『解説をあつめて』 はっぴいえんど全曲解説集『風街ろまん』編 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

拙稿は、下記リストの本や雑誌から、はっぴいえんどのアルバムへの、音楽評論家たちの言葉を引用させていただいたものです。

今回は『風街ろまん』編となります。

 

nd 風街は、不世出の傑作とされます。

発表からほぼ半世紀、多くの評論が活字になってきました。

しかし各曲ごとの評論を、ひとつにまとめたものはないはずです。

 

以下をお読みいただければ、

風街の世界を、また新たな視点でとらえていただけるはずです。

 

 

 

引用元リスト

『定本はっぴいえんど』

『音楽社会学でJ‐POP !!!』福屋利信著

『レコード・コレクターズ増刊』 2000年刊 はっぴいな日々

『ユリイカ』 2004年9月号 特集はっぴいえんど 35年目の夏なんです

『レコード・コレクターズ』 2015年1月号 特集はっぴいえんど

『レコード・コレクターズ』 2017年10月号 作詞家・松本隆の世界

『別冊ステレオサウンド 大瀧詠一読本 完全保存版』

『ニッポンの音楽』佐々木敦著

『音楽社会学でJ-POP !!!』福屋利信著

 

 

 

 

 

 

 

抱きしめたい

 

 

立川芳雄  ツアーで東北に向かう列車のなかで、松本隆が紙ナプキンに書きつけたという歌詞は、汽車で恋人に会いに行く男の心境を歌ったもので、彼の少女趣味的な部分がかなり強く出ている。おまけに「・・・なんです」という言い回しが多用されており、下手すれば古くさいフォークの歌詞だ。けれど曲はそこそこロック的。リズム・セクションとエレキ・ギターはカントリー・ロック風だが、コード進行はキンクスなどによく見られるパターン。女々しい歌詞を、大瀧詠一がドスの効いた声で歌うのも不思議だ。とにかくこの曲は様々な要素のミクスチュアである。しかもそれらの要素はさしたる調和もなしに、ただ同居しているようなところがあるのだが、それがこの曲の独特の味わいになっているのが面白い。煙草を吸う音や汽車の走る音を、擬音で入れるなど、ユーモアとサーヴィス精神も豊かに発揮されている。

 

 

小林慎一郎 汽車で遠方の恋人に逢いに行く、気弱な男の想いを描いた。各楽器のリズムの表裏が交錯する、変則的で巧妙なイントロが、聴く者の集中力をいきなり喚起する。細野のベースと松本のドラムスが、会話するように絡む、トレイン・ソング的ミディアム・テンポのブルース・ロックだが、鈴木の掻きむしるようなギターの他に、細野のキーボードが隠し味として、楽曲に重厚な手応えを与えている。

 

 

細馬宏通 『はっぴいえんど』を経て『風街ろまん』に初めて針を落とした者は、この1曲めの恐るべき完成度にのけぞることになる。青年は、いきなり強面の少年に成長してしまった。聴き手を幻惑させるようなギターとベースのパターン、確かでタイトなドラムは、あたかも半径の異なる車輪を連動するかのように、聴く者を牽引していく。そして歌い出される大瀧さんの声の「ですます」の強さ。「君」に向けられていながら、突き放すようなその叙事性、そして列車を急停車させてまで「一服する」余裕ぶりは、『春よ来い』と好対照だ。録音全体をねじまげる強力なエフェクトのあとには、「浮かぶ駅の沈むホーム」というありえない状況への飛び降りる。最後にはビートルズ『カム・トゥゲザー』のかけ声すら、「君」とともに燃やされ、煙となって吐き出される。記念碑的なアルバムの冒頭を飾るには、あまりにも確かな時空の歪み。

 

 

 

 

 

 

空いろのクレヨン

 

 

萩原健太 鈴木茂は不参加。代わりにペダル・スティールの駒沢裕城が全面的にフィーチャーされている。バッファロー・スプリングフィールドの、『カインド・ウーマン』に触発されたと思われるカントリー・ワルツだ。とはいえ、当時の駒沢の志向性からか、どこなくグレイトフル・デッドふうの肌触りが伝わってくるのも面白い。低域と高域を絶妙に行き来する細野のベース・ラインも見事だ。そうした楽器群を的確に配しつつ淡々と構築した音像と、当時の松本ならではの青く切ない歌詞と、歌詞の響きをより豊かにふくらませる大瀧の歌唱と・・・。すべてが完璧に噛み合っている。大瀧はここで「空いろ」という単語を、ジミー・ロジャースばりのブルー・ヨーデルに乗せて、聞く者の胸をしめつけてみせるのだが、この時点で彼はのちの『ロング・バケイション』で実現させる「ウェット」と「ドライ」、「真面目」と「コミカル」の融合をすでに果たしていた。

 

 

定本はっぴいえんど 松本大瀧コンビによる、ほのぼのラブソングスタイルが確立された曲。このあたりの詞は、フォークの高田渡と非常に近い。ニール・ヤングの『ヘルプレス』にインスパイアされたと思われる。また、大瀧がヨーデル唱法を初めて取り入れた曲。スティールギターは鈴木ではなく駒沢裕城。

 

 

小林慎一郎 駒沢裕城のペダル・スティールが前面に出る、のどかなカントリータッチのワルツ曲。ノドを絞るように唄う大瀧のボーカルが秀逸で、終盤ファルセットで、一気にヨーデル風に盛り上げている。

 

 

