は、ここからスタートしたのかもしれません。

 

小説内では、この謎を論ずる学説が紹介されています。以下はその要約引用です。

 

犯人の足取りを東北方面で捜査するが、手がかりを得られない刑事は、藁をもすがりたく文部省の技官を訪れる。そこで見せてもらった言語学の本には、以下の記述があった。

 

出雲の音韻が東北方言のものに類似していることは古来有名である。たとえば、「イエ」「シス」「チッ」の音の曖昧なること、「クゥ」音の存在すること、「シェ」音が優勢であることなど。学者の間には、この両地方の音韻現象の類似について、種々な仮説が主張されている。たとえば日本海沿岸一帯がもともと同一な音韻状態を保持していたところに、京都の方言が進出して、これを中断したと見るごときもその一説である。

 

技官は、もう一冊の本も出してきてくれた。そこには、こう書かれていた。出雲は越後並びに東北地方と同じように、ズーズー弁が使われている。世にこれを『出雲弁』とか『出雲訛り』、あるいはズーズー弁と称えられて、わからない発音として軽蔑されている。このズーズー弁の原因について次のような諸説がある。

 

(1) ズーズー弁は日本の古代音であるという説      日本古代の音韻はズーズー弁であった。すなわち、古代には日本全国これを用いていたが、都会に軽快な語音が発達して広がるにしたがい、ズーズー弁の区域は逐次減少し、残された区域が出雲・越後・奥羽地方の辺鄙なところのみとなった。

 

(2) 地形並びに天候気象によるという説      出雲地方は僻地で、結婚も近親のみでほとんど行なわれ、部落ごとに通ずる言葉だけで事が足りるため、不明瞭に話してもよいという習慣が蓄積された。あるいは降雨多く晴天に恵まれないため、人びとの活気を失いかつ冬季西風強く口を開くのをきらったのが、ズーズー発音の素因をなしている。

 

技官が示した『日本方言地図』という本には、東北方言と出雲方言の近似を示す図が載っていた・・・

 

 

以上が、『砂の器』の記述です。これを読んだとき、ブログ筆者はいささかの疑問を覚えました。

 

説の(1)によると、古代の日本では、ズーズー弁があまねく話されていたという。それが次第に都のあった奈良や京都からの言葉が広がり、ズーズー弁は駆逐されていった。だが東北は、エミシなどヤマト朝廷に屈しない勢力が強かったからズーズー弁は残った。

 

ここまでは理解ができます。問題は西日本です。古墳時代には、西日本は九州にいたるまですべて朝廷に服属したのに、なぜ出雲にだけズーズー弁が残ったのか。その理由が記されていない。この説は、肝心のポイントが抜け落ちています。

 

説の(2)によると、出雲は辺鄙なところだからズーズー弁になった(残った)という。しかし古代は日本中が僻地だらけです。気候風土の理由は肯首できますが、これだけでは出雲と東北だけがズーズー弁である必然性に欠けます。

 

結局は不可解な、出雲の、飛び地的な図だけが印象に残ってしまいました。

 

ブログ筆者が『砂の器』を読んだのは、半世紀も前の、高校生のときです。刑事が地道に捜査を積みかさねる展開が好きで、以降何回も読み返してきました。ですがそのたびに方言の謎が気になり、消化不良の読後感となっていました。

 

ところが最近読んだ本のなかに、この謎についての記述が出てきたのです。思わぬことでうれしかった。

それは、2017年に出た『縄文の思想』です。東北弁と出雲弁の類似性についての、新たな研究が紹介されていました。

 

古代の東北地方にいたエミシの言語を、現代の東北北部方言から復元しようとした、言語学者の浅井亨の研究があります。浅井は、言語年代学で生活上もっとも基本的とされる語彙(基礎語彙)約200のなかから「口」「舌」「頭」など28語を選び、共通する語の数から日本列島各地の方言の関係を明らかにしようとしました。クラスター分析によって示されたその関係をみると、東北北部方言はきわめて孤立的な方言であることがわかります。秋田県南部と仙台市付近を境とする東北南部方言との差も大きく、両者はかなり長期間にわたって別の文化圏ではなかったか、と指摘されています。

 

そのうえで浅井は、東北北部方言は日本列島で唯一、出雲方言と近縁であり、そこには海上交通による移住が考えられるとしています。これはズーズー弁という発音上の類似を超えた、より深層での関係を示すものです。

 

言語学者の小泉保も、東北型の方言の特徴は、出雲のほかに石川県、富山県、新潟県など日本海沿岸に認められるとし、「かつて日本海沿岸は北の津軽から西の出雲に至るまで東北弁が話されていたのではないか」としています。

