タイミングの狂うときは、身体に意識が置いていかれたり、意識が先行してしまい、身体が付いていけなくなるかのどちらかの状態にいる場合なのではと最近思う、例えば道で路地や交差点に差しかかった時に偶然とはいえ繰り返しタイミング悪く人や乗り物に接触しそうになった時や、公共交通機関を使うときに僅かな差で乗れたり乗れなかったりする時などあらゆる場面で狂いは生じ、それらは実は思い過ごしでしかない意識を実体に固定出来ているかどうかというのを意識的にしているかどうかだと最近気付いた、もっとも因果関係が証明出来た訳ではない。
思い過ごしだといいのだけれどちょっとした違和感や記憶のズレに遭いひょっとしたら自分の気付かないところで世界が進み、勝手に世界中の事象が進んでしまい記憶どころかその時間だけ失われているのではないかと、これは誰かの仕組んだ悪いイタズラなのではないかいや頭がおかしくなっていてすっかりそこだけ意識が抜け落ちているだけなのではと不安になり、何度も色々記憶を手繰ってみるのだけれど、現実のはっきりしている感覚や認識とは対照的にまるっきり心当たりを見つけられないままなのだ。
出来事は多重に起こり、徐々に偽りを重ね始め、しまいには元々存在していた信の部分は見えなくなり、終いには自己を簡単に終わらせるほどに重層化し、それは重なりを剥がすのではなく払いのけた場合のみ元々在ったであろう自己を支えうる思考を再び思い起こす事が出来る。ただし多重化した状態に落ちいり自己自体どの階層に存在しているのかをつかめなければ剥がすのすら難しくまた時間が掛かりまた掛かれば重層に染みだし始め払いのけることすら難しくなるのだ。
余り建設的な話しにはならないまま、半日をいい大人が大して意味も無く歩いているだけという事態がそもそも間違っている気がしていて、せめて前向きな姿勢くらいはとも思うがそれも望むべくもなく、希望に満ち足りていたであろう日々とは明らかに違うというのはお互い感じていて、見せかけだけ見栄を張って、前を向いているなんて口にしないところだけはいさぎよい気がしていて、自分はなんか駄目だなあと依然同じように思っていて、人はいつでもどうなろうと当たり前に客観に物事は見られても、思考は主観で有り続けている。

だいぶ平常に都心は戻ってきた気はする、物が無かったりということは解消されている、変わったことと云えば以前は置いていなかった商品が新たに置かれたことくらいか、品不足が起こらなかったら相変わらず変化のない商品陳列だった事を考えれば、明らかに影響を受けているというのを二ヶ月経ってからも買い物をする度に思い出すきっかけにもなる、原子力発電所も相変わらず状態は平行線のまま危険をまき散らし、取り上げるメディアも減り、それでも毎日何かしらニュースを見れば必ず情報は伝播され、記憶はあの日をすぐに思い出させる、いや平常は戻ったのではなく地続きで相変わらず変化し続けているのを思い知るべきなのだ。