木村ユタカ カントリー調の牧歌的なワルツ・ナンバー。大瀧詠一によるブルー・ヨーデル唱法も印象的だが、この作品は詞先で、「空いろのくれよん」というタイトルを聞いた瞬間、大瀧が当時ハマつていたハンク・ウィリアムズや、ジミー・ロジャースのヨーデルをやろうと決めたという。大瀧によれば、こういう詞でないとこういう曲にはならなかったそうで、まさに幸せな邂逅だった。花模様のドレスを着た「きみ」に惹かれてゆく様子を、「ぼくはきっと/風邪をひいてるんです」という一文に集約させた世界観は、その後「微熱少年」へと繋がってゆくことに。恋熱にうかされた主人公の心情を、大瀧の「声のウラっかえり」が、空へと飛翔させていったのです。

 

 

石川茂樹 この曲はずばりヨーデルがハイライトで、おそらくジミー・ロジャースへのオマージュ・ソングとみました(ウィリー沖山も入っているかな?)。もう一曲、『田舎道』でもヨーデル唱法を取り入れていますが、この時期、カントリーの祖といわれるジミー・口ジャースのテイストを盛り込んでいる点に驚かされます。後の下敷きソングというほどのものではないのですが、大瀧作品は出典が広範囲で、さなからパズルを解くような楽しみを内包しているので侮れません。歌詞が「ですます」調になっているのはこの頃の松本隆の特徴で、中原中也の影響でしょうか。いずれにしても普通のカントリー・フレーバーの曲と思いきや、いろいろな要素の入ったキー・ソング。

 

 

 

 

 

 

風をあつめて

 

 

佐々木敦  『風街ろまん』の中でも屈指の名曲。ここにあるのは、透明で詩的な文体で書かれた、淡々とした情景描写、ただそれのみです。物語もなければ主題もない。いや、よく読んでみればどうやら、「都市」と「自然」の相克、というようなことが描かれているらしいことはわかるのですが、かといって松本隆の狙いが、そうした言語化されたテーマとして抽出できるようなことにはないのは明らかだと思います。重要なのは、むしろ言葉の連なりが醸し出す「雰囲気」なのです。それから目立つのは、一聴して非常に印象的な「~です」の多用と、強いこだわりを感じさせる独特な漢字の使い方です。もちろん漢字に関しては、耳で聴いているだけでは判らないのですが、松本隆にとっては他の文字でなく、こうでなければならなかったのだと思います。歌われる音声の背後に、このような一種、クラシカルに思える書記が隠れているということを前提に、松本隆の歌詞の世界は形作られていたのです。

 

 

松本隆  『風をあつめて』の場合、いろんな人がカヴァーしているんだけれど、誰も細野さんを超えていない。細野さんは別に「この詞がどういうことを語っていて、なんで『風をあつめて』なんだろう?」とか、全く考えないでただ歌っているような気がする。だから感情移入とかはまずゼロだと思う。それが逆にいいんだよね。今の人は感情移入しすぎ。特に「自分で作って自分で歌います」みたいな人。作詞能力が高くない人まで歌っていて、そうすると感情でカヴァーするわけで、ものすごく暑苦しい。

 

 

真保みゆき 再聴したら、記憶していたより歌詞がはるかにあっさり聞こえるのには驚いた。当初予定されていた、『風都市』というアルバム・タイトルをまさに象徴するような曲。アルバムきってと言いたくなるくらい、抽象度の高い作品に思える。歌詞がないがしろにされているわけではない。大瀧詠一に比べると、むしろとつとつとした歌いまわしに聞こえるのに、これはすでに細野晴臣らしい、妙に達観した調子の低音のせいだろうか、松本隆が得意とするぺダンチックな言葉遣い、その「意味」の部分が、どことなく後退して聞こえてしまう。せっかく歌詞カードで「伽藍とした」という凝った漢字で当て字されていたのが、いざ耳にしてみると、なんだか響きが、ひらがなみたいだ。『Hosono Box』収録の『手紙』が、歌詞とはあくまでつかず離れずの距離で成立しているこの曲の不思議さを、逆説的に浮き彫りにしてくれそうだ。ファーストアルバム『はっぴいえんど』録音時にレコーディングされながら没にされていた、言うならば『風をあつめて』のプロトタイプにあたる作品なのだが、こちらのバージョンには『風街』版に顕著な抽象性、透明感がまったくと言っていいほど見受けられない。細野自身がコメントしているように、松本詞がまだ「熟れてはいない」時期に書かれたということもさることながら、歌詞から受け取ったイメージを、音楽という別次元へと飛躍させていくノウハウ自体、まだ発見されていなかったということなのだろう。松本のドラムスを除くすべての楽器を細野が担当。ヴォーカルと演奏の両面に、日本に紹介されたばかりだったジィムズ・テイラーからの影響が顕著なのは周知のとおりだが、アコースティックギターとベースが交錯する立体的なアンサンブルが、歌の入った室内楽のように聞こえる。フランス印象派など、子ども時代から親しんでいたクラシック音楽的な演奏が、松本詞およびJTの方法論に触発される格好で浮上したのだとすれば、それはそれで興味のつきない化学反応だという気がする。

 

 

小林慎一郎  ジェイムズ・テイラーの様式美に基づく、はっぴいえんどの代表作。クレジットを凝視すると大瀧と鈴木は不参加で、ドラムスの松本以外、ボーカル・ギター・オルガン・ベースが細野。同じくJT風の『夏なんです』も、大瀧は不参加だ。確かに大瀧の諧謔性やシニカルなキャラクター、そして大なり小なりへしゃげたようなその声質は、JTの透徹な世界観には不似合いだろうが、このような制作スタイルは、四人の個が独立懸架で回っていたCSN&Yの在り方と酷似している。

 

 