 

この出雲から東北に至る、沿岸部の方言の共通性については、言語学者の室山敏昭も指摘しています。室山は、各地の漁民社会の「波」に関連する語彙の地域性に注目し、そのうち「のた」は、出雲から山形県飽海郡にかけて日本海沿岸に分布しているとのべているのです。

 

考古学からみると、東北北部は弥生時代後期以降、人口希薄地帯となっていました。そこに古代日本語集団とみられる古墳社会の人びとが進出しだのは5世紀後半です。古墳社会の東北北部進出は、長野県から群馬県、福島県中通りという内陸ルートで展開しましたが、方言からみるとこれとは別に、日本海ルートによる出雲方面からの移民が東北北部集団の形成に大きな影響をおよぼしていたことになります。

 

弥生時代以降の列島社会の形成に、海民の動向が深くかかわっていたことは、このような方言研究からもうかがうことができるのです。

 

下表の「A~F」は東北北部を。「Y」は出雲をあらわします。

 

 

 

 

以上が、『縄文の思想』からの引用となります。東北北部と出雲の言葉が他の地方の言葉といかにかけ離れているかが、図表により明確に示されています。両地の言葉は、これほどまでに孤立的な存在であったのです。

 

しかし同じくらいに驚いたのは、東北弁のルーツは出雲弁であったということです。その記述部分を再引用します。

 

方言からみるとこれとは別に、日本海ルートによる出雲方面からの移民が東北北部集団の形成に大きな影響をおよぼしていたことになります。

 

つまり日本海の海上交通により出雲人が北上し、沿岸の各地と交易し、あるいは移住していった結果、出雲に端を発した言葉がはるか東北北部にまで及んだというのです。ズーズー弁の発祥地は出雲だったことになります。『砂の器』の刑事が思い込んだように、ズーズー弁は東北弁の代名詞になっていますが、本来は出雲弁であったのです。

 

ブログ筆者が長年気になっていた、遠く離れた出雲と東北、この両地の言葉の、不可解な一致の謎が解けたことになります。しかしなぜ西日本で出雲にだけズーズー弁が残ったのか、もう一方の謎については、『縄文の思想』にも答えはありません。この謎は、のちほど取りあげることとします。

 

実は『縄文の思想』には別の記述もありました。それは出雲の人々の東北への進出説を補強する、人類学の学説でした。

 

このような海民の移動や移住とかかわって、興味深い研究があります。日本列島各地の人びとの遺伝子分析をおこなった人類学者の斎藤成也によれば、現代の島根県と東北地方の住民のあいだには、遺伝子的な共通性がみられるといいます。斎藤はその理由について、いわゆるズーズー弁とされる出雲弁と東北弁の共通性などからも考えてみる必要がある、と指摘しています。

 

ブログ筆者は、さっそく斎藤成也の著書である『日本人の源流』を読んでみた。タイトルからも察せられる通り、日本人を対象とした遺伝子学の本です。ここに確かに、出雲人と東北人の遺伝子解析が載っていました。

 

それが下の2図となります。日本人と中国人のDNAを比較するために作成されたもので、図上の点の距離が、両者の相互の遺伝的距離を表します(日本人はオキナワ人・ヤマト人などに細分化されている)。2図は、それぞれ別の目的で作成されたもので、これを比較検討した斎藤は、興味深い結果に気がつきました。

 

 

左の図の「東北ヤマト人」と、右の図の「出雲ヤマト人」に注目してください。他との相対関係から察せられるように、両者は同じ場所に位置しています。双方の遺伝子は同じか、もしくは非常に近いということです。出雲人と東北人は言語学のみならず、人類学としてもその近似性が証明されたことになります。この分析結果には斎藤も驚いたようで、次のように記しています。

 

わたしはただちに小説『砂の器』を思いだした。原作者である松本清張は、出雲地方の方言のアクセントが東北地方のそれと似ているという日本方言学の成果を、事件解明のヒントとして使っているが、DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきたのだ。

 

斎藤も清張の愛読者であったようです。ゆえに即座に『砂の器』が頭に浮かんだのでしょう。実は拙稿を書こうとした動機も、同じ思いを共有するこの記述があったからこそでした。さきの『縄文の思想』もそうですが、いい本にめぐりあえてよかったと思っています。

 

さてこうしてズーズー弁の出雲発祥説は、人類学によって補完されました。ですがくりかえしになりますが、なぜ出雲にだけ、西日本で唯一ズーズー弁が残っているのか。やはりこれが気になります。

 

