自分で思っているほど人は気になどしていない、気にしていないどころか気にされていない、かといってちっとも気にしていないってこともないわけで、だとすると気にしないのはどういうことなのだろうかとか思ったりするのだけれど、そうこうしているうちに気にしだりして、人が思ってるほど気にしてないわけでもないのかもとも思うのだ。
あらゆる自分の知らないこともどういう訳かどこからかしみ出るように徐々に意識の中に拡がって知らされないでもいつの間にか知ることとなる、知らされないことの哀しさは知り得た時には諦めに変わっていたりする。何気ない出来事が人を変えてしまうことは当然あるはずで、それを誰も責めたりは出来ない。
街中を流しているとなんだか現実感から遠退いていく気分を味わい、流れていく風景や人、その匂い、柔らかく聞こえてくる音、まるで身体中に感じる布団の中で微睡んでいる時のような暖かさや風の心地よさ、現実ではないと錯覚していきなり路地から現れる車両、対向車、歩く人にぶつかり目覚めると本当は3月11日よりずっと前で震災なんて誰も考えもせず相変わらず惰性のままだけれど少なくともまだすっかりそのままの日常が流れていたりしたらと夢想する。
正直震災が無くてもおそらく春の訪れが遅いのは感じていて、ソメイヨシノも少々長く咲きすぎて散るのはあっという間で、どういう訳かずっと寒く、その内ゴールデンウィークも間近になってやっと新芽の青臭い匂いを昨日今日辺りから街中を流している鼻腔に感じてああ春が来たと思えるようになり、そうこうしているともう植え込みの躑躅が咲いているのをみると春の短さを知り、当然虫たちも飛ぶアブラムシから揚羽蝶まで見かけて、昼夜の強風に乗ってそれらいきものの息吹も一緒にやってくるのを感じる、そしてあっという間にもう初夏になる。
向き不向きっていうのが人にはあって無理して続けているとしんどくなったりする、でも続けることが出来るのに途中で止めてしまうっていうのもなんだかもったいない気もするし、かといって続けて良いものかという気にもなったりする、とどのつまりそう云うことを考えたり思ったりすることに生産性は無いと云うことだ、結局大概は惰性で何事も続けることになるのだから。