馬飼野元宏  松本隆が生まれ育った青山を中心に、麻布、渋谷界隈の、オリンピック以前の原風景を「風街」と呼んだ、その象徴とも呼べる名曲。日本語ロックに「です・ます」調の歌詞を乗せ、「背のびした路次」「摩天楼の衣擦れ」など、既に松本ならではのフレーズが顔を出す、現在に至る詞作の原点でもある。身近にある風景を、愛おしく思う気持ちを表現しているので、自身にとってのラヴ・ソングでもあると、松本は述懐している。詞が先に作られ細野晴臣がフォーキーなメロディを施し、無限の拡がりを感じさせる楽曲に仕上がった。はっぴいえんどのファースト・アルバムに収録予定だった原曲の『手紙』は、サビに「風をあつめて」のフレーズが残るものの、下町的な風景が具象的に描かれたフォーク的な曲想。

 

 

 

 

 

 

 

暗闇坂むささび変化

 

 

和久井光司  原題は『ももんが』だったという、カントリーロックナンバー。アコギ、ベース、フラットマンドリン(クレジットは宇野主人)、リードヴォーカルは細野、コーラスは大瀧、ドラムスは松本という布陣による録音で、鈴木は不参加。1分51秒という長さからも、コンセプチュアルなアルバムの中で「つなぎ」の役割になるような小品を意識して書かれたのは明らかだが、けっこう本格的なカントリーテイストにはそれ以上のインパクトがあった。細野のプレイヤーとしての技量によって成立している曲だが、テクニカルなイメージはない。シャレで演っているようなところがさすがなのである。寓話性の高い歌詞に江戸小咄的な面白さと、伝統的な「粋」が感じられる。宮谷一彦が描いた、Wジャケット内側の路面電車とマッチした「東京的感覚」のポイントとなった曲の裏側からそれを支えたのは、『春らんまん』や『はいからはくち』とこれだった。

 

大里俊晴  「ももんがー」って、漱石の『坊っちゃん』に出てくる、妙に忘れがたい表現だ。なんでも江戸時代あたりから、怪物じみた物を表すのに使われ、風呂敷を被って「ももんがー」と叫ぶような遊びかあったとか。さて、そのような今は昔のフォークロア的な要素に、蝙蝠やら黒マントやら、胡散臭い昭和の紙芝居的な道具だてが揃って、松本隆の歌詞の中でも、特に日本的なる風物を異化した/生かした系譜に連なる重要な小品と言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

はいからはくち

 

 

細馬宏通   『はいからはくち』には、シングル版や『CITY』版など、数多くのバージョンが存在し、またライブでもしばしば演奏されているが、『風街』版がほかと際だって違っているのは、そこに多彩なパーカッションが含まれている点だ。そのため、松本さんのドラムは、パーカッションににぎやかさを譲る形で、やや抑えた演奏になっている。しかしそのことで逆にハイハットには、より微細な変化が加えられている。「ぼくははいから」と大瀧さんが右から歌い、カッティングギターが左から響き、両肺が左右で別々の音をたてるとき、松本さんの左足は強く踏まれているので、ハイハットは硬く響いている。ところが、大瀧さんの声が左へと転じて、コンガが、ちゃかぽことにぎやかな都市を飾り始めると、松本さんの左足はわずかに緩められ、ざかざかと息が漏れ出してくる。こうなるとハイハットはまさに金属の肺、スティックで叩き出される金属の息づかいはどんどん荒くなる。このハイハットの呼吸によって高められた疾走感は、鈴木のギターがうなりをあげるのを合図に、クラッシュするシンバルへ引き継がれ、大瀧さんの声は突如ど真ん中から、「ぼくは」という決定的な告白をする。それはあたかも左右の肺から送り込まれる強い息が、思わずほんとうの声帯を鳴らしてしまったかのようだ。

 

 

志田歩   タイトルは「ハイカラ白痴」と「肺から吐く血」のダブルミーニングで、さらに白痴と博士もひっかけた上でのひらがな表記になっている。それは単に欧米の影響を強烈に受けた世相を皮肉っているだけではない。日本語でロックをやるという意識を持っていた彼らにとって、英米との距離感、日本人としてのアイデンティティといった問題は、自分たちにも刃を向けざるを得ない深刻なテーマだったのだ。そうした発想が込められていたことを想像しながら聴いてみると、イントロに収められているお囃子も単なる戯れではなく、日本的なものを冒頭に提示した上で本編に突入したいという、意志の表明として受け取ることができるだろう。今となっては、そうした複雑なニュアンスを七音節で表現するタイトルが松本の脳裏に浮かんだ時に、この楽曲ははっぴいえんどの代表曲となることが決まったようなものだと考えることもできるが、フレーズが浮かんでから実際に歌詞として完成するまでには、半年もの時間が必要だったという。曲調もはっぴいえんどの楽曲の中で最もハードなスタイルになっている。これは松本が大瀧に歌詞を渡したのが70年8月27日、日比谷野音で行われていた「10円コンサート」の会場であり、大瀧にとってはその場の印象が影響して、ハードなギターサウンドになったようだ。お囃子が終わったところで、多羅尾伴内(大瀧の変名)により当時流行した「フジカラー イズ ビューティフル」というコマーシャルのパロディで「ハイカラ イズ ビューティフル」という英語のMCが入り、その直後に鈴木茂のシャープなギターが切り込んでくる。細野のベースも骨太なグルーヴ感を打ち出しており、さらにパーカッション感をフューチャーしたアレンジ感も非常に入念だ。なおレコーディング作品としてのリリースは、当時彼らがバックを担当していた岡林信康のライヴ盤『岡林信康コンサート』の方が先で、その後にキングレコードから発売された『12月の雨の日』とのカップリングシングル、そして『風街ろまん』という順番。アレンジはシングルとアルバムで異なっており、アルバムのヴァージョンはシングルよりもロック色の濃いワイルドな仕上がりになっている。

 

 