この謎について、同じ斎藤成也の本には、ヒントとなる話も載っていました。さきほどのDNAの図(下に再掲)をもう一度ご覧ください。

 

今度は、左の図の「ヤマト人」と、右の図の「関東ヤマト人」に着目してください。この両者はともに、左上の「北方中国人」の近くに位置しています。これは、いわゆる渡来人の血が多く混じっていることをあらわします。それにくらべ「東北ヤマト人」と「出雲ヤマト人」は、「北方中国人」から遠くに位置しています。これはいうまでもなく、渡来人の血が少ないことを意味します。

 

しかし、地理的に中国大陸から遠い「東北ヤマト人」なら、この現象を理解できます。ところが、中国大陸に近い「出雲ヤマト人」なら渡来人の血は多いはずです。不可解な結果といえます。斎藤はこれを受けて、次のように記しています。

 

出雲神話においてもっとも重要な登場人物は、オオクニヌシだ。国ゆずりによって、アマテラスらの天津神(天から下った神)にしたがうことになった国津神(国土に土着する神)の代表である。今回、現代に生きる出雲人のDNAを調べた結果、彼らは国津神の子孫ではないかと思うようになった。

 

人類学の本に、出雲神話がいきなり登場してきました。実は斎藤は理系の学者ですが、幼いころから日本神話に興味を抱いていたという。そこで「出雲ヤマト人」のDNA考察に、出雲神話を絡めてきたということです。

 

さて本稿では、残る部分で、齋藤の考えをベースに、ブログ筆者の思うところを述べさせてもらいます。齋藤の語る出雲神話に、出雲弁孤立の理由が隠されていると思うからです。僭越ながら、砂の器で感じた疑問を、自分なりの考察で紐解きたいからです。

 

まずは直上の引用文を整理します。すでにおわかりとは思いますが、齋藤は、出雲ヤマト人を縄文人の末裔だと考えました。天津神が渡来人と混血したヤマト人であり、国津神が土着の縄文人である出雲ヤマト人だとの主張です。DNAの分析から、納得できる話です。

 

よく知られているところですが、出雲神話は古事記において大きなウェイトを占めています。古事記はアマテラスの子孫であるヤマト朝廷が編纂した初の史書ですが、その神代の、およそ三分の一が出雲神話の記述となっているのです。そもそも天津神の史書に、なぜ国津神の神話が綴られているのか。諸説はあるものの定説はありません。しかしヤマト人の、かつての先住民である出雲人への畏敬の念だとすれば納得ができます。

 

 

また、古事記から千数百年さかのぼる縄文の末期、大陸からやってきた渡来人を、出雲の人々は拒絶しました。さきのDNAの分析がそれを物語っています。

 

それでも弥生時代の出雲人は、渡来人の先進文化は取り入れました。出雲の荒神谷遺跡から発見された銅剣は358本にものぼりますが、それまでの全国の銅剣出土数は300本ほどでした。出雲は独力で圧倒的な国力を身につけたのです。

 

 

平安時代においても、出雲大社の本殿は、大和の大仏殿、京の都の大極殿とともに、「雲太・和二・京三」と並び称されました。その高さは48メートルとされ、それ以前には96メートルもあったという。出雲の国力は、大仏や大極殿を凌ぐ規模を誇っていたとも言えます。

 


 

出雲は、縄文時代から大きな存在でした。『砂の器』の学説によると、日本中が出雲の言葉だったという。古墳時代にヤマトの支配下に入っても、出雲人は存在感を示し続けました。古事記の記述や巨大な出雲大社で、それは具現化されていたのです。

 

多くの方言が都の言葉に同化されても、出雲の言葉が変わらなかったのは、出雲人の矜持や誇りがそうさせたのかもしれません。

 

 

以上、いささか強引な結論であることは百も承知しています。ですが出雲の言語の特殊性を説明するのに、ひとつの考え方として成立してもおかしくないとも思います。こうでも考えないと、砂の器の本筋の事件は解決しても、出雲弁と東北弁の謎は未解決のままとして、残ってしまうからです。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

ブログ後記

 

ブログ筆者は、ご紹介した人類学者の斎藤成也氏とお話ししたことがあります。といっても、氏の講演会の終了後に著書『日本人の源流』へのサインをお願いし、その際に『砂の器』の話をもちだしただけのことです。突然の問いかけにもかかわらず、丁重に応答してもらいました。この著名な人類学者は、ブログ筆者と同世代です。本文でも触れたように、やはり若き日に清張に親しみ、また歴史にも造詣が深い方です。今後も、人類学と古代史をからめた学説に期待したいと思います。