小林慎一郎   お囃子と英語のナレーションが意表を突く。多羅尾伴内名義のスピーディなロックンロールで、曲展開の中でボリュームの定位を随時シフトさせるなど、大瀧ならではのサウンド・プロダクションへのこだわりが炸裂。はっぴいえんど時代の大瀧を象徴させる逸品。

 

 

水上徹    曲名は「肺から吐く血」と「ハイカラ白痴」のタプル・ミーニングだが、この二つの意味が単なる言葉遊びを超えて有機的に作用し合うことで、鮮烈かつ豊穣なイメージの向こう側に、強固なメッセージ性を隠し持つことを可能にしている。敗戦国としてのアメリカヘの盲目的追従(ハイカラ白痴)という空気は、我々の肺を蝕み喀血(肺から吐く血)寸前だ。そんな解釈も可能だろうか。「こかこおら」「蜜柑色したひっぴー」など、米国文化を意図的にねじって日本語表記したり、アメリカに対して媚びを売るイメージを女郎花に投影する試みは、実験というよりも、日本の現状を歌詞にするために考案されたのではないか。松本は政治運動に直接関わることはなかったが、問題意識だけは共有していたのだと思う。

 

 

細馬宏通    『はっぴいえんどBOX』に収められた新たなライヴ録音によって、この曲ははっぴいえんどの変遷を知るための格好の座標軸となっている。現在、九つのバージョンを聴くことができ、シングル版の「ダ・ドゥ・ロン・ロン」風アレンジに近いものと『風街ろまん』版のアレンジ、そしてべースか印象的な『ライブ!!』版とに大別できるか、細部にはさらに違いがある。たとえば1971年に発売されたシングル版では、全篇ほぼコーラスで歌われて、のっぺりとお化けめいているが、次の『風街』版では、主な部分がソロで歌われており、各子音が語の意味を突き抜けるように粒立つ。それにしてもこれほど怖い「こかこおら」という発音があるだろうか。『風街』以後、1972年4月および5月のライブでは再びシングルと同じ「ダ・ドゥ・ロン・ロン」風で歌われているが、メロディはまったく異なっており、「トシヲカザル」と突如早口でまくしたてられるそのギアチェンジぶりは、明らかにポスト『風街』である。大瀧さんはこの曲や『12月の雨の日』を歌うために、歌詞をいちどローマ字に解体したという。

 

 

小川希   オープ二ングの多羅尾伴内の挨拶が終わるや否や、ほしいも小僧か大暴れ。鈴木茂節が大爆発である。ものすごい勢いで噴火。これぞ、和製ロックンロール。何も足さない、何も引かない。男気溢れる一発録り。タイムマシンにお願いして、このときの録音現場に本気で行ってみたい。間奏も、茂ギターが炸裂している。

 

 

 

 

 

 

はいから・びゅーちふる

 

 

志田歩   『はいからはくち』の後奏ともいうべき約30秒の小品。スライドギターを前面に出したブルース風の演奏にのせて、脱力したタイトルが連呼されている。作詞作曲は大瀧の変名である多羅尾伴内名義。この変名はお遊びノリの時に使われていたもので、鈴木のクレジットもほしいも小僧となっている。なぜこうした冗談のようなトラックが収められたかという理由はいくつか考えられる。ひとつは『はいからはくち』という楽曲において、シリアスな問題提起をあまりにもカッコよくやってしまったことへの照れではないだろうか。そしてもうひとつは、いわゆるロックンローラーいうワクに収まることのできない、大瀧の作家性の発露である。それは『はいからはくち』という楽曲の、ハードなロックなロックナンバーとしての完成度が高かったゆえ、なおさら必要とされたように思われる。

 

 

石川茂樹    これは前曲『はいからはくち』の流れを受けて、初めて多羅尾伴内名義を使用した「おまじないソング」です。バックにスライド・ギターをフィーチャリングした30秒程の短い曲で、呪文やお経にも似た同じフレーズの繰り返しが、いかにも大瀧詠一のバイアスがかかったお遊びソングとなっています。これぱ『はいからはくち』が、予想外にハードな展開になったので、それを鎮める(A面を締める)という意味合いで、付け加えられたものではないでしょうか (『はっぴいえんど』に対する『続はっぴーいいえーんど』のようなもの)。「はいから・びゅーちふる」というフレーズも、意味を超えた摩訶不思議なリフレインで、聴く者の耳に強く残ります。

 

 

 

 

 

 

 

夏なんです

 

 

佐々木敦   長閑な田園の夏の風景を描いているのですが、しかし彼ら以前のフォークが得意としていた土着性や郷愁とは、明らかに一線を画しています。それは、この歌詞の「ぼく」の視線が、ここに描写されている日本の「夏」の「風景」に埋没することも耽溺することもなく、どこか傍観者的といってもいいような、絶妙な距離感を持っているからです。松本隆=はっぴいえんどの歌詞には、政治性・社会性がないばかりではなく、共同体やトポスへの帰属意識や、生活感のような実感もなければ、あるいは実存的、観念的な苦悩や絶望などといった要素も、まったくといっていいほど存在していません。ただあるのは「風景」、それもほとんど能動的な意味を持たない、いわば空っぽな「風景」のみです。

 

 

立川芳雄   はっぴいえんど時代の松本隆の詞には、季節感を感じさせるものが多い。『風街ろまん』のなかにも、たとえば雪の降り積もる冬の荒野を舞台にした『抱きしめたい』とか、タイトルも『春らんまん』といった曲もある。そんななかでもこの曲は、最も強烈に季節感を喚起させる曲だといっていいだろう。印象的なギターによるイントロが終わり、歌が始まると、入道雲に立つ日本の田舎の夏の風景が、聴く者の前に現出する。「鎮守の森」なんていう古くさい言葉を平然と歌詞に使ってしまう松本もすごいが、それをごく自然にメロディにのせてしまう細野晴臣もたいしたものだ。しばしば言われることだが、田舎の風景に郷愁を感じるのは、必ずしも田舎の人間ではなく、むしろ都会の人間であることが多い。田舎の人間にとって「畦道」だの「鎮守の森」だの「古い茶屋」だのといったものは、そこから脱出すべき古い世界の象徴だったりする。逆に都会の人間の方が、そうした風景を見て懐かしいなどとつぶやいてしまったりするものだ。じゃあ田舎に住んでみろと言われたら、嫌だと答えるのも都会の人間なのだが。そんなわけでこの曲は、「都市」のバンドであることにこだわったはっぴいえんど(彼らのベストアルバムのタイトルは『CITY』である)だからこそ作ることができた名曲だといえる。『夏なんです』で描かれた風景は、都会人が見たフィクショナルな田舎の風景なのだ。考えてみれば、田舎から都会に出てきた青年の心象風景を歌った『春よ来い』の歌詞も、永島慎二のマンガにヒントを得て作られたフィクショナルなものだった。松本隆はこういったフィクションを作るのが上手い。はっぴいえんどを好きになれない人は、彼らのもつこういった虚構性になじめないのだろう。けれども私などは、自分のメッセージやら信念やら説教くさく直截に歌った歌にはまったく興味がない。音楽的には、多くの人たちが指摘するように、ジェイムズ・テイラーの影響が顕著だ。けれどもコード使いなどはテイラー以上にジャージーでモダン。ファッショナブルな風物などとは無縁な世界を歌っているが、きわめて洗練された都会的なポップ・ミュージックである。

 

 

小林慎一郎   細野のフィンガーピッキングと鈴木の揺れるジャズ・ギター的演奏が、抗しがたい人肌の温もりを醸し出す。松本の筆致を含めて、ここで展開される虚無的田舎世界への憧憬の見事な描写は、はっぴいえんど作品中屈指のものだろう。

 

 

細馬宏通   生ギターで構成された緻密な進行によって夏の情景が語り出される。細野さんの弾く美しい和音は、コード譜ではなかなか再現できない。『CITY』(はっぴいぇんど全曲楽譜集)に収められた譜面では、採譜者が聞き取りを断念したのか、添えられたコードがかなり混乱しているが、Am7 on Dといった分数コードの表記すら一般的でなかった当時としては無理ないことだろう。和音の進行はただ複雑なだけではなく、歌詞を確かな時間構造で導いていく。田舎の情景をたどって擬態語とともに、「太陽」「セミ」「入道雲」といった語が告げられると、イントロから枝をのばしてきたコードは意外な方向に進んで、G調と思われたメロディはD調に転じる。それかいったん「退屈」のループにとらえられるや、D調とG調は交替しながら回転し始める。歌詞カードに描かれた花は、まるで図形楽譜だ。

 

 

 

 

 

 

花いちもんめ

 

湯浅学   生まれて初めて聴いて買ったはっぴいえんどは、『はいからはくち』のシングルだった。宮沢一彦の描いた蒸気機関車のイラストが、そのシングルジャケットを飾っていたことが俺の場合、購入に大きく影響している。こちらのイラストの使用は、誰の提案によるものだろう。そもそもなぜこの曲が、A面としてシングル・カットされたのだろう。鈴木茂が他のメンバーから促され初めて仕上げた作品。プロコル・ハルム風のゆったりしたメロディ展開。ザ・バンドの『ウィ・キャン・トーク』風のフレーズもある。細野の弾くオルガンとピアノが、曲のスケールを広げる役割を果たしている。都会に生きる、少年少女の苛立ち交じりの意気がった生活感から生じる、風のイメージをオルガンが表現。淡々としたビートに乗って、ギターは小さなつむじ風を演出する。子供時代へのあやうく虚無まじりの姿勢とを重ね、なつかしむのではなく、新たな苛立ちの誕生に、心ひそかに喜びを覚えている様子が感じられる曲だ。この詞は、永島慎二が71年3月に久々に発表した漫画『花いちもんめ』(少年サンデー71年16、17号に発表。全90ページ。その年の小学館児童漫画賞を受賞)への称賛の意を込めて書かれたものではなかろうか。昭和20年代後半の、東京の下町でメンコに身体を張った少年たちを描いたこの作品は、「狭い路地裏のヒーロー」の物語。登場する子供たちはメンコを飯の種に皆土埃にまみれている。そういえば永島慎二には『風っ子』という作品もある。60年代末~70年代前半の漫画群にとりわけ覚醒された身としては、はっぴいえんどへの漫画からの影響は、海外のロック以上に大きい、とさえ思う。この曲のプロデュースには、鈴木の盟友林立夫の名が併記されている。鈴木のヴォーカルは大瀧と似ており。全編ふたりが歌っているような錯覚に陥る。サビのふたりのハモりは「埃っぽい」のにさわやかだ。うねりながら唸る細野のベースが、柔らかいのにしぶといグルーヴを作り出している。

 

 

小川希(1)   鈴木茂初の作曲のこの曲、茂ギターはヴォ―カルと競うのをやめ、すっかり打ち解け厶-ド。それはなんといっても、実際のヴォーカルが鈴木茂本人なのだ。って知ってたような口利いてるが、私、当初はずっと大瀧詠一のヴォーカルだと思ってました。でも、そう思ってたの私だけじゃないはず。だこの歌い方、イタコよろしく大瀧詠一が降りてきているのだ。しかし、鈴木茂ときたら、ギターで歌うだけでは飽き足らず、実際の歌も非常に上手い。こんな甘い声の持ち主だったとは。この曲は茂ギターが熱唱を少し休め、ヴォーカルにそっと付き添うように、優しい音色を奏でている。鈴木茂の決して強すぎないヴォーカルも、少年達が風街の路地裏で遊ぶイメージとぴったりである。

 

 

小川希(2)  「ぼくら」が駆け抜ける電車通りの前を、電車の音がゆっくり渡ってゆくようなイントロ。微熱を発するモンタージュの情景が、詞に引っ張られて広がり、ペースの車輪の低音に揺すられる。懐かしいような午後なんだげど、自分の経験ではなかったっけ。影響関係はつまびらかでないけれど、レイ・デイヴィスの創る曲の倦怠感と一脈通じる雰囲気を、いつも(勝手に)感じてしまう。鈴木茂のヴォーカルは、まるで大瀧詠一の年子の弟のよう。優秀な兄貴達に囲まれての初めての自作完成曲が、堂々としたこれだものな。作曲家としての始発駅のここから、ギタリストの乗る路面電車はのちに浮かんでゆく。ソロの銀河へと。

 

 

 

 

 

 

あしたてんきになあれ

 

和久井光司  最近も某CMで使われ、松本の詞のすごさを再認識する声が高まった。どんよりとした空、厚く重い雲、陰鬱な雨を「戦闘機」「戦車」「駆逐艦」に転化させてしまったイメージの広がりと、少女の肉体から小さな音として発せられる「ぽつん」「ぽつり」「ひゅうひゅう」の対比が、ふわりと「世界」と「個」の距離を表現している様が素晴らしい。アルバムのコンセプト・メイカーに抜擢された松本は、詩人としての評価をここで決定的にしたわけだが、中でもこれは傑作だ。ファンキーな曲もいい。高い声が出なかった細野が、全編をファルセットで通してしまったのが、逆に「贋ソウル」っぽい独特な効果をもたらしている。発売当時は、ジョークっぽい曲のひとつとし捉えられていたが、情報量が多いのはむしろこういったタイプのナンバーだ。リズムの「間」に、黒人音楽への憧憬があふれていたりするところが、渋谷系の若者にも受ける秘密か。

 

 

飯田豊   70年代に入ってもなお、ベトナム戦争は沈静化の兆しをみせず(FENを愛聴していた口ック少年たちにとって、米軍の存在はなおさら身近に感じられたかもしれない)、国内においては、安保闘争こそ収束に向かいつつあったものの、赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件、市ヶ谷の自衛隊基地における三島由紀夫の割腹自殺といった事件が相次いだ。「戦闘機」や「戦車」「駆逐艦」の幻像は、不気味なほど静かに、戦後日本社会の日常に影を落としていた。メディアによる戦争の物語化が、われわれの日常と離れがたく寄り添っている今日、この曲の醸し出す情感が完全に過去のものとなったとは言い難い。

 

 

 

 

 

颱風

 

 

能地祐子   トニー・ジョー・ホワイトの『スタッド・スパイダー』に触発されたという、大瀧詠一流スワンプ・ロック。大瀧のヴォーカル、鈴木茂のワウ・ギター、シバのブルース・ハープ・・・と3人がかりで、トニージョーのファンキーさを我が物にしている。前作の『いらいら』に続く大瀧詠一作詞ものだけあって、歌詞自体が喚起する情景はさほど具体性はない。が、それだけ聞き手のイマジネーションをくすぐりまくる。「あたりはに/わかにか/きくもり」という乱暴な語句の切り方、擬音を多用したワイルドな歌いっぷり、荒々しい演奏などが見事タイトルに見合った喧騒を生み出している。フェイドアウト間際に「なに?風速40メートル?」という大瀧のひとことが入っているが、その言葉通り、ドコドコ暴れまくる松本隆のドラムも、いい感じで「嵐を呼んで」いる。のちに大瀧のプロデュースのもと、布施文夫が『颱風13号』としてカヴァー。

 

 

小川希   最初は大瀧詠一のヴォーカルの独壇場かなと思わせておいて、そんな訳にはいかない。来る、来る。ワイーンとやっぱり来た。ワウという文字通り音を、ワウワウいわせるエフェクターで、茂ギターが唸っている。この曲は、茂ギターのワウワウ歌う声(音)と大瀧ヴォーカルの掛合いか非常に面白い。例えるなら、隙のないボケとツッコミ。この掛合いの見所は、最後のヴォーカルとギターが同じフレーズを口ずさむところ。やっぱり、ここでも茂ギターはヴォーカルと張りながら、キバって歌っている。

 

 

石川茂樹   颱風の接近の模様を、ロックのリズムに乗せて擬音化した大瀧作詞・作曲による傑作。ここにもはっぴいえんど日本語ワールドの醍醐味が展開されています。一連のフレーズを音符にはめて切断することによって、本来の意味がサウンドに溶解して意味を失っていく様子が窺えます。また「ぐらぐら」「はやくはやく」「どんどん」「ぴしぴし」「ぐるぐる」等のオノマトペをうまく曲に乗せた点が素晴らしい。その後の大瀧作品、「あつさのせい」にも通じる「言葉切り」の妙味が聴き所となっています。サウンド面では鈴木茂のリード・ギターとシバのマウスハープが効果的に使われていて、緩急をつけた工夫(エフェクト)が随所に感じられます。『悲しき夏バテ』に収録されている布谷文夫ヴァージョン(「颱風13号」、作詞作曲=多羅尾伴内。何故か颱風23号が13号に変わっています)も併せてお聴きいただくと面白いのでは。最後の石原裕次郎へのオマージュはご愛嬌でしょうか。

 

 

 

 

 

 

春らんまん

 

 

能地祐子   ほぼ全編ハーモニーで歌われているが、どのパートがメインのメロディなのか今ひとつよくわからない・・・という、妙に落ち着かない感触は、まさにバッファロー・スプリングフィールド~ポコ~クロスビー、スティル&ナッシュ。普通ならば2ビートで演奏してもおかしくないカントリー・タッチの曲を、16ビートっぽいアプローチで聞かせているところなどは、ザ・バンドを連想させるし。バンジョーが入るエンディングの一節は、明らかにバッファローの『ブルー・バード』を倣ったものだろうし。というわけで、音楽的な側面から見て、まさにバッファロー周辺の音楽性を目指した、はっぴいえんどそのもの。それに加えて夢野久作、九生十蘭あたりに通じる、和の粋をこらした歌詞の世界も、当時のはっぴいえんどを解析するうえでも見逃せないポイントだ。そういう意味でこの曲は、当初彼らが目論んだ理想型に非常に近いものが実現されているのかも。

 

 

飯田豊   東北出身という大瀧の出自に裏打ちされた『春よ来い』が、「お正月と云えば 炬燵を囲んで・・・春が訪れるまで 今は遠くないはず」と歌い、家郷の喪失と都市の現実のあいだで、宙吊りになった出郷者たちの姿を二重写しにするのに対して、この曲に込められた情感は、山の手で育った若者の(帰り得ない)家郷への憧憬だろうか。旧仮名遣いの粋な詞世界。「暖房装置の冬が往くと 冷房装置の夏が来た ほんに春は来やしなゐ」という一節が、高度成長がもたらした都市的生活世界の変貌を暗喩している。

 

 

 

 

 

愛飢を

 

 

湯浅学   ヴァレンタイン・ブルー時代に作られていた曲。2番が「あかさたな」で3番が「いろはにほ」だったというが、録音は確認されていない。「日本語のロック」を標榜する(とされていた)自らの立場を自嘲的に表現している、ととることもできる作品。レーベルの表記は『愛飢を』だが、歌詞カード裏面の各曲クレジットのところでは『愛飢』となっている。 プロデュースは『はいから・びゅーちふる』同様、多羅尾伴内が担当。『風街』のA、B面とも諧謔技で締めているところに、はっぴいえんどのやわらかい娯楽性が感じられる。高田渡の『ごあいさつ』(詞は谷川俊太郎)に通じるものがある。ニルソンの『テン・リトル・インディアン』とは関係ないか? 最後の「ん」がステージで披露した折に、やたらとウケた印象がある、と大瀧は語っている(『定本はっぴいえんど』より)。松本隆「作詞」の中で最もわかりやすい「作品」(かもしれない)。

 

 

飯田豊   「日本語はロックのリズムにのらない」「はっぴいえんどは日本語に執着しすぎている」といった類の苦言をするりとかわして、自嘲気味かつアナーキーに笑い飛ばす、そんな遊び心に満ちた小品によって『風街ろまん』は幕を下ろす。ヴァレンタイン・ブルー時代に制作された曲だというが、前作『はっぴいえんど』のラスト・フレーズ「はっぴ「いいえ」んど」と同様、このバンドのエッセンスひとかけらに、小さじ一杯のユーモアが効いている。アルバムのラスト・トラックに、彼らのコンセプトがプレイフルに濃縮されているという点は、『HAPPY END』の傑作、『さよならアメリカ さよなら二ッポン」まで通底しているといえるだろう。

 

 

 

福屋利信著 『音楽社会学でJ-POP!!!』から
『風街ろまん』解説

 筆者にとって、この『風街ろまん』は、日本のロックアルバムで、初めて文学の香りがした作品であった。そしてそれは、かなりの驚きでもあった。―曲目の「抱きしめたい」は、宮沢賢治の「水仙月の四日」と類似した世界観を持つ。以下は、宮沢賢治の雪景色の描写である。

 

すると、雲もなく研きあげられたやうな群青の空から、
まつ白な雪が、さぎの毛のやうに、いちめんに落ちてきました。
それは下の平原の雪や、ビール色の日光、
茶いろのひのきでできあがつた、しづかな奇麗な日曜日を、
一そう美しくしたのです。

 

 以下は、「抱きしめたい」の歌詞である。「水仙月の四日」と比較してみると、雪国、田舎、白い大地、静けさ、ビール色と飴色と表現された色彩感覚など、幾つかの共通項が存在する。しかし、何より、一服の絵を見ているような錯覚に陥る両者の情景描写の巧みさが素晴らしい。三好達治の描く雪景色にも通ずる世界である。

 

 

淡い光が吹きこむ窓を
遠い田舎が飛んでゆきます
ぼくは烟草をくわえ一服すると
きみのことを考えるんです


黝い煙を吐き出しながら
白い曠地を切り裂いて
冬の機関車は走ります
きみの街はもうすぐなんです
ゴオ、ゴオ、ゴオと雪の銀河をぼくは
まっしぐらなんです


飴色の雲に着いたら
浮かぶ驛の沈むホームに
とても素速く、飛び降りるので
君を燃やしてしまうかもしれません

 

 

 曲全体を捻じ曲げるようなジェット・マシーンの使用が、「ゴオ、ゴオ、ゴオと」冬の吹雪を切り裂いて進む機関車と駅舎の情景を浮び上がらせてくれる。また、細野晴臣のベースと松本隆のドラムスとの一体感が、究極のミニマリズムを形成し、ザ・バントの分厚いサウンドを彷彿させてくれていたりする。真のシンプルは重厚感を演出し、決して薄っぺらさを派生するものではないことを教示してくれる音づくりに感動!

 「風をあつめて」は、全ての曲が名曲と言ってもいいはっぴいえんどの楽曲群の中でも名曲中の名曲だ。加えて、はっぴいえんどの音楽キャリアで一番商業的成功を得た曲でもある。東レグループのCMソングに使用されたこともあるし、最近では、大塚製薬オロナミンCのCMで、サカナクションの山口一郎がこの名曲を歌い上げている。世紀を跨いで生き延びていることも名曲中の名曲たる所以。松本隆が晴海埠頭を歩きながらイメージを拡げて、一つのコラージュとしての「風をあつめて」ができあがったと言う。松本が構築した「風街」の風景團の一つに違いない。

 

 

街のはずれの背伸びした路地を

散歩してたら
汚点(しみ)だらけの靄(もや)ごしに
起き抜けの路面電車が

海を渡るのが見えたんです
それで僕も風をあつめて

風をあつめて

風をあつめて
蒼空を翔けたいんです、蒼空を


とても素敵な昧爽(あさあけ)どきを

通り抜けてたら
伽藍(がらん)とした防波堤ごしに
緋色(ひいろ)の帆を掲げた都市が

碇泊してるのが見えたんです
それで僕も風をあつめて

風をあつめて

風をあつめて
蒼空を翔けたいんです、蒼空を

 

 

 アコースティック・ギターにオルガンが絡んで展開されるサウンドは、エレキ・ギターを使用せずともロックは奏でられることを示してくれ、松本隆の歌うようなドラムスもいい昧をだしている。作曲者の細野晴臣は、明らかにジェームス・テイラーにインスパイアされたかのような歌いっぷりとメロディーラインで、後の細野スタイルの原点を確立した。ハンド・オルガンが風を送る楽器から生まれたという音楽史も、この曲を聴けば納得できる。

 「夏なんです」は、夏の日差しと入道雲、セピア色をした夏の一日が淡々と述べられた佳曲で、つげ義春の『紅い花』に描かれた夏の日をそのまま音楽にしたような作品。

 

 

空模様の縫い目を辿って

石畳を駆け抜けると
夏は通り雨と一緒に

連れだっていってしまうのです
モンモンモコモコの

入道雲です
モンモンモコモコの

夏なんです

 

 

 「少年の低い視点から見た空ってものすごく巨大に思えて、そこに入道雲があるって言う、ただそれだけの歌なんだけど、すごく自分でもリアルだなと思う」と松本隆は後述している。

 『風街ろまん』は、「風をあつめて」、そしてこの「夏なんです」、他にも、江戸川乱歩の「あやかしの世界」を想起させる「暗闇坂むささび変化」(「ももんが」は、1906年の夏目漱石の『坊ちゃん』からの引用だろう)、スモーキー・ロビンソンばりのファンキー・ソウルが弾ける「あしたてんきになれ」など、細野作品の重要性が際立ったアルバムだ。言い換えれば、大瀧詠一と細野晴臣がビートルズのジョン・レノンとポー・マッカトニーのような関係に至ったアルバムだとも言えよう(前作『ゆでめん』は、重要曲という視点からは、大瀧主導であったろう)。また、鈴木茂が「花いちもんめ」で作曲能力を開花させた点も、アルバム『風街ろまん』の収穫の一つであった。

 『風街ろまん』で在りし日の東京の街とそこでの日常を脱構築して見せたはっぴいえんどは、決して多くはないが、熱心なはっぴいえんどファンを全国に持つに至った。アマチュア・バンドを組んでいた筆者は、自分の住む地方都市を脱構築し、自身の「風街」を構築しようとし、はっぴいえんど風の曲づくりに挑戦してみたが、実力不足で成就しなかった。

 しかし、プロのミュージシャンは、流石に違った。細野晴臣がバンドの名づけ親でもあるセンチメンタル・シティ・ロマンスは、『はっぴいえんど/センチメンタル・シティー・ロマンス』(1983一はっぴいえんど解散10周年の年)で、はっぴいえんど作品全10曲を見事にカヴァーして見せた。そこでは、オリジナル10曲に、それぞれセンチのウェスト・コースト・サウンドを塗した仕上がりになっており、一聴の価値は十分ある。加川良をヴォーカルに迎えた「いらいら」は、ラテン風味の珠玉のロックナンバーとなっている。「外はいい天気」は、キングトーンズばりのドゥーアップで、「いいね」を差し上げたくなる一品。個人的には、センチを離れて、「一人ビートルズ」のアコギーサウンドを展開するサージャント・告井・ロンリーハーツ・クラブ・バンドの告井延隆さんのスウィングするプレイに拍手! 彼と筆者は、何度かビートルズ関連のトーク&ライブで共演したことがある。

 はっぴいえんどの解散20周年を記念して企画されたカヴァー・アルバム『はっぴいえんどに捧ぐ』(1993)は、当時の若手ミュージシャン中心のラインナップで、はっぴいえんど作品に、それぞれの解釈を加えた作品10曲が並んでいる。東京スカパラダイスオーケストラによるスカ・アレンジが施された「あしたてんきになれ」は出色のでき栄え。真心ブラザーズによる「風来坊」は、インドネシアのケチャのリズムを始めとする様々なリズムからのサンプリングを原曲に埋め込んだ意欲作。GARDENがカヴァーした「12月の雨の日」は、原曲にモダンでハイテクなテイストが味つけされていて、「1993年12月の雨の日」にタイトル変更してもいいだろう。

 2002年には、『はっぴいえんどかばあぼっくす』なるカヴァー集が発売された。はっぴいえんどが残した全作品をカヴァーするというプロジェクトで、合計5枚組のボックスだった。オリジナルの3枚のアルバムは、すべて曲順通りにカヴァー収録し、ライブ盤に至っては、そのライブの場所までカヴァーするという徹底ぶりだった。

 このように、ほぼ十年間隔で高質なトリビュート・アルバムが世にでてくるはっぴいえんどは、日本のロック史上最強のミュージシャンズ・ミュージシャンが集ったバンドだったと思う。

 

 

 

 

『風街ろまん』ジャケット